(--「 男らしさ女らしさって、・・・ありのままの自分でいたいのに 」 --)
こんにちは、のほせんです。
暦では はや立冬ということですが、
みなさんはいかがおすごしでしょうか?
この国も、世界でも、ますます個々人が端っこに追いやられてゆく様相を呈しています。
-- アメリカ経済を自律成長させるための5年以上にわたる3兆5000億ドル以上のFRB金融緩和政策は完全に失敗に終わり、副産物として金融市場バブルを残した。
このFRBの失敗を知りながらの日銀緩和だから日本の所得はマイナス、GDPも下降線なのは当然の結果。
黒田総裁は金融緩和の大リスクを知りながら何故ここで再びバズーカを発射したのか?
むりやり円安金融相場創出による見せかけの好況演出・消費税値上げをもくろんでのことにちがいない。
財務省役人が大喜び。 しかしまたFRB失敗の「補てん係り」でもある日銀黒田総裁は、
アメリカの為の意図的ドル高円安政策でもある一石二鳥の「悪手」をうったことになり、
おかげで日本の産業の米であるエネルギー価格は高騰、電気代値上げ、ガソリン代値上げ、中小企業・零細自営業の疲弊、、等々の日本の衰退を尻目に喜ぶアメリカ政府の顔だけみている。--
株式相場だけが行き場のない巨額の「カネ」の遊び場を提供するというこの国の情況は
常軌を逸した連中のバブル破綻をまえにした狂宴の姿にほかならない。
こんな連中の尻拭きなど、ごめんこうむりたい。・・・
-- さて今回は、「 再び性同一性障害について」というタイトルです。
性同一性障害の生き難さに苦悶しつつ、若くして亡くなられた方についての記事が、
先日の朝日新聞デジタルに載っていました。
「男らしさ女らしさって、・・・ありのままの自分でいたいのに 」というタイトルでした。
その記事からは、つぎのような「生き難さ」がうかびあがってきます。
-- 小5の時、女子児童から「男女(おとこおんな)」といじめられた。03年4月、横浜市にある中高一貫の女子校に入学。自伝「暁の空」(文芸社)によると、セーラー服が届くと母親が言った。「女の子らしくしないと、学校でやっていけなくなるわよ」
「性同一性障害に生まれて」という廣田さんの詩から葛藤の跡がみえる。「自分で自分をおかしいと思いたくなくて/必死になってふつうを振る舞い続けた」
しかし、心と体の不一致は大きくなる。先生に配った4枚の手紙によると、制服に耐えられず、高1で体操服の着用を願い出た。「自分を偽り、耐えてきた。もう限界なんです」
高2で、男子制服の着用が認められる通信制高校のサポート校に転校。男性ホルモンの投与を受けるため、18歳と偽り、東京・新宿のクリニックを訪れた。注射の後、恩師に「人生で初めて生きててよかったと思えた」とメールした。
コンビニのアルバイトに明け暮れ、手術費用をためた。08年12月からの2年で3回手術し、男の体を手に入れた。11年1月、戸籍上の性別を男性に変更した。
ところが、心は満たされない。ブログにはこうある。「自分らしくの前に男/女らしくにこだわってしまう。性別なんて……そう言っている当事者が一番性別のことを気にしている」
同居していた准看護師の00さん(43)には「全部終わったら死んじゃう気がする」と漏らしていた。「手術しても『ふつう』になれないと絶望していたのかもしれません」
ノートには廣田さんの乱れた文字が残る。「ふつうを求めてなにがいけない」
「女らしさ」を強いられた廣田さんは、あらがうように「男らしさ」を求め、苦しんだ。性同一性障害などの性的少数者は20人に1人とされる。彼ら彼女らがありのままに生きることを、何が阻んでいるのか。 -- -
・・「何がはばんでいるのか?」この記者の疑問は、みなさんの疑問でもあるでしょう。
「ふつうを求めてやまない」人と、相対して
そういうことが「理解できかねている」ふつうの人が
おたがいに途方にくれているというところが実情だとおもいます。
前にもお話したように、
男女の「性差」というものは本来的に自覚的ではなく、つまり逐一意識的なものではなく、
ほとんど自体的に無意識に男性であり、女性であるという存在なのです。
つまり幼児期いらいの長い時間をかけて、性的な自分と折り合いをつけながら
そういったほぼ無意識の自体性をつみあげてくるものなのです。
そこで仮に、男性の身体機能をもって生まれた人が、ある時点で
「ほんとうは女なんだ」という異和意識をつよく抱いた場合、
たとえ性転換手術をうけ、今回の方とおなじように切望した性にあらためて属したとしても
「自体的な性」性ではない存在ゆえに
「ふつうに生き難い」疎外感に苦しまなくてはならないわけです。
つまり、ひとは希求した女性(男性)に属したときから、
じぶんの生育歴の中の知覚や体験からイメージする女性(男性)の様式を
「たえずなぞって」生きてゆくほかないからです。
するとその「あらたな性」性ゆえの「わからなさ」から、過剰さや、ぎこちなさがつたわるために
おたがいに違和感をキャッチボールしあうことになってゆきます。
したがって彼女(彼)は同性にたいして「よけいな憧憬や羨望あるいは嫉妬」から免れがたく
社会のなかで、また同性のなかでも、日毎に孤立を感じ精神をすりへらすことになるわけです。
いったいではなぜ? 性同一性障害という異和がありうるのだろうか?
その根源に迫ってみようとおもいます。
(次回につづきます)
..............................................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
(-- 神を造るほかなかった人間の切実さとは無縁の、安直なキリスト再臨妄想 --)
こんにちは、のほせんです。
ひと雨ごとに、紅葉に近づいているように感じていますが、
みなさんは、いかがおすごしでしょうか?
御嶽山上の不明者を置き去りにしたたまま、自衛隊まで撤収となりました。
御用マスメディアのお疲れさまキャンペーンで済ませてよいのか?
なんとも不甲斐ない・・・
さて今回は、
「ブッシュを信奉したキリスト教原理主義のアメリカ国民」というタイトルです。
ブッシュとは第43代米国大統領ジョージ・W・ブッシュのことであり、
大阪府や市の長が執心する「とんでも教育改革」(=学力テスト信仰)のネタ元である、
「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(2002年通称:落ちこぼれゼロ法)にサインをした人物でもある。
すでに今日の英国、米国ではこの「教育改革」の失敗があきらかになっているというのに、
だれの入れ知恵か、一周遅れどころか、すっかり傷んでしまっているものを
いまさら独創的アイデアのように「学力向上」「民営化」の念仏を得意気に唱える姿は
尋常ではなく可笑しく、また 恥ずかしい。・・
まあ、それはともかく、
ありもしない大量破壊兵器保有の濡れ衣をきせてイラクを侵略したブッシュ大統領だったが、
そのかれを信奉する少年少女たちがいたというのである。
2006年に、
「ジーザズ・キャンプ~アメリカを動かすキリスト教原理主義」というドキュメンタリーが公開されている。
キリスト教福音宣教会が主催した子どもをターゲットにしたサマーキャンプであった。
(たぶん、この団体は世界ではカルト教団とみなされているものとおなじかと?)
