こんにちは、のほせんです。

梅雨をまえに、愛らしいえごの花が落ちて、あじさいの蕾がふくらんできました。

火ぶくれ病だった桃の幼木も、葉っぱにようやく勢いがあらわれてきました。

天候異変だとさわぐ近視眼の人間たちにかまわず、

花木はみずからの営みをもっと遥かに遠い自然の大系にしっかりつなげているようです。

みなさまも井穴刺絡療法に則って心身の自律神経をうまくコントロールして、

つぎの季節をむかえるようにしませんか。

・・・さて今回は、クスリに依存した不幸と、

心理カウンセリングの言葉に真剣に耳を傾けた方のお話をしてみたいとおもいます。

はじめに、このまえに「中学1年生の娘が不登校気味で、どうしたらよいのか相談に」来られたおかあさんのおはなしをしましょう。

よくあるご相談ですが、たしかに娘さんはうつ病チェックに該当するものをかかえられていましたが、

このおかあさんは「自分が変わらないといけない」ことを自覚されていました。

カウンセリングでもっとも大切な考え方をよくおわかりだったので、

わたしは、もうはじめから安心してカウンセリング指導ができたわけです。

ふつうはこの「親が変わらなければ子は変われない!」ということを自覚していただくことに多くの時間と言葉を要しますから。・・・

ですから予想通り、翌週の面談カウンセリングで、
おかあさんは満面の笑顔で涙を流されました。 よかったですね。・・・

・・それとは真逆の事例が新聞記事としてのこされていましたので、ぜひ最後まで読んでください。
2012年9月4日付けの中日新聞の記事によれば、

・・・ うつ病と診断される人が激増している。
一方で、向精神薬の大量処方や不適切な診断で、病状が悪化してしまう被害が後を絶たない。日本うつ病学会は初めて、安易な薬物投与に警鐘を鳴らすガイドラインを公表したが、
薬害の被害者らからは「国は徹底した実態調査をしてほしい」と望む声も上がる。- -

 「幸せの絶頂だった娘が自ら命を絶つことになるなんて…。今でも信じられません」。
今年7月上旬、37歳の長女が自殺した東京都内の自営業、鈴木ヨシ子さん(67)=仮名=は涙を拭った。

 長女は3月に出産後、授乳による寝不足などで悩み、5月に精神科を訪れた。
産後うつと診断され、睡眠薬や抗うつ薬、抗不安薬などの向精神薬を処方されたものの、
急激に体調が悪化。生後4カ月の息子を残し、自宅で首をつった。

 長女は服用直後から副作用とみられる症状を発症。
亡くなる当日までつづった手記には、急激に心身が衰弱していく苦しみが書かれていた。
「頭痛が重くなり、音がすごく響く」 「喜怒哀楽がなくなった」 「起きているのもつらく、体が動かない。耐えられない」。
鈴木さんは「薬を飲まなければ死なずに済んだのでは、との思いがなくなりません」と話す。

 東京都練馬区の佐藤ミホさん(19)=同=は、中学生だった6年前、
学校での人間関係に悩み、精神科に通院。 1年間にわたり投薬治療を受けた。
ところが、たびたびパニック障害や全身硬直、眼球の反転、ひきつけを起こすなど重症化。毎日10種類も服用していた。
心配した母親(49)が医師に「薬がおかしいのでは」と尋ねたが、聞き入れてもらえなかったという。
別の医師の指導で薬を中止した。断薬後の離脱症状で苦しんだが、ようやく最近になり回復した。

 母親は、医師の投薬が不適切だったとの思いが消えない。
「子どもに寄り添うことこそ大切だったのに「薬ならすべて解決してくれる」と妄信した自分の責任です」 と悔やむ。・・・

・・・この新聞記事にあるように、
こうして日々、たくさんの悩める家族が心療内科や精神科に足を運んでいるのが実情でしょう。

たしかに、「どうすればよいのか途方にくれる」ご家族が医師に頼ろうとするのは無理もないことです。

「良かれと思って、懸命に子育てしてきたのに!」というお気持ちを
まず、うけとめたいとおもいます。

そしてそのうえで、

だからこそ、お役に立てればと ねがっています。・・・
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こんにちは、のほせんです。

