Lloyd Loar のマンドリン

それは前のブログにも書いた通り“ハ”の字形のトーンバー備えていました。


そしてサウンドホールを丸から“f”ホールに変えることで楽器の音に大きな変化をもたらします。


マスターF5

この写真は有名な

ブルーグラスの父“ビル・モンロー”が使用していたものです。


このスタイルは今も変わる事なくマンドリンスタイルのマストになっています。


でも、彼の仕事はそれだけには止まりませんでした。


F-5のスタイルはバイオリンからのイメージをマンドリンに取り入れたのです。

そこで彼はチェロをギターに置き換えたデザインを思いつくのです。


それまでのGibson社最高のギターはオービルギブソンによって設計さたスタイルOでした。

※スタイルO


ロアはボディのボトムラインの横幅を16インチになるよう設計し“f”のホールを取り入りれてネックのジョイントを14フレットに置く事でバランスの良いスタイルとサウンドを手に入れるのです。


※当時のGibson社カタログより

ここにGibsonのギタースタイルの基礎が確立するのです。
製作のノウハウはマンドリンから生まれたもので着色や仕上げも同様のもでした。

L-5は“Super 400”が発表されるまで、何年もの間ギブソンの最高峰のギターでした。


後にフラットトップの開発にもこの考え方とデザインは生かされることとなります。


そして1923年にロアは電化弦楽器の実験を始めました。

ロアはプロトタイプのエレクトリックGibsonハープギターをこの年に製作しています。


ところが残念ながら、ギブソンの首脳陣達はロアの方向を良しとしませんでした。

信念を貫くために翌年の1934年にロアーはGibson社を去ることになります。


彼は出資者を募り新たな様々な形の電気楽器の製作に取り組みますがそれも設立後間もなく“世界大恐慌”(1929年)により彼自身挫折することになります。


混沌とした時代に生まれた彼の残した仕事である“ViviToneエレクトリックギター”はロアのパートナーにより1940年まで販売を続けました。


1930年代のViviToneエレクトリックギター

※ネットより拝借いたしました。


歴史のイタズラが無ければ・・・。

世界は変わっていたのかもしれません。


ロアは晩年ノースウェスタン大学で音楽理論を教える仕事をし1943年に57歳でその生涯に幕を下ろします。