そこでは、
子どもたちを煽情して高揚させることに長けている女性指導者のマインドコントロールにしたがうように、
「イエスの名の下に 神の言葉を語ります。アーメン!」と
真顔で歌うようにくりかえす子どもたちができあがっていく。
( 主に直接語りかけることで、密着による憑依状態に近づく。)
科学や唯物弁証法を否定して、聖書の「神による天地創造」の歴史観に立つため、
子どもたちは自宅学習することになり、
「人間は二種類。イエスを愛する者と、それ以外の人たちよ」 と、断じられ、
「今こそ主の栄光が世界を覆う時! 主は再臨する! 子どもたちに信仰のこころを!」と叫ぶことになる。
-- ブッシュは「神の名において」戦争を始めた。-- 唐突に、指導者が政治的発言をしだす。
おそらく最初から、これが意図されたプロパガンダの言葉だったのかもしれない。
( まったく150年前の「インディアン絶滅キャンペーン」とそれにつづいた大虐殺の頃から米国白人は変わっていない。)
なにせ、ブッシュはキリスト教メソジスト派の熱心な信者であるから、
アラブの邪教徒たちを殺戮するヒーローと映るのだ。
熱狂的なキリスト教原理主義信者たちにとっては、神の子による神の裁きだとおもえるのだろう。
じっさいにブッシュは、
キリスト教原理主義リーダーのジェリー・フォルウェル牧師とは毎週月曜日に面会していたといわれている。・・・
大本教祖の出口なおのように、生き死にの間で神懸かるほかない鬼気迫る切実さとは無縁の、
いかにも底が浅い、はやりのワークショップのような、この宗派の安直なキリスト再臨妄想だが、
むしろアメリカでは、それを欲求するほかない人たちが多数にのぼる時代になったとみるべきだろう。
このうえなく恣意的かつ排他的で、安直なキリスト再臨妄想をかかげた新興宗派の台頭は
米国の 「新たな時代の病理、危機」を
アメリカ国民として如実に反映しているということであろう。・・・
省みて、日本の国民はいま、
どのように「新たな時代の病理、危機」をあらわしているだろうか?
...........................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
こんにちは、のほせんです。
木曽の御嶽山が噴火して、たくさんの登山者が亡くなられています。
慎んでご冥福をお祈りもうしあげます。
それにしてもエライ学者や研究者という人種が役立たずなことがよくわかりました。
噴火救援隊のマスクも用意していない軍隊も信じられないですが。・・
さて前回は、
中世日本の山椒太夫(さんしょうだゆう)のような地方豪族が
人商人(ひとあきびと)=奴隷商人たちとむすんで、
遊女や塩業や鉱業に使役するための労働力を確保していたことをおはなししました。
奴隷とちがって、いわゆる民百姓や漁夫、山人たちは、どうかといえば
現代でいう「一次産業」にかかわって、
ともかく自然を相手にその日を暮らしていたわけです。
そんなかれらの暮らしは、
頭上の権力者が誰かに替わろうと、江戸時代どころか昭和の中頃までつづき、
その生業が、かくれもない日本の主力産業でもあったわけです。--
-- さて、時代を近世末期にうつしてみれば、
慶応4年に徳川慶喜が江戸城から退城すると、
大名・旗本は江戸を捨て、 商人たちも家財をつんで脱出。
大混乱の江戸は人口が50万人に半減し廃市状態となり、
とりのこされた貧困層は騒然たるなかでたちまち飢餓に直面する。
勝海舟と西郷隆盛の「江戸城明け渡し」美談が美談ではですまされないことになった。
そのうちまもなく帝都東京にあらたに人があつまってきたものの、実情は
車夫よりも貧しい人々の大群が新都のあちこちにたむろして辛うじて残飯で露命をつないでいたという。
(詳しくは「貧民の帝都」塩見鮮一郎著を)
下って西南戦争後の明治は、
“ 富国強兵・軍備拡張路線、政商保護、増税の「松方デフレ」で困窮者は急増し” 、
帝都の貧民スラム化は解消されるどころではなかった。
維新は庶民にとって、江戸時代よりもさらに生き辛い時代を開帳したことになる。
困窮問題は日本中に孤児・貧児を生みだしたが、
岡山孤児院の創設者・石井十次氏、大原孫三郎氏らのような篤実な個人の尽力によっていくばくかの救済がなされたにとどまる。
その後の帝国日本は日清、日露戦争を体験して、はじめて兵士の精神疾患を生みつつ
産・軍・官だけがうるおい、社会の歪みを拡大させつつ大正、昭和へと帝国主義の道を、
すなわちシベリア出兵では米騒動を生み、 満州事変を契機に困窮者を開拓団に誘い、太平洋戦争、敗戦と破綻し、
戦後に一億総貧民の時代を迎え、焼け跡に悲惨な孤児たちをうみだすこととなる。・・・
-- 中世日本にかぎらず、奴隷は、金銭で売買される。 すなわち「商品」そのものである。
なかでも、
世界中でもっとも悪辣にして悲惨をきわめたといわれる大西洋をまたぐ「奴隷貿易」では、
西アフリカからアメリカ大陸につれてこられた人々が、奴隷として綿花栽培農場に買われてきた。
家畜以下の扱いをうけたアフリカン奴隷はやがて、南北戦争時に英国を味方につけるための、
いわゆるリンカーンの欺瞞にみちた「奴隷解放宣言」によって、まるで悪夢のうちに解放されることになる。
それは結果的に南部側の「奴隷財産」の無償放棄によって、
黒人はいったんは家族も生活手段も住む場所も何もないままに、
南部が壊滅的な打撃にあえぐ廃墟の中で放り出され、そのまた吹き溜まりにたむろすることになった。
さらにすぐに南部では、解放された奴隷の賃仕事がもっと効率のよい大規模機械農場化にとって代わられ、
もはや社会に行き場のないまま使い捨てられた。
一方、北部では、奴隷より「使い勝手のいいヨーロッパ移民」の「賃金奴隷」が生みだされ、
ヨーロッパ産業革命時の暗黒の生活同様に、過酷な労働環境がシフトされたのだった。
“ 強盗貴族 ”とよばれる米国支配階層は、
南北戦争での鉄道、石炭、銑鉄、石油等、軍需物資の価格高騰の恩恵により、
戦争にかかわる金融サイドの急成長とともに誕生した。 それが