春の盛りに、ひとはじぶんを見失うことがあるものですが、

そんなときは、副交感神経が過剰に昂奮していることでもありますから、

とりあえず井穴刺絡療法でひとまず精神のバランスを安定させましょう。

さて、宮城の震災被災地の相談者からいまも節気ごとに律儀に贈り物をいただき恐縮するばかりなのですが、

このこともかれの心的な孤立を避ける、社会との関係維持のひとつの表現かとかんがえてみることにしています。

かれは生来の生き難い日々のなかにいたうえに、

さらに激甚な震災に遭うという非情な現実を背負わされたひとりです。

そこにはけっしてわたしたちには推しはかれない過酷な苦悩の毎日があり、

「明けない夜の闇」のごとき毎日をくいしばって生きてきたのだろうとおもうほかありません。

わたしなどはできるだけかれの心に寄り添うことしかないのですが

それさえもたしかにできているとはいえないもどかしさに恥じいるばかりです。

おなじく苦悩の日々をおくる福島の東電原発事故被災地のひとが

「フクシマの嘘」(YOUTUBE)というタイトルのドイツのメディアの告発報道に登場していました。

浪江町の閉鎖区域の牧場の牛たちを世話するYさんは、

汚染された草を食べる牛たちに「皮膚白斑症状」が出ていることを訴えています。

行政の殺処分指示に対して、かれは

「おれたちは殺さない。生きてると困るのは政府だ!」と言い、

福島医大のエライ教授の「ニコニコしてれば怖くない!」といった政府お抱えの人でなしプロパガンダに徹底抗戦しています。

この報道のなかではさらに、阿武隈川の川床汚染が指摘されています。

だがどんなに汚染数値が高くても、

政府が許容基準値をちょいと変更すればパスできるわけで、
「ただちに問題なし!」というペテンがまかりとおっている。・・・

そういえば「パイレーツ・ロック」という映画には、

文字どおりの海賊船放送局の大人気に快くおもわない連中の閣議で、

「かれらは法律に反していませんが?・・」
「それなら、かれらを罪人にしたてる法律をつくればよい!」

というエライ大臣のお言葉に唖然としたが。・・・

権力におごり、保身に執着する連中はどの世界でもおなじやり口を常套手段にするものです。

そんななかにあっても、真摯に現実にむきあおうとするひともおられる。

泉田新潟県知事は、隠蔽欺瞞の巣窟であり原発ムラの頭目である東電首脳部に不信をつきつけているひとりです。

かれは言う、
「再稼動プランでは事故が起こった場合に、銀行、株主も責任を取らないことになっている。
だから(事故を起こしても)痛くもない。」

フクシマ原発爆発事故以来、東電は国から約5兆円も援助をうけながらまだ
発電コストが安いなどとメディアに宣伝させつつ、

またしても、あらたな「安全神話」づくりを謀っているようだ。

1994年にはすでに、ハリウッドの申し子のようなスティーブン・セガールでさえ、

映画「沈黙の要塞」では、環境破壊と強奪のかぎりをつくす国際石油メジャーの本質をつくメッセージを発しているというのに。・・

この国の未来は、映画「希望の国」(園子温監督)のようにふたたび事故が起きて、

見捨てられた被災地に孤立して、ただ 「おーい! おーい!」と無人の世界に声を限りに呼びかけ叫ぶことになるのだろうか?

作者が「希望の国」と書きしるしたタイトルは、

「ゼツボウのくに」と読めというメッセージにほかならない。

この日本という国は、この国のひとたちはいったいどうなってしまったのか?

思考回路がドン詰まったまま、

明るいゼツボウに誘われて常同症をくりかえす毎日をつづけていくのだろうか?

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こんにちは、のほせんです。

桜があやしく散り染めた道を 

そっと歩んでゆく心地よさを 

つかの間とはいえ、あじわえてすがすがしい。・・

さて、みなさんは桜の季節をどのようにおすごしですか?

すこしおそくなりましたが今回は、「心の病気の現実」についておはなししたいとおもいます。

心の病は、
「なんだか人とうまくやれない」といった一見それほど深刻ではない、
正常な人の悩みのようにみえるものから、

医者から「00性00症候群」などと診断されて、向精神薬を山ほど処方されている人の症状まで、
多様に発現されるものです。

しかし、その「うまくいかなさ」をふくめた “病の根っこ ” のところには、

その人のご両親とくに胎乳幼児期の母親の性格的な影響がすりこまれています。
(以前の「性同一性障害・母型論考」に原理論をくわしく記述しています)

そのほかにも、幼児期に親子が同じ部屋で寝起きしたか?

あるいはなんども転校したか?

片方の親の愚痴をよく聞かされたか? など

子どもの性格形成にとって無意識のうちに負の学習、心の負担がくりかえされてきたことも要因となってきます。

子どもの性格形成すなわち社会にたいする受けとめ方、ものの考え方が

自我の成長の過程でも、その子の根源的な負の学習やゆがんだ母子関係が

かならずといってよいほどさまざまに影響をおよぼすものです。

また、その子の負の影響の度合いによっては

社会、人の輪に理由なく違和や不安緊張を感じたり、反発をいだいてしまうことから、しだいに

じぶんの観念の世界に内向することをよしとしてゆくようになっていきます。

心理カウンセリングでは、
こうした社会への不適応のものの考え方をあらためてゆくための “再学習” が

病理の程度の差がどうあれ、それぞれに必須のことになります。・・・

ただし、社会そのものもいまのあり様をおおきく転換されなければならないわけですが・・・。

-- このまえ映画「路上のソリスト」を観る機会がありました。

いわゆるアスペルガー症候群とみられる青年が

社会からはじきだされ路上生活をしいられるなかで、

二弦しかないバイオリンをゆたかに響かせるかれに魅かれる人があらわれます。

記者だというその人は、
「ときどきおかしくなることがある自分がこわいんだ。」というかれを精神障害者施設につれてゆく。

だが、施設のベテラン責任者は記者の素朴な願いにリアルな言葉でこたえる。

「病名など知っても仕方がない!」
「かれらは皆診断を受けてるが、何の役にも立ってない!」
(記者)-「しかし薬は必要だろう?」
「必要なのは、治療が必要と宣伝する人間の方だけさ。」

これが米国精神医療の現場であり、“ほんとうのこと ” なのだ。

もっとも日本もすこしも違わないだろう。

クスリ漬けビジネスのおいしいお客さんにすぎないようだ。

このロサンジェルスの施設のまだしもよいところは、
過剰な治療をせず、すくなくとも個々の孤立を防いでいる点にある。

重度の人でも過剰な介護を廃し、できるだけ好きなスタイルのままにすごさせていることが救われるところだ。

とりあえず現実にいま、何より大切なことは、
周囲の者だれもが、“ たがいにどんな相手をも受け入れてゆく ” ことによって、

すこしでもおたがいの孤立を防ぐことで安心を得、

生き難さにさいなまれる心の病をやわらげることであろう。

心の病から解放される前提には、もっともっと

おたがいの個の尊厳を確認しあえる社会の成熟がもとめられる。・・・

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こんにちは、のほせんです。

寒の戻りの一撃というか、朝方のぎっくり腰一歩手前の症状にあわてて足の小指を刺絡しているところですが、

みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

さてこの国は、
眼には見えないけれどそれゆえに、相当あやういところにきてしまっているとおもわれます。

つい先日の千葉県柏市の連続通り魔事件は、そのことを特異な姿であらわにしています。

まずなによりも、このような時代に不幸にも亡くなられた男性のご冥福をお祈りもうしあげます。

-- それにしても、逮捕された容疑者Tは、あきらかに心的病理をあらわしているとおもわれます。

例によって、マスメディアに元刑事や、心理学者が出てきて、的外れなコメントをしていますが。・・・

だがまず、すくなくとも自分の住居の目と鼻の先で事件をおこす人は、
「正常な」悪党・犯罪者とはいいがたいわけです。

また、「金が欲しかった」物取り目的なら、このような手当たりしだいの破壊的な行動はしない。

なぜなら、どんな悪党にとっても、
隠れてひそかに利益を奪い手にすることが犯行目的であり、「成功」にちがいないのだから。

すると今回の容疑者の場合、
「ほんとうにさいごまで身を隠すつもりがあったのか疑わしい」行動から推察すれば、

かれは、悪党らしく「確実」な利益を手にすることよりも、むしろ

「 凶悪な事件」そのものを引き起こすことが目的だったとかんがえるほかないだろう。

それを証明するかのように、
前日には大勢の報道陣を相手に得意顔で目撃証言を語っている。

「 じぶんのことをテレビ局が撮っている!」この場面こそが、
容疑者Tにとっての「 晴れがましい! 最高に高揚する瞬間」であったかとおもわれる。

それがどんなに奇矯なふるまいであったにしてもだ。

かれこそが殺傷事件の真犯人であるにもかかわらず、
成りゆきからだろうと、なんだろうと、
晴れの舞台がセッティングされたことに快感ホルモンがどーっと脳内にあふれかえったことだろう。

そしてじぶんの欲求のためなら口から出まかせを得意げにしゃべる、
いわゆる虚偽や騙すことなどは
この病理傾向の大きな特徴であるからだ。

警察に踏み込まれたさいに 「チェックメイト」と言い、
また逮捕されたあとに、周囲の報道陣らに 「バンザイ」らしき言葉を発したことも
現実から解離した者の、破綻した姿を露呈しているとみなされる。

この病理傾向とは分裂症的な言動のことであり、まことに疑いようもない。
日々の抑うつ的な生き難さのなかで内向し、
右脳に塗り固めていったかれの自己観念はしだいに強迫性妄想と化し、
いつでも現実社会のなかへと踏みだす用意ができあがっていたと推察される。

そして、犯行じたいの契機は、
いままでの凶悪事件と同様に、
その人が抱えてきた生育歴のもたらす生き難さに見合う、
日常的な鬱の症状のノルアドレナリンやアミンなどの脳内猛毒ホルモンのマグマが閾値をこえてきたこと、
それにともなう無呼吸症状に堪えきれず、
とうとう鬱破りの見さかいのない破壊衝動によって、
かろうじてドーパミンを得ることで「生きようと」したことの結果であるとみとめられる。

くわえて、もしかれが長期的に向精神薬を処方されていたとすればだが、
副作用による発作が鬱破りの激越な衝動をよびこむのに加担したともかんがえられよう。・・・

このかれの生き難い病理症状とは、
かれに固有の病理にはちがいないものの、
また、この時代が、この国が、
生活者個々に現実乖離を強いてくる、生き難さから突出してきたものにはちがいないのだ。
まさに「かれ」を生みだす土壌は広大で、
わたしたちはどこの隣近所にもあるというように免れようもない時代をとうにむかえている気がする。

前に書きしるしましたが、現代日本は病んでひさしい。・・・
-- “戦後の「たのしい消費社会」が食い尽くされたあとには、行き場を失った依存症があふれてとりのこされた。・・・

この国をふくめた先進国では、ひとは尊厳どころか、存在の意味をも喪失させられ、

自覚あるひとは 心を病み、孤立し、
無自覚なひとは 無意識なあかるい絶望を背負わされて生きるほかないところまでおいつめられてきた。

この国のすみずみまで 依存症があふれかえり、
あるひとは、喪失感にさいなまれて 鬱病を病み、
また、ゼツボウとは真逆にみえるが、能天気を表現するしかないゼツボウのパフォーマンスにふける若者たちがスポットをあびて・・・。

すでにこの時代は、
政治などが制度を改革するだけではおいつかぬ、
はるかに あやうい 社会に突入していると おもいしらなければならない。・・・・・”

こんにちは、のほせんです。

厳しい寒さがつづいていますが、

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

冬季オリンピック開幕報道でさわがしい中、
あのトーキョー知事選がしずかに終わりました。

そして、「たいして何もしなかったパフォーマンスだけの社会保障制度の専門家」が選ばれました。

- 「世界一の福祉が進んだ街にします!」・・・(だから?) ジジババから金を巻きあげる消費税増税!

ついでに、自分たちにつごうのいい遠隔地の東京原発継続推進!

じつにおめでたい!