J.P.モルガン(金融)、ロックフェラー(石油)、カーネギー(銑鉄)、J.グールド(鉄道)などで あり、さらに
モルガン、ロックフェラーの巨大資本は、米国レッセフェール(自由競争)のうたい文句の陰で、
じつは真逆の「国家財産の賦与や流用」というまさに強盗犯罪をやってのけたといわれている。
似たようなことは、おそまきながら日本でも小泉・竹中時代からおこなわれていて、貴族かどうかはともかく、
「グローバル」「自由競争」「民営化」の念仏を唱えながら抜け目なく堂々と強奪されている。・・
はるか前に米国において、競争を排除して独占体制を敷くことによって、やがて
世界を支配する元祖・強盗貴族をみずから完成させていた。・・
「奴隷」から「移民労働者」へ、「より大規模に、より効率的な」生産をめざす強盗貴族たちは
「合理化」思想のもとに、「時給制」を発明して「ヒト」から「時間を買う」ことを世界システム化した。
「賃金奴隷」も現代では「正規」から「ヒセイキ」「キセツ工」「ハケン」と分別されて、
さらに生活基盤をも失いはじめるなか、
育児、福祉、接客サービス業ではあまりの不当労働・薄給による「人手不足」現象を呈して慢性化さえしている。
日本のマスメディアによるおバカな「グルメブーム」のフレームアップは
意図的に消費者から就業実態を隠蔽して、困窮就業者システムを助長するものでしかない。
それが、「世界基準のグローバルシステム」だと喧伝し、
やがては社会常識にまでまつりあげたマスメディアの罪は、ゆるされるものではない。
グローバルシステムをかざすウルトラ資本が墓穴を掘るまで、
「人でなし」たちのために心が崩壊寸前の個々人が、はたして堪えられるのだろうか?・・・
........................
(-- 大英帝国支配の終焉・いつも真実が封じ込められてきた --)
こんにちは、のほせんです。
裏の小学校の運動会の練習の声が、悲愴なトーンで聞こえてくるこのごろですが、
みなさんのところでは、どうでしょうか? 先生たちも必死なんでしょうね。
さて今回は、前回のつづきの合間にすべりこみで、
あのスコットランドの独立を問う選挙についておはなししてみたいとおもいます。
選挙の結果は反対票が勝りましたが、
投票したひとたちは「独立」の瀬戸際に立った緊張と昂奮に血が騒いだことでしょう。
「反対」票過半数の要因は、やはりマスメディア・セレブ・王室総動員による「独立のリスク」キャンペーンでしょう。
独立投票へのすさまじい恫喝が効果をあげたというわけです。
支配権力は、つねにこのように老獪に懐柔しつつ、一方で強大な圧力をかけてきます。
今回のスコットランドの「独立」運動の意味は、
北海油田がどうの、経済格差がどうのといったところにあるのではありません。
つまり、いちいちの理由付けにすこしは契機があるとしても、ほんとうは
スコットランド人の、
もっと根底にあるだろう 「 国家というものへの不信・疑念」が噴きだしてきたことにあるといえます。
北海油田や格差是正が得られるというだけでは、
「独立」運動がこれほどヒートアップすることにはならないのが人間というものですから。・・
スコットランドの人たちは、いままでに隣の
アイルランドの独立運動とその結果の「裏切りと実質的な敗北」を横目で見てきているわけです。
--1918年、総選挙で圧勝したアイルランド完全独立派が英政権の不実に、ついに独立戦争にたちあがる。・・
アイルランド義勇軍は三千丁の銃しかなかったが、ゲリラ戦をたたかった。
だが、逆に駐留英国軍による徹底した義勇軍兵士狩りに悩まされる。
その傍若無人の非道は敵の恐怖をあおり、義勇軍兵士同士をも疑心暗鬼にし消耗させるほどであった。
また政党議員指導部は官僚主義に流されて、義勇軍の戦いの熾烈さに報いることがなかった。
そしてついには、党の公約だった「英国からの完全分離独立」とは真逆の
愛・英講和条約を汚れた手で結んでいく。
イギリス連邦下の「アイルランド自由国」という名ばかりの成果を手に、
「アイルランド自由国議員は英国女王に忠誠を誓う!」 と恥も外聞もなく宣誓したという。・・・
そしていまも、北アイルランド・ベルファストには英国軍が居座りつづける。
結局、民主主義の結果など無視して、軍事力で抑えつけた英国政権の思うつぼとなった。
憤死した義勇軍メンバーがさぞ無念であろう。
「神に運命を委ねたのが不幸のはじまりだった」のか?・・・
これを、このえげつない英国の狡猾さをスコットランドのひとたちもじっと見てきている。
「民主主義」や「選挙」が時の政権に恣意的に解釈自由にもてあそばれ、都合よく利用されるのをみせつけられてきた。
日本でもおなじことが現政権によっておこなわれている。
沖縄・名護市民は先日の選挙であらためて「埋め立てNO」の意思をつきつけた。
沖縄県民は2010年の県知事選で「県外・国外移設」を公約した人物を当選させてきた。
そして選ばれた当人が県民を裏切り、沖縄の魂を売り政権側に寝返った。
(そのときのかれの面相が尋常ではなくひどく醜かった。)
その人物の言質をたてに官房長官が、こんどの選挙結果を無視し、
「もう決まったことだ」と一蹴したという。 では何のための選挙だったのか?
あきれて物が言えないとはこのことで、「民主主義」も「選挙」もあったものではない。・・・
-- スコットランドのひとたちが、何世代にもわたってみてきた「国家」「政府」「民主主義」というものが
日本とおなじように上からの教育とプロパガンダによって頭にたたき込まれてきた「幻想」でしかなく、
「支配のためのツール」だと言い直せばもっと分かりやすいかもしれない。
今回の独立選挙運動は、それらの幻想を根底から内側から突き破る衝迫性をはらんだものとみられます。
なぜなら、それが独立のリスクを承知で、恐怖にむかっておこされた行動だったからです。
スコットランドの今回の運動こそが、これから、「国家幻想」「民主主義幻想」を突き破ろうとする
あらたな運動やたたかいを世界中にまき起こす起点となるようにおもわれる。・・・
..............................