このようなろくでもない男がえらばれた東京 バンザイ!

人でなしに愚弄されながら、足を運んだ東京の住民 バンザイ!

いずれにせよ、東京の住民がどのような思考回路を有しているのかが了解できたのはたしかなことです。

前回のブログ記事でも述べたように、

しょせんは、選挙は「地域の催しもの」で、

おのれが何様のつもりなのか、
「ひとをバカにして」それでも選ばれる者と

「バカにされても」その自覚すらなく、いそいそと投票する奇妙な人たちと

その両者が 虚妄の 「みんしゅしゅぎ」の茶番に興ずる姿でしかない。

なかには、

推薦候補が落選しても、「健闘した!」と自画自賛する間抜けもいます。

この党派の人たちの頭の中は、

戦後何十年も、ただただ「自己正当化」に固執するようにできている。

「綱領」にてらして正しければそれでよしとするとき、つねに

現実のほうがするりと蜃気楼のように遠ざかることに気づかない。 

そのとき、生活者の希望が絶たれたことは一顧だにせず、

得意気でさえあるのは ・・・ 哀れなり。

また、
政治の権力闘争に負けて以来、楽隠居されてたのに、

何を勘違いしたのか、今回の都知事選の候補に登場してしまった方は

案の定、ただのお殿様選挙に終始してご退場。

これは心理カウンセリングでいう、

いわゆる日頃から好き嫌いをつかさどる右脳だけに頼る楽隠居のために、

他者からの自分を過大に評価する声に幻惑されやすく、

そのために現状分析にさいして希望的楽観バイアスがかかっていて、

つよい「美化の妄想」にとりこまれた結果の、

今回の唐突な、あるいは突飛にみえる思考、行動と理解できよう。

そしてむしろ、もう一人の

例の、戦後以来の「保身」政治家たち(現政権をふくめて)の傀儡であろう候補者が

相当数の票を得ていることの方が不気味な生活者の動向を反映していて要注意であろう。

このように、この国では病理的な共同意識が

ひたひたと、国民をとらえはじめて来ているのだが。・・・・・

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こんにちは、のほせんです。

厳しい寒気が日本列島を覆っていますが、

みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

年が明けて早々、いつもの下世話なマスメディアからは、

東京都知事選挙の憶測がクローズアップされています。

主たる候補者の一人目は、
介護経験学者政治家を名乗っていたときに、
社会保障制度の「カイカク」をたいして何もしなかったパフォーマンスだけの社会保障制度の「専門家?」で。

二人目は、
進歩派的なキャッチフレーズだけで、
特段に政治思想にみるべきものを持たないエライ弁護士さん。

三人目は、
とっくに政界を引退して、茶器、書画販売で悠々自適だった元殿様の血筋を誇る方が、
「脱原発」などととつぜん言いだし、
またまたどんな筋でひきたてられたのか不明のもうひとりの元首相とつるんでのご登場。
このエライ方についてのブログ記事は「細川護熙元首相の履歴書」をよくごらんいただきたい。
どうころんでも、ただ くだらない良家のおぼっちゃまとしかおもいようがないのだが・・・。

四人目は、戦後「保身」政権を継承する安倍内閣の政・官・産・軍体制派の意を体する元軍事官僚で、
安倍内閣のホンネはこれだが、勝てそうもないから推さないだけのこと。
コメントにも値せず。

これらをご承知なのかぞんじませんが、
日々、優れた時評を書き続けられておられる植草一秀氏は、
いまは脱原発勢力を二分してはならないと、危惧されている。
お説ごもっともなれど、いずれの立候補者も首をかしげてしまうお人なのは
如何せん?

はっきり申しあげて、
「選ぶべき候補者」がいない!

えらぶにふさわしい思慮と覚悟をもつ人物が見当たらない! のだ。

もちろん、世に人物が皆無だというのではない。
いくらもおられるはずだが、
野に在って 顧みられることもない。

つまりは、政治というお祭りイべントもので、
己が何様のつもりか「ひとをバカにして」選ばれる者と
「バカにされても」選ぶ者と
その両者が うすっぺらな 「みんしゅしゅぎ」の茶番に興ずることが好きなだけなのだ。

本当のことが、今回 あからさまになっただけである。 

こんな土俵で、「脱原発」も何も、あったものではないだろう。

戦前の
「利権増殖にはげむ官吏や、政争にうつつをぬかす政党、
ドル買いに狂奔して世人の怒りを買う財閥、
列強の鼻息をうかがうのに汲々としている政府に
国防の任にあたる軍人の怒りは充満している。」 という
かの青年将校たちの情況指摘は、正鵠をえたものにはちがいない。

さて、今日の情況は?・・・
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こんにちは、のほせんです。

毎日を気ぜわしく過ごすうちに、今年もおしつまりましてのブログ執筆となりました。

ちっこいながら、「心理カウンセラーの眼」を精いっぱい見ひらいていくとき、

社会のなかでおおくの人たちが無自覚のままに心を病み、

わずかな個人差を競って生き難い日々をおくっておられる情況にゆきあたります。

ただひたすらに「だれでもないわたし」、「だれでもないあなた」から歩みはじめて、

互いの個の尊厳をとりもどしてゆければと願うばかりです。・・・

しかし、個々の存在はこの社会、この時代の性格づけから免れえないものでもあります。

すると適応すべき現代社会が、かえって個々人を疎外し、取替え自由の記号化を人に迫るとき、

ひとは心身ともに生き難い諸症状に見舞われ、その尊厳を手放すことをしいられます。

すでに時代はウルトラ資本主義社会という未曾有の時代に突入していて、

「きゃりぱみゅ」のように、(意味無用の)商品化= (ドーパミン獲得による)快感 によって

ようやく自己確認に至れるという矛盾にみちたあり方だけが許される世界が示めされています。

それは自己(ひと)の喪失と絶望を、まったく無意識のうちに楽しく表現させられているようにおもわれてなりません。・・・

そしてこの社会は、また下世話なレベルのはなしですが、この国の政権の意思に多くをゆだねられていて、

それがなんともかんとも度し難い、「人でなし」の政治を
「全力で、しっかりと、粛々と」「決断し実行できる」-- アベノミックチュ政権であるから 呆れます。

隣国にむかっての「ふつうの独立国家」「靖国」「日本版NSC」パフォーマンスは、
軍需増大を迫る親方アメリカのご意向にそった、じつは国民向けの宣伝工作にほかならない。

まったくかれらは、敗戦時に自己保身のために自分からいそいそと米国に抱かれた、
戦争責任者とその族らの立てた無責任政権の負の連鎖の申し子たちに相違ない。

また、敗戦のトラウマをかかえつつ飢餓から生きのびた国民の側も、

米国の占領政策大転換のお先棒をかついだマスメディアの巧妙な御用宣伝にのせられたこともあり、

恥も外聞もなくこの国を売った(保守ではなく保身)政権の米国追従姿勢を疑うことなくそのあとにつづいた。

敗戦を境に皇国史観も「世界に冠たる帝国日本ナショナリズムの超越性」という幻想も手放した国民は

その喪失感から救われようと、ひたすらに米国の物質文明の豊かさに「希望」を見いだすほかなかった。

それがついこの前までの日本の国民の主たる生活意識であったといってもよい。

だが今日にいたって、時代は、
信仰するアメリカのプラグマティズムの洗礼にかつて酔いしれた日本国民を

さらに、未知の危うい領域へと、おし流しつつある。

戦後の「たのしい消費社会」が食い尽くされたあとには、行き場を失った依存症があふれてとりのこされた。・・・

この国をふくめた先進国では、ひとは尊厳どころか、存在の意味をも喪失させられ、

自覚あるひとは 心を病み、孤立し、
無自覚なひとは 無意識なあかるい絶望を背負わされて生きるほかないところまでおいつめられてきた。

この国のすみずみまで 依存症があふれかえり、
またあるひとは、喪失感にさいなまれて 鬱病を病み、
ゼツボウとは真逆にみえるが、能天気を表現するしかないゼツボウのパフォーマンスにふける若者たち。・・・

すでにこの時代は、
政治などが制度を改革するだけではおいつかぬ、
はるかに あやうい 社会に突入していると おもいしらなければならない。・・・・・

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こんにちは、のほせんです。

このあたりでは 雲が晴れたり急に時雨れて、霙になったりと不順だった天気もおさまり、

ホッとやわらいだこの二三日ですが、

みなさんは、いかがお過ごしですか?

日々の暮らしに精を出しているあいだに、

わたしたちの頭越しに、人でなしの悪法がつぎつぎと採決されています。

このブログでもたびたび都合のいい「民主主義」の虚妄性に言及してまいりましたが、

いまや政権がみずから、その民主主義の仮面を投げ捨て、

国民主権の大原則を全面的に否定する内容の悪法をたちあげ、

なんとそれを、民主主義の採決によって決めるという馬鹿馬鹿しい茶番劇で閉めようと図っています。

さてこの悪法は、大正14年に普通選挙法と引き換えのように制定されている治安維持法に類似したもので、

なかなかに年代モノで、「人でなし政権」にとってはよだれが出るほど美味しい得物といえよう。

昭和二十年の敗戦までに大勢のひとたちがこの国民主権を問答無用とした悪法に辛酸をなめさせられたが、

先日来書きついでいる高橋和巳の著作「邪宗門」のモデルとなる、
俗にいう大本教にも昭和十年に適用され、

第二次大本事件といわれる凄絶なたたかいが、治安当局と交わされている。

その前にさかのぼれば大正十年(1921年)から始まった政府による弾圧である
第一次大本事件があった。

出口王仁三郎氏が逮捕・拘束されたほか、既成マスコミ(新聞)からの総攻撃を受けた。

容疑は不敬罪と新聞紙法違反の罪である。

マスコミはいつの時代でも政権にすり寄り、
御上のご意向どおりのデマをヒステリックに煽り立てる番犬でしかないことがよくわかる。 

-- 高橋和巳「邪宗門」 その二 前史から・・・

“ 文明開化の恩恵を受けられず、かえって追いつめられていった小作農や、
機械の間をこまねずみのように走りまわるうちに体を冒されていく女工たちの間に、
開祖の教えは急速にひろまった。

胸を病んで解雇され故郷に帰ろうにも帰れぬ女工たちが訪れ、
この此岸に幸せのありえぬ貧者の宿命を説かれ、
それが強烈な宿命論であるゆえに、
ある女は熱狂的な使徒となり、またある者は病による死を待つことなく自殺していった。”(一部略) --