こんにちは、のほせんです。
季節がうつろい、すっかり秋の気配を肌で感じるこの頃ですが、
みなさんはいかがおすごしでしょうか?
秋祭りが終わった土地のひとは、ぬけがらにならないように自律神経をたてなおしましょう。
さて、前回の中世庶民にとっての最底辺のヒーロー「をぐり」の説経節のつづきをみていきましょう。
-- 幸いにも、 「をぐり」は時宗僧に餓鬼阿弥陀仏と名づけられ、
さらに綱を引くものには尊きご利益があるとの添え書を戴いた。
それこそが、「この者を一引き引いたは千僧供養、二引き引いたは万僧供養」の効用書であり、
これのおかげで道連れに「センゾウクヨウ! マンゾウクヨウ!」を唱える引き手が絶えることなく
「えいさらえい、えいさらえい!」と箱根を越え、大井川を渡り、ついには
禁忌の恋の相手の照手姫が名を変えし常陸小萩のいる青墓の宿にいたり着く。・・
青墓の遊女は傀儡女として評判高く、都の貴人に囲われたりしたという。
なかでも「よろづ屋」は百人の遊女をかかえた繁盛ぶり。
そこに操を守り、一人水しごとをする常陸小萩がいることをを知るよしもない餓鬼阿弥「をぐり」がとどまる。
かたや、まさかをぐりとも知らずに、感応して「物に狂うて見せようぞ」と舞いながら
宿主との約束の五日間、狂い笹を手にした小萩が土車を先導してゆく。・・
再会にして再会にならず。・・ ここは説経節「をぐり」の最高潮にいたった感動的な場面。
この別れのあとはまた知らぬ人らに引かれるままに、とうとう熊野湯の峰に至り、本復をとげるのだが・・。
むろん道中、垢で黒光りし、腹は妊婦のようで、四肢はゴボウのような、あすの命もわからない厄介物、
ここで死なれては面倒だ。 いそいで次へ引いてゆく。
目の届かない場所へ移したいという忌み嫌うひとたちの思惑もあったであろうし。・・・
-- ここでぜひ、常陸小萩こと、照手姫が六浦の浜に漂着してからの難渋をたどってみましょう。
牢輿(こし)から美しい姫があらわれ、漁師たちはびっくり仰天。
漁夫の太夫がなだめて家に連れ帰ったものの、
妻は、役立たずの姫など(人)商人に売ってしまえと、留守の間に二貫文で売り飛ばす始末。
六浦の人商人(ひとあきびと=人買い=奴隷商人)から、釣竿の島の人商人に売られ、
「価が増さば売れやとて、鬼が塩谷に買うて行く。鬼が塩谷の商人が、価が増さば売れやとて、
岩瀬・水橋・六渡寺・氷見の町屋へ買うて行く・・」 --
なぜか三浦半島から日本海の新潟、富山、石川、福井、滋賀、岐阜へと転売されてゆく。
そしてようやく、美濃の青墓宿の万屋(遊女屋)の主に十三貫で買い取られることになる。・・
-- 湊々の人商人の暗躍は教科書にものっている「山椒(さんせう)太夫」にもあって、
直江津の山岡太夫が「厨子王」らだましてを船に乗せて沖にくると、二艘の舟があらわれる。
一艘は佐渡の二郎、一艘は(越中)宮崎の三郎の船であった。
人買いどもは海上を行き来して、「商い物はあるか」などと声をかけ合うのだという。
母御前・うわたき・厨子王・安寿の四人を五貫文でどうか、いや六貫文でどうかと取引し、
結果、二組に分けて売られることになる。 それが悲劇の始まりとなった。
母と乳母の舟は蝦夷へむかい、乳母は悲嘆のあまり海に身を投げている。
宮崎の三郎は二貫五百文で買った姉弟を同業の人商人に売ったのをはじめに、
転売されること七十五回、由良の山椒太夫が買ったときには十三貫文になっていた。
逃げようとした姉弟を太夫の息子の三郎は焼きごてを額に当てて十文字の印をつけた。
それでも姉の安寿は苦心して弟・厨子王を逃がすことに成功したものの、
怒った三郎はまだ十六歳の安寿を湯責め水責め、錐で膝をえぐったりして死なせてしまう。・・
この姉弟が死を賭してまで逃げたいとおもったわけとは、なんと信じがたいことのようだが
毎日の日課の柴刈りと潮汲みが死にたいとおもうほどの苦役であったからだという。
説経節の聴衆ならば朝飯前のしごとが、上流社会の軟弱な厨子王、安寿には
「明日もあさってもつづくのなら、もう死にたい」とおもわせたのだった。
-- このとき聴衆は、貴種と貧民の立場が逆転する感覚をあじわったのではないか。
家に帰って、厨子王がなんにもできないことを家族に話したにちがいない。-- と、著者は記している。
というよりも、このような公家貴族を、ある種の「神」のごとく戴く庶民貧民たちの目の前に
引っ張りだした説教師たちの「おいたわしや」の言葉の裏側に、
言い知れぬ憤怒の情と、したり顔が見え隠れしている。
それは蝦夷につれていかれた母御前も同様で、
何をさせるにも役立たずの母御前に腹を立てた蝦夷の人商人は、
「足手の筋を断ち切って」逃げられないようにしたうえで、「粟の鳥を追う」仕事につかせる。
日中、田の粟にあつまってくる鳥を追い払うために、鳴子をむすんだ縄を引っぱるしごとだが、
栄養失調から失明した母御前が
「厨子王恋しや、ほうやれ。 安寿の姫恋しやな。 うわたき恋しや、ほうやれ 」 と、歌い泣く。・・・
-- このように、中世では人商人(人買い)が横行していたのだが、
貴人や貧民にかぎらず、買い取られた人たちはもはや「ひと」ではなく「代物」であって、
「労働力」そのものでなければならなかったから、 報酬などなく、
毎日海水を汲んでくるか、
鉱山で鑿を打ちつづけて、一生をおわる。
まさしく「奴隷」なのである。
物語ではなぜか貴人が悲劇のヒーローに設定されているのは
そのほうがより 「おいたわしや!」という言葉がお似合いだからだ。
じぶんとおなじような生い立ちのものには、ヒロイズムを感じづらいというだけのことである。
いずれにしても、「畜生以下の扱い」は個人の人格を破壊してあまりあるが、
とはいっても、庶民のおおくが食うや食わずのくらしをしいられていたために、
暮らすうえでは、それほどの差異はなかったが、それゆえ差別意識はかえってつよいものがあった。
近代には、ついに「賃金奴隷」ということばも生まれ、
いまではもっとスマートに分別管理されて「ハケン」「正規」「キセツ工」とかよばれて社会システムに組み込まれている。・・・
大量の「消耗品(すべての部署だ)」でしかない個人は、その存在の意味を喪失させられ、