こうした教団の生い立ちを経て数十年後に、時の政権による教団弾圧がおこなわれた。

すでに開祖は亡くなり、のこされた者たちで再建会議をもつに至る。

“ もう数ヶ月も、差し入れが許されるだけでO氏との面会は許されませぬ。

伝え聞くところでは、警察や新聞雑誌の流す悪質なデマの為に迫害や圧迫が各地の信徒におよんでいると聞きます。” --

“ もちろん、不当な言いがかりなんじゃから、黒白をつければ、無罪は当然ですが、
なぜ予審がこんなに長引くんでしょうな ” -

“ それはですね、最初の告発から無理があったからです。

表面の告発理由とは別な政治的な意図がかくされていたりする時、

裁判はでたらめに早く帰着がつけられて闇から闇へほうむられるか、

今度のようにぐずぐずして、予審の過程で何ヶ月も費やされることになるものなのです。” -

“ さかのぼれば明治十年、政府は外国の干渉によってやむなく「信仰の自由」をみとめたものの、

明治九年の「衆庶参拝禁止令」は撤回されず、新しく神仏を祀ること、信者が集まりをもつこと自体が

弾圧の理由として残されました。天理さんにせよ、金光さんにせよ、何度かの幹部の投獄をみております。” --

司法の独立などあったものではなく、これが当時の政権の振る舞いであるわけですが、
時が移った現在の政権の本性は、まったくこれと酷似していて、あきれるほかない。
わたしたちの「個の尊厳にかかわる自由」の根幹が、今にも音を立てて崩されようとしている。・・・・・

- 当時の大本教の最高幹部の一人が、教団を救わんとしてまた、天子の心を動かそうとして「死諫」をつらぬいた。

葬主の二代目教祖が哀悼の辞をのべる。・・

“ たぶん天は私たちを見捨てようとなさっているのでありましょう。・・・

もし鬼神にも情あるならば、この私たちの悲しみを見よ。

教団創業の折より、かげに日なたに教徒をいつくしみ、教主をたすけたもうたOO先生は
教団を救わんとて、

天子に諌暁の書をたてまつり、そしてそのことで教徒に迷惑の及ぶを避けんとして、自刃したまいしを。・・・

にもかかわらず私たちに加わる迫害は日ましに激しく、・・・。

私たちはこの悲しみによって、悲しみというものがどういうものかを知りました。

私たちはこの怒りによって怒りが何であるかを知りました。・・・・・・”(一部略)

(次回につづきます)
......................................

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こんにちは、のほせんです。

一足飛びに冬がやってきたような具合ですが、

みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

寒くなると交感神経が緊張度を高めるために、さまざまな身体症状があらわれてきますのでご用心ください。

すこし気がかりなときには、ぎんなん先生の井穴刺絡療法でセルフコントロールしてみてください。

また、だんだんとおしつまってきますと、焦燥感、不安感が増したり、

いまの関係をこわして逃げ出したくなったりと、精神的な動揺があらわれやすくなります。

もちろん、そのようなときにはためらわず、わたしどもにお問い合わせください。

- さて、今回は前回のお話につづいて、この国の「人でなし」政権の壁に阻まれ苦闘するがゆえに、

天皇への「直訴」におよんだ山本太郎氏の思考・行動の歴史的意味を読みとるために、

やはり絶望の果ての直訴に向かうほかなかった人たちがたどった昭和の歴史的事件をひもといていきたいとおもいます。

それにしても案の定、御用マスメディアはよってたかって山本太郎氏を袋叩きにし、さすがに

彼も疲れ果てた様子で反省のコメントを吐かせられ、おかげで脱毛症もひどくなっているようです。

ようするにこの平成の時代にもかかわらず、「不敬罪」をマス・ヒステリーによってリンチ(私刑)で実現させたということである。・・・

- さて、昭和の初めの物語は、信仰を抑圧してくる者たち・強権とのたたかいと、内なる信仰の「ころび」の苦悩、

そして敗北と逃亡の果ての即身仏のような死を、徹底して描いた人間の「個の精神」の極限の物語といえるでしょう。

それこそは、高橋和巳の渾身の著作「邪宗門」にほかなりません。

民が神懸かりとなり、また周囲の民がその神懸かりに魅かれて信仰に向かわすものとは、何か?

まずその辺りから紐解いていくとしましょう。

著作、- その二 前史 に、仮の名で新興教団の開祖の女性の生い立ちが記されている。

“ 安政二年、開祖は貧農の三女として生まれたが、その年大飢饉があり、そのうえ “ころり ” が全国的に流行した。
数しれぬ人々が厄災に苦しみ、屍を野ざらしにして死んでいった。
この教団には “六終局 ” という、世なおしの前に、この世が経験せねばならぬ六種のカタストロフの予言があって、
それの開祖誕生の年の惨禍が結びつけられているが、もちろんそれは偶然にすぎない。
開祖生誕の時、生まれてくる児をまびくか否かで、母と姑がいがみ合い、産婆のとりあげた児を、母が血まみれで抱いて、納屋へ逃げ込んだといわれている。
母は産褥熱をわずらって死に、開祖は誰の児かわからぬ児をうんで近くの祠に住んでいた白痴の娘の乳によって育てられた。
しかしこの事実も、むしろありふれたことだったことに意味がある。
生まれたときから歓迎されぬ児として生き、読み書きも教えられずに、子守娘に出され、つぎは地主の家に女中奉公に出された。
そして心に秘め思うこととは関係なく、仕える家の主人の命ずるままに出入りの大工職人にとついだ。
その平凡さが、初期の女性信徒たちの、ドラマなき悲哀と忍従の生活史にそのまま重なった。
開祖が神がかりの状態で口にする言葉は、表現するすべを知らぬながら、体験において共通する女たちの胸をついたのである。”(一部略) - - -