取り替え自由の「代替物」としてあつかわれて心が崩壊寸前の無呼吸症にあえいでいる。・・・・・
(次回へつづく)
...............................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
こんにちは、のほせんです。
夏休みが終わりましたね。
子どもも親も、それぞれに長い夏休みをもてあましたことでしょう。
ここから自律神経(交感神経)をオンにして、気合を入れなおしていきましょう。
さて先日来、
「中世の貧民(説経師と廻国芸人)」(塩見鮮一郎著・文春新書)という興味深い本を読んでいます。
日本の教科書から排除された中世日本の真実の歴史があかされています。
著者はわかりやすく説明するために、
説経節(せっきょうぶし)「 をぐり(小栗判官)」の成り立ちに焦点をあてながら、
中世日本の隠れもない庶民の時代風景と風俗をしめしてくれています。
「まえがき」はつぎのようにはじまる。--
-- “ 中世は光と影のコントラストが強い時代である。
とくに南北朝以降になると、 中央政権の支配は地方や下層民には届きにくくなる。
伝統仏教は形骸化し、新興宗教の禅僧はひたすら武士にこびている。
おおくの庶民は、ぽっかりと雲間にあいた青空のもとへ投げ出されたようであった。・・
アウトローの集団が各地にいくつも誕生した。
「山椒大夫」のような豪族が、人商人(ひとあきびと= 奴隷商人)とむすびついて
低廉な労働力を確保し、塩業や鉱業などを営み経済力をつけている。--
関所のおおくが有名無実になり、山賊・追剥・拘引などの危険はあるものの、
まずはどこまでも廻国できた。 特産物を遠方まで運んでいけば、珍重されて高く売れる。
芸能もおなじで、京ではやる出し物を坂東でやると、やんやの喝采で、投げ銭が飛んできた。--
街道が情報のケーブルになる一方、そこは諸芸の舞台になった。 ”
-- “応仁の乱が起こり、下克上の血肉の争いがはじまり国中が騒然となると、
廻国する僧や、芸能者にとって、身の安全のためにも戦雲の動静に敏感にならざるをえない。
鎌倉公方は古河に走ったとか、太田道灌が江戸館を城につくりかえたとか、
そのような生臭い情報を宿場や祭礼の地で熱心に交換しあった。
関西にもどれば、清水寺や四天王寺の参詣人にも、東国の情勢を語った。
説経語りは客の好みに敏感であった。”--
元の「小栗判官」の語りは、いつしか荒唐無稽かつ壮大な物語にスケールアップしてゆく。
貴族だった御曹司が勘当のうえ毒殺され、「六根片端」姿でよみがえり、
紀州熊野までを土車に乗せられて綱で引かれてゆくという道行きに
聴衆はおどろきと涙の喝采をおくったという。
著者によれば、
全国を歩いていった説経語りは、主に「伊勢のこじき」が多くを担っていた。
伊勢の外宮と内宮をむすぶ丘が、有名な「間(あい)の山」で、途切れることなく参詣人がつづく道の両脇には
店がならび、遊女ばかりではなく、乞食芸人も参集して住み着いていた。
そのなかに、長柄の傘とゴザをかかえた「説経語り」もいた。
貴族や出家の歌詠み道楽とはちがい、
その場で芸が受けなければ、親子・師弟の一家はたちまち餓死する運命にある説経師たちであった。・・
さて、「をぐり」の蘇生譚はなぜか常陸ではなく相模の上野が原ではじまる。
塚が割れ、餓鬼姿の男が地面にころがり、カラスがはげしく鳴いた。
-- 「あらありがたの御ことや、築いて三年になる小栗塚が四方に割れてのき、
卒塔婆は前へかっぱと転び、群烏笑いける」 --
をぐりは蘇生したものの六根片端の餓鬼姿に変わり果てていた。
そのため、ここから長い困難な旅を熊野本宮湯の峰までつづけなければ「本復」はかなわぬこととされた。
こうして説経語りは、土車(つちぐるま)に乗せられた餓鬼姿の「をぐり」が
見知らぬ人々に綱で引かれて道行くありさまを延々と声をふりしぼって演じたという。
ちなみに六根片端とは、目も見えない、耳も聞こえない、口も利けない、鼻も舌も触覚も無い。 おまけに
足はゴボウのように細く、あばら骨が浮きだし、腹だけふくれた餓鬼草紙からとびだしたような男が、
どうしても熊野本宮へ行き、つぼ湯に入らねばならない。
男に課せられた枷はきつく、それも京、大阪からの出発ではなく、
空っ風が砂塵まきあげる関東の荒野からスタートするという、なんとも、すごい設定である!と、著者も驚嘆する。
現代人からみれば、
この仰天すべき説経節が街道辻や村々で喝采を受けたことが不思議でならないかもしれない。
だが戦乱の世に農民も槍をもたされ、田畑が荒れ果て飢えとはやり病が国中の弱者たちを襲っていた時代。
京の都でも行き倒れ屍は放置され、カラスがついばみ、柿渋衣に白覆面の犬神人さえさわらぬ時代であったのだ。
どこの家でも、だれかを喪っていた。
幼児が病死した母親、親と死別した子、妻をさらわれた夫、夫が戦死した妻などが
説経節にじっと耳をすませ、胸をかきむしるような地獄そのものの語りにむしろリアリティを感じ、
共鳴し、嗚咽したのは時代の真実にふれていたためであろう。・・
-- 遠くかれら(われらの祖先)の、地を這う困苦の時代には、
それに見合った命懸けの説経語りがたしかにいたのだが、
かつてない「個」の生き難さを負わされた現代のわたしたちには、
どこをさがしても、それに見合う迫真的な語り部など見あたらないのだ。
「個人」としての存在価値を喪失した商品(コピー)として生殺しのまま、なおも強迫的に同調させられるのか、
それとも、棄てられた民として自覚的に「本当の自由」、「普遍的な個の自由」を獲得しようと、
個々の存在を懸けてたたかい、「存在の意味」に到ろうとするのか?・・・
-- 「人」は何者でもないモノとしては生きてゆけないのだから。・・・
(次回につづく)
.................................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
こんにちは、のほせんです。
この夏の天候不順にはこまったものですが、
みなさんはいかがお過ごしでしょうか?
災害に遭われた方々には心からお見舞いもうしあげます。
先日また、東北被災地のAさんから珍しいお魚を届けていただきました。
すこしでもお元気なご様子がうかがい知れてありがたいのですが、
お心遣いが身に沁みて、恐縮するばかりです。
さて、先だって
「ギャンブル依存症の疑いのある人が500万人超!」ということが
驚きをこめたように報道されていました。
「成人の5%に上り、世界のほとんどの国が1%前後にとどまるのに比べて
日本は非常に高い割合だ」と、厚労省研究班が警告するにいたったということです。
いったいこの数値を誰に示して、誰に警告しているつもりなのか?
それなら、どう対応しようとしているのか? 高給取りのお役所しごとはこれでおしまいなのだろうか?
ギャンブルをしない人が何人いるのか?
それが分かればギャンブラーが依存症に至る割合がおのずとはっきりする。
だがむろん、お役所しごとが正確な数値であるという保証はない。 あるいは
もっとおどろく数値が出て困りはて、おとしどころをわきまえはった数値なのかもしれないし。
報道解説にあるように、ギャンブル依存症には「薬物による治療法は確立されておらず」、
きわめて厄介この上ない心的な病にはちがいない。
端的にいってしまえば、ギャンブル行動は「現実逃避」の行動である。
すると、それならば現実逃避する「動機」がそれぞれに個別に存在するはず。
こうして、カウンセリングは端緒をひらいてゆきます。 が、
もっと手っ取り早い結論をいうと、この国のギャンブル場を無くせばいいわけです。
かえって、地下にもぐってしまうという危惧より、絶対数の激減が見込めるほうを是としたい。
なぜこれほどに過激な物言いをえらぶのかといえば、
公認ギャンブル(宝くじも)が「美化の妄想」をうえつけて、庶民からなけなしの金をかすめ取ることと、
もっと重大なことは、「賭けごと」というものの本質が現実逃避の妄想の固着であり、
人間のものの考え方を、「つぎは勝つだろう」という根拠のない妄想癖へと、心的な病理へと誘うものだからです。
賭けることは、はじめからじぶんの小さな破綻をくりかえすことを免れないものです。
この破綻に慣れ親しむことから、しだいにより大きな破綻にも慣れ、
ついには極大の破綻へと走ってしまうことが、ギャンブル依存症の本質的な構造というものです。
この国ではさらに世界の人でなし拝金主義者のまねをして
博打場を「統合型リゾート施設」などといいかえて、カジノ利権で大儲けをたくらむ輩が腐臭を放っている。
この連中が先のギャンブル依存症の報道に怒ってお仕置きをしたのだろう。
あれ以来、何の関連記事も見当たらなくなった。
こうしてますます、この国は支配層から庶民まで精神を病んでいくことになる。・・・
.....................................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
こんにちは、のほせんです。 すこしごぶさたでした。
不順な天候のなか、みなさんはいかがおすごしでしょうか?
きょうはひさしぶりに出掛けの空が青く、秋の雲のようにずーっと高いところに
うろこの模様をさーっと刷いた群雲が浮かんでいました。
さて、この国の空もずいぶんと不順になっていますが、
世界の空も軍事覇権主義者の横暴でなんだかあやしくなってきたようです。
どちらの側が民間機を落としたのかが不明であっても、
つぎにどちら側がどのような挑発を実行するのかによって、
真犯人があきらかになるというもの。
つねにこうして戦争が仕掛けられてきた歴史を見逃さないことです。
ついでながら、
この国の御用マスメディアの流す、偏向したコピペ情報からは世界の現実が何も見えてこない。
現在のイスラエル政権軍によるパレスチナ・ガザへの侵攻無差別殺戮はオッケーで、
ナチスのユダヤ人殺戮はノーだというオバマの頭の中はあきらかに分裂しているが、
オバマを明確に非難する報道がメディアのどこにもみられないのには唖然たるおもいがする。
これほどマスメディア資本が露骨に体制にべったりする理由とはなんだろう?
それは広告資本と同様に、あるいは流通資本と同様に
もはや個人に相手にされず「消費されなくなって久しい」現実につよい危機感をもつためであろう。
すなわち
「情報」が何から何まで恣意的で為にする嘘っかすなら、
「広告」もそらぞらしく誇大で詐欺まがい、
また「商品」はといえば、どこまでも素性があやしいことなど、
「消費者」と名づけられた個々人は とっくのむかしに承知の助なわけだ。(江戸っ子だね)
それぞれの個人を、「国民」だとか「県民・市民」、「消費者」などと手前のつごうのいいように呼ばわって
それ以外のときには「・・・」ひとを人ともおもわずに、切捨て放置の「人でなし」を、
恥じることなくあらわしてきた連中が「報い」を受けるときがきているのだろう。
「すっかり変わっちまった日本社会」= ウルトラ資本主義の断末魔がはじまっているとかんじられる。
・・さて、1945年8月6日の広島原爆投下からたしか69年が経ちました。
当時のアメリカ政権は直後につぎのようなビラを諸都市に投下している。
(AB-11)
即刻都市より退避せよ
日本国民に告ぐ!!