作者は「信仰」に向かう当時の民の心情とその高揚の機微によく理解をしめしている。

- 大工職人にとついだものの、やくざ趣味が昂じて腕を折られて以来その夫は荒んで酒びたりになり、
そして彼女が行商にでたすきに、長女を遊里に売り飛ばし、長男を質屋の丁稚にしていた。
怒った彼女は残った二児をつれて姉の嫁ぎ先に身を寄せたが、その間に夫は死んだ。
酒に酔いつぶれ野壺に落ち、糞尿にまみれて死んだのである。
“ 死と糞尿と蛆虫のイメージ ” が開祖のお筆先が描きだす世界の終末図にひんぴんと現われるのは、おそらくそのせいだろう。 -

- 義兄につまはじきにされ二人の子を外に出し、無理強いに六十をこえる高利貸しと再婚させられたあげく二児の子どもが生まれたが、
度を越した吝嗇の夫に不貞を口実に離縁されたのが三十七歳、五年間辛抱して二人の不幸な子どもを得ただけだった。
さまざまな仕事に励んだが、あるとき行商に出た留守の間に下の娘が餓死していた。
彼女は元の村の白痴娘のいた祠に、生き残った児と住んだが、コレラの流行で
だれ言うとなくコレラのもとはあの乞食女だと言いふらされ、その祠も焼かれた。
一ヶ月余り、夢遊状態で、彼女は六つになる児をつれて山中をさまよい、虫を食い蛇をとらえて食い、
そして次に山から降りてきたとき、子どもの姿はなく、目をらんらんと輝かせて、何かわけのわからぬことを叫びながら町を歩いた。
「六人の子を生んで、四人に先立たれ、残った子にも背かれた母親の命になんの意味があるのだろうか、と。
なぜ長男は戦死したのか。なぜ長女は娼婦になり病毒におかされて死んだのか。なぜ次女は地主の納屋で首をくくったのか。なぜ三女は末子を餓死させたのか。
その三女は山でどうなったかを彼女は言わなかったが、それよりそんな奇妙な問いにまともに答えてやる者はだれもいなかった。
とつとつと、しかしある迫力をもった声で同じことを問いかけるのだった。・・・」(概略) - -

- ただ一人、浄土宗の僧侶がまじめに彼女に応対した。
前世の因縁や浄土の救いを説いてもあんたの耳にはとどかんだろう、どうしてもその五つの問を解かずには死ねんというなら、
自分でものを考えすすめるよすがに、文字を教えてあげようと僧侶が言い、数ヶ月間、乞食女と酒飲み坊主との奇妙な問答がつづいた。・・・
開祖のお筆先に濃厚にみられる末法意識も、その僧侶の影響とおもわれる。
やがてふたたび開祖は山に入って姿を消し、今度あらわれたときには、怪しく人をひきこむ抑揚で、人の悩みを射当て、人の病を癒す祈祷師となっていた。
今度はコレラ患者に彼女が触れると奇跡的に癒されるというまったく逆の噂がたち、医師の手当てをうけられない貧しい人々が彼女を崇拝しはじめた。・・・ -

だれしもがおどろかされるだろう、この彼女の「神懸かり」譚には特段の嘘も誇張もないであろうと、吉本隆明氏はこの著作によせての小論「新興宗教について」でのべている。

- まず田中佐和という超心理学的な能力を商品として売っている若い女性について、つぎのように記している。
“ この種の超心理学的な能力が、他者の心的な状態に、容易に共鳴しうるいわば原始的心性を、
常人よりもおおく保存しているにすぎないことは申すまでもない。・・
彼女の能力の由来の物語は、かくべつ本人が嘘をついているわけではないといっていい。
彼女の夢の話は巫女譚として変わったところはないし、神秘性もない。 後半の記述は、この女性の入眠幻覚あるいは白日夢である。
一頭の猪があらわれ、山道を登るのを背後から牙で押しあげてたすけてくれた。
この猪は愛宕神社の祭神の使いであり、一緒にいた母親には視えないと書いている。
このとき、この女性は入眠状態あるいは白日夢の状態にあった。・・・
この女性はこの入眠体験を契機として一種の精神病理学上の幻視や幻聴をひんぱんに獲得しうるようになったというにすぎない。
じぶんでは「その日を境に、私には霊能が開け、透視・霊視・霊聴が」はじまったとかいっているが、
もちろんそんなことは何の意味もない。ただ手易く病理学上の幻視や幻聴を体験するようになったというにすぎない。
この入眠幻覚の状態は、分裂症患者の体験する症候とすこしもかわりないが、
病者としてかんがえ難いのは、この女性が入眠幻覚の状態で、他者の心的状態に容易に移入しうるため、
この他者体験が入眠幻覚にある客観性(普遍性)を与えることになりえているからである。
また最初の入眠幻覚が、土俗的な宗教体験としてやってきたため、自身にとってはこの心的な状態が
一種の優越感(常人以上の能力をもっているという自負)によって統御されていて、人格的な崩壊をきたさないための支えになっていることによっている。” -

ここでは、分裂病とほぼおなじ症候として「神懸かり」がとらえられていることに留意しておかなければならない。
吉本氏流のややむずかしい言い回しになっいますが、ある意味、眼からうろこの解説になっています。
昔のアフリカ大陸では、もっと積極的で、その部落の分裂症気質の青年がえらばれて、次の祈祷師の修行を授けられるということであった。
このことは分裂病的な気質なるゆえに、共同体の存続にかかわる予兆や変異を察知できうる存在として認知されてきたことをものがたっている。・・