このビラに書いてあることを注意して読みなさい。
米国は今や何人もなし得なかつた極めて強力な爆薬を発明するに至つた。今回発明せられた原子爆弾は只その一箇を以てしても優にあの巨大なB-29二千機が一回に搭載し得た爆弾に匹敵する。この恐るべき事実は諸君がよく考へなければならないことであり我等は誓つてこのことが絶対事実であることを保証するものである。
我等は今や日本々土に対して此の武器を使用し始めた。若し諸君が尚疑があるならばこの原子爆弾が唯一箇広島に投下された際如何なる状態を惹起したか調べて御覧なさい。
この無益な戦争を長引かせてゐる軍事上の凡ゆる原動力を此の爆弾を以て破壊する前に我等は諸君が此の戦争を止めるよう陛下に請願することを望む。
米国大統領は曩に名誉ある降伏に関する十三ヶ条の概略を諸君に述べた。この条項を承認しより良い平和を愛好する新日本の建設を開始するよう我等は慫慂するものである。諸君は直ちに武力抵抗を中止すべく措置を講ぜねばならぬ。
然らざれば我等は断乎この爆弾並びに其の他凡ゆる優秀なる武器を使用し戦争を迅速且強力に終結せしめるであらう。
“即刻都市より退避せよ”--
はたしてこのビラはいったいだれに向かって忠告しているのかと首をひねりたくなる。
降伏を軍司令部と天皇に聞き入れられないからといって、
一般市民がこれを手にしても、どうにかできるわけもなし。
ようするに、後日のための言い訳をのこそうとしただけのことだろう。
だが、米国政権は原爆使用の絶好の機会ととらえて、あきらかに自己正当化のための欺瞞を弄している。
本当のところは、これ以上上陸戦をすることに面倒くさくなったトルーマンがゴーサインを出しただけ。
またソ連参戦を原爆投下の口実にするのも米国側のあとづけ宣伝で、
むしろソ連参戦を米国政権が満州や樺太、千島列島の権益付きで促したことは明白な歴史的事実である。
・・それにしても、いつのどの国の戦争もときの政権が大衆の孤立を逆手にとって、
国家的な共同幻想(美化の妄想!)に扇動し、
みずからを自己催眠のように戦いに駆り立てさせるのは
ある種の狂気の蔓延とみとめるほかないだろう。
またそれは狂気の自覚が無いだけに性質がわるいといえる。
すでに戦争をはじめた狂気は、相手を殺し、排除することに没頭する。
そして国際法もくそもない、無差別爆撃や虐殺を実行してしまう。
スペイン・ゲルニカのドイツ軍の無差別爆撃、
南京、漢口、重慶の日本軍の無差別爆撃、
日本諸都市の米軍ルメイ司令官指揮の無差別爆撃。・・
東海軍司令官・岡田資中将は日本人には稀な理性のひとのようだった。
「爆撃機からパラシュート脱出した米軍兵士たちは、無差別爆撃をしていたゆえに、
ジュネーヴ条約が規定する「捕虜」には相当しない。
かれらは国際法に違反しており「戦犯」としての扱いは適正だ。」として、
パラシュート脱出米兵約30名を処刑した。
昭和23年3月8日の戦犯裁判法廷において、
「処刑は報復ではなく、処罰です。」といい、
のちに米軍も名古屋空襲が無差別爆撃であったことをみとめるにいたるが、
戦争という狂気のなかでは、現場の理性さえも虚しくつたわってくる。・・
・・そしていま、世界覇権に拘泥するアメリカ政権はついに「先制核攻撃」を口にしだした。
軍事主義者の頭のなかでは、じぶんたちだけが核の反撃から免れるという
エゴと排他意識が狂気の膜でおおわれているのだろう。
間髪をいれず、中国が新型ICBM保有を世界にむけてメッセージしたのは
ロシアへの援護だけでなく、狂気の核戦争の危機を未然に抑止するつよい意志がみてとれる。
あぶない岐路に 世界は 立たされているようです。
........................................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
(英国とオーストラリア政府の白人支配主義の狂気はナチスも驚く)
こんにちは、のほせんです。
ごぶさたですが、みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
今日という日は、日本国憲法のもとにある内閣がその憲法を恣意的にないがしろにして
なおも、御用マスメディアをつかって戦争のための準備を開始する記念日となるようです。
この首相たちには、国民の切実な声を聴く耳などははじめからもちあわせていない。
震災フッコーも土建屋などの利権がらみにだけ「懸命に」はげむが、
個々のひとたちのことはもとから眼中にない。 いまさらだれもあてになどしていないが。・・
それにしても唐突にひっぱりだされた「防衛のための戦争準備論」だが、公明党を恫喝するだけでいいのかと?
とてもじゃないが、あまりにも不遜で本当に戦争を遂行できる力量などどこにあるのかとおもわせるられる。
このように態度だけは不遜で、
その実口先だけのかるーい内閣に重大な決裁をまかせてどうなっていくのやらそらおそろしいかぎりだ。
きっとこのあと、「お国のために!」「愛国心!」「非国民!」とかいった常套句が復活してくるのだろう。
一党独裁の拝金中国などの挑発にヒステリックにのせられるようでは、
世界の大局を見通す能力が問われる。
それでもドサクサの蓄財にかけては抜け目なく、境界線で挑発してくれるのをさいわいに、
軍備増強の利権にむらがる政・官・業がメディアをつかって大儲け。
ようするに、この唐突さは
米国の世界戦略変更の尻ぬぐいに狩り出されることを主たる目的に置いたやっつけ仕事にあるからだ。・・
・・さて話はかわりますが、反捕鯨運動が盛んなオーストラリアや英国のセレブなひとたちの動物愛護の精神性が
はたしてどこに由来するものなのか、きわめて懐疑的にならざるをえない悪魔的出来事をご紹介しましょう。
はじめに、英国政府と教会修道院、慈善団体がしめしあわせて策動した
「オーストラリアへの強制児童移民」の事実からおつたえしてみたいとおもいます。
1938年に西オーストラリアのパース大司教が述べた驚くべき「児童移民歓迎の辞」には、
「ゆりかごが空であることが過疎の一因となっている時代には、供給源を外部に求める必要があります。
そしてもしこの不足を我々と同じ人種で補うことができなければ、
我々は近隣地域に住む多産な無数のアジア諸種族の脅威に自らの身をさらすにまかせることになるはずであります」という、
白人至上主義の動機が強迫観念のようにかたられています。・・
それでは、その「児童移民」とはいったいどのようなことだったのか?