さらに吉本氏は説く。
若い霊能者である女性が教祖になる条件を具えているのになれないのはなぜか?
“ この女性は若いためとるに足るほどの生活思想もなく、現実的な労苦にたえて獲得した人生観も世界観もない。
それとは異なりさんざん生活苦をなめて生きてきた貧農の主婦は、更年期になって突然入眠幻覚に没入しうる能力を獲得し、 それが
「惨苦から逃れる」という願望、動機とある必然的なむすびつきをしめしている。・・・

新興宗教のなかでも、かなりすぐれた宗教でありうるとすれば、
その理由はあらゆる思想の優劣を問う場合とちがっていない。
彼女の生活体験から獲得した思想が、体験に裏うちされて血肉化した迫真性をもっているとすれば、
農家の無知な主婦であっても、その生活思想は、宗教体験としての入眠幻覚とむすびつけられて、
かなりの普遍的な真理をもちうるはずである。” (概略)--

さて、ここまできて、宗教というものの成り立ち方がつまびらかになった。
古来より人は、それくらいのある種の能力をもちあわせてきたということであろう。・・・

またそれは血肉化され、普遍性を獲得するまでにいたった宗教となれば、
国家が弾圧しなければならないほど、迫真的な信仰、宗教たりえたともいえよう。
(次回につづきます)
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こんにちは、のほせんです。

すこしばかり間が空きましたが、みなさんは、いかがお過ごしでしょうか?

日々の暮らしに追われていると、すぐに月日が経ってゆくおもいとは裏腹に、

この国の「人で無し」の情況が放置されたままなのを、いささか歯がゆくおもうのはわたしばかりではないようです。

あの山本太郎氏もまた人でな無し原発体制に業を煮やし、

天皇にその心情を託そうとしたということです。

天皇への「直訴」といえば、明治34年の田中正造氏のことが真っ先におもいうかびます。

“ 真の文明は 山を荒さず 川を荒さず 村を破らず 人を殺さざるべし ”

足尾銅山鉱毒を告発しつづけた田中正造氏は、

それにたいして問答無用と、なりふり構わず富国強兵・近代化に突っ走る時の政権と社会ににむかってこう訴えたが。・・・

それにしても、皇室ジャーナリストなる者をはじめ、御用メディアに巣食う者らは、

まるで「不敬罪」という言葉が喉からでてきそうな風で異常なやからです。

「畏れ多くも陛下にたいして不敬である」という、かび臭いナルシズムをともなった心情が

まだこの時代にも存在することが学習できました。

明治維新の薩長の権威付けのためにする、錦の御旗と王政復古のPR戦略が奏功し

やがては日露戦争の凱旋によって、「天皇」は日本の国民の共同意識の核のように深く埋め込まれてひさしい。

他国を負かし収奪するという帝国主義思考が根付いたのと機を一にして、いよいよ

国民が共有する「父性としての天皇」がうみだされたとはいえ、

天皇個人や天皇家に表立った権力が付与されていたわけではない。

薩長倒幕派と組んだ謀略家・岩倉具視以来、いわゆる君を戴いた「君側の奸」がつねに取り仕切ってきた。

いまでも同様に事に乗じて、「天皇」を山車に乗せて恣意的な権力情況を謀る時代錯誤の者たちがいないではない。

だが時を経た現代において、はたしてそれがまだ、

ひとびとの心情のなかに遺されているのだろうかと、おもっていたのだが、

今回の山本太郎氏の、いわば「直訴」の行動に

いささか虚を衝かれたおもいがある。

おもうに、山本氏は天皇に接する機会に高揚して、どうせなら

園遊会なる茶番に意味あるものを持ち込もうとしたにちがいない。

そうでなければ、山本氏自身が何のためにそこに立っているのかわからなくなるからだ。

とにもかくにも山本太郎氏は、ひとつの直訴状を天皇に手渡した。

一旦、みずから受け取った以上はほんとうなら天皇はなんらかの返答をする必要ができたのだ。

したがってある意味では天皇にとっても、深刻な局面に立たされたのだが。・・・(このことに誰も注視できていない。)

それにしても、すくなくとも山本氏は天皇につよい「父性」を抱き持っているのだろうか、祖父らの時代のように?

「やむにやまれぬ」心情とはいえ、よりによって天皇とは、ここのところがたいへん興味深いところである。

それははたして何処から由来しているものなのか?

時代は、もうすでに明治、大正、昭和ではなく、はるかに平成も二十五年を過ぎようとしているのだが?

どのような立場・事情であれ、この時代の現実から疎外され、いくばくか解離している人が、

自己意識をある種のナルシスティックな摺り寄り、ないしは依存といえる拠りどころへと向かわせるのは避けられないようにおもえる。・・・

-- さて、「直訴」といえば、
高橋和巳の渾身の名著「 邪宗門 」には、

-- 伊勢神宮において、五十鈴川を渡って、その方(天皇)にむかって「諌暁(かんぎょう)!」とさけび、直訴状を手に走る少年の光景が描かれている。・・・

“私の描かんとしたものは、歴史事実ではなくて、
総体としての現実と一定の対応関係をもつ精神史であり・・・” と注釈しているこの著作は、

昭和五年における、ときの権力・官憲による「大本教」への不敬罪、治安維持法、自殺幇助違反容疑等による弾圧を境に、

信仰する者の内なるたたかいと苦悩と、そして敗北と逃亡の果ての即身仏のような死を、徹底して描いたものである。
 
( 次回につづく )
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今回も読んでいただきありがとうございました。
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