それはそもそもさきほどのオーストラリアの司教の言辞にもあるように、
白人支配を維持するためにオーストラリア政権からの要請にこたえるべく
大英帝国政府の下でひねりだされた悪魔の策謀にほかならない。 なぜなら
この謀りごとには「児童福祉予算の削減を目指す英政府の一石二鳥の意向」という側面もあったのです。・・
英国では「養子制度」が一般的に認知されていたようだが、
それを悪用して、育児が困難な事情をもつ母親につけこみ、
さも良い家庭に幼児がもらわれていったと騙して安心させ、関係を絶ったうえで、
孤児院に放りこみ、さらにははるかオーストラリアに棄てるようにして送り込んだというのが事実なのだ。
「大英帝国の迷い子たち」はこうしてはるばる「カンガルーに乗れる夢のような新しい国」に引き渡されたが。・・
砂漠の中に隠されるようにもうけられた巨大な孤児収容施設には多くの修道僧が待ち受けていた。
だが、子どもたちは、そこが夢の国などではないことを、
強制労働と飢え、暴力虐待、レイプといったおぞましい世界であることをおもいしらされる。
この暴挙をドキュメンタリー風映画にしたジム・ローチ監督の「オレンジと太陽」は必見でしょう。
「わたしは8歳を最後に泣き方を忘れた。・・」と、
幼くして悪夢のような残酷恐怖をおしつけられた初老の男性は告白する。・・
児童移民はすでに1681年にヴァージニアに入植した子供から始まりオーストラリアだけでなくカナダ、ニュージーランド、ローデシアにも送り出されていた。
最後の児童移民から23年後になってとうとう英国政府は謝罪したが、
1970年代までになんと延べ13万人にのぼるといわれている。・・
・・このような悪魔も目をそむけるようなの虐待の歴史をお持ちの国のひとたちが反捕鯨・動物愛護をいくら語ったところで、
それがどこまでも尊大でスノッブな白人セレブのナルシズムにすぎない虚妄のプロパガンダであることは明白。
ところで話はまだつづきます。
この悪魔の「児童移民」政策と同時期に、オーストラリア政府は先住民族アボリジニにも目をつけ、
白人優生思想という強迫観念の実現にむけて狂気を高進させていった。
1910年から1970年にかけて、オーストラリア政府では白人の人口増を企図して、
「アボリジニ保護隔離政策」につづいて「同化政策」を施行してきた。
この法の主旨は、アボリジニにデビルと呼ばれたアボリジニ保護局局長ネビルが明かしています。
-- 「混血児を文明化する。人種交配も三代もつづけば、ごらんのように原住民の特徴は消滅します。
神に祈りを捧げることから、教育をはじめて、
白人文化のあらゆる知識を授けてやるのです。野蛮で無知な原住民を救うのです。」・・
ドキュメンタリー風映画「裸足の1500マイル」には、アボリジニの母親と姉妹が登場しますが、
混血アボリジニの娘たちは「娘狩り」に来た監督官に親から引き離され、
2400km離れた「保護」施設に、家畜のオリのような列車で運ばれ、放りこまれる。
皮肉にも娘たちは、
ラビット・フェンスとよばれる隔離逃亡避けの世界一長いフェンスを建てるために来た白人との間に生まれた混血児だった。
「保護」施設では、身体検査をしてとくに色の白い子どもをピックアップして養女などにする。
白い子どもほど頭が良いからだときめつけているのだ。
「君に新しい世界の生き方を教えよう、
“ 義務 、 責任 、 奉仕 ” がわれわれのモットーだ。」と、牧師が言う。
その言葉と裏腹に、
逃走して捕らえた子どもを折檻小屋に監禁、虐待する。
これも「教育」だと言い放つものたちは、なぜか神を信仰するものたちでもある。
都合のいい神がいるものだ。
少女モリーたちはこのまやかしの新しい世界から懸命に逃走する。
雨に撃たれても強靭な体力でなんと世界一長いフェンスにそって2400キロを歩きとおし、
9週間かけてついに帰りつく。 これは実話なのだ。
「そしてわたしたちは砂漠の奥地に身を潜めた。
わたしは結婚し、娘がふたり生まれた。
だが、わたしと娘たちは捕らえられ、
またムーア・リバーに送られた。
わたしは下の娘を抱き、ふたたびジガロングまで歩いて戻った。
でもまた娘は3歳のときにネビルに連れ去られた。
二度と会えなかった。
グレーシーは故郷に戻れぬまま死んだ。」・・・
いまは米国となった土地にも先住民族が自由にくらしていたが、
白人の侵攻によって砂漠やロッキー山脈におしこまれたように、
オーストラリアにおいても、アボリジニは西部の荒涼とした不毛の地におしこめられた。
そのうえでの、拉致誘拐が政策としてついこの前までおこなわれていたこと。・・・
かれら白人支配者たちとは、いったいどのようなニンゲンなのだろうか?
その神をも畏れぬ所業がふつうになんのためらいもなく行われたという点では
ナチスが自覚的であったよりも、はるかに罪が重いといえよう。・・・
...............................
あなたの推薦クリックを毎回よろしく願います!
へ!
こんにちは、のほせんです。
ずいぶんのご無沙汰でしたが、
みなさんはお変わりありませんか?
あの東電原発爆発に直面した福島県のみなさんの生き難い叫びが
多数の自殺者累計発表のかたちで報道されています。
・・「東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が原因とみられる福島県内での自殺に歯止めがかからず、
今年は5月末までに8人が命を絶った。
内閣府が20日、福島市で開いた被災3県合同の初の自殺対策会議で明らかにした。
平成23年6月の統計開始からの累計は54人に上るが、会議では原発事故という特殊要因を抱える本県に特化した自殺防止対策はまとまらなかった。」 (福島民報)・・
はたして、行政の連中の統計すら、たしかなものかもあやしいかぎりですが。・・・
もとより、ためにするフッコーを声高に喧伝する行政の連中がほんとうに助けられるともおもえないし、
いまとなっては、だれも本気で期待などしていないだろう。
だれかが言っていたが、
「民を助ける官吏など見たことがない!」というのはまったくそういうことを指しているのでしょう。
国中のすべてのギョウセイ部門は、支配のためのシステムであって、
「公共の福祉」を錦の御旗に個を顧みず、人でなし政策を国是としてはばかるところがない。
ゆめゆめ民を助けるサービス部門などではなく、そんなものはついでの駄賃にすぎない。
ギョウセイとは、召し上げた税を予算といいかえて、それを利権資本となかよく食い尽くす魔物。
それはまた、とめどなく増殖を志向する悪しき細胞のようでもあり、
情けないことに、民は維新のときからこの連中を養い、しかも支配されてきたわけだ。・・
さて今回は、
「ボルドーワインは死んだ!」という、ショッキングなタイトルですが、
世界のワイナリー業界もまた、巨大資本に蹂躙されて
いまでは有名ブランドワインが軒並みに「別の物」になり果ててしまったというお話をおつたえしたいとおもいます。
もちろん、ブランドワインなど私たちの口には滅多に入るわけではないのですが、
問題はその強大な資本により、御用批評家やソムリエを抱き込み恣意的な点数主義で購買者を洗脳し、
その結果、小さなワイナリーがはじきだされて立ち行かなくなってきたことにあります。
ドキュメンタリー映画「モンドヴィーノ」は2004年に発表されたもので、
すでに10年がたったいまではさらに「グローバル」化が席巻拡大されたことが予想されます。
・・「いまの人は怠け者になったし、消費生活というものに呑みこまれてしまった。
そして、人間は威厳をうしなった。」
そう語ったのは、イタリアサルジニア島ボサのワイナリーのおやじマイスター。
・・「はっきり言おう、ワインは死んだ。チーズも果物もだ。
ワインとは何か? 人はワインと宗教的な関わりがあったんだ。
愛やつつしみとともに、化学肥料を入れない生きている土と時間と気候とが形而上学的に関わってきたんだ。
ボルドーは今や拝金主義に堕した。」(ボルドーワイナリーのギベール氏)・・
1982年に、「ワイン批評家ロバート・パーカー」が忽然と登場した。
ワインの格付けを点数によりおこなうという、一見公正にみえるやり口で “信用” を築いていった。
むろんのことにバックにはグローバル資本が隠れているから、大手を振って神様気取り。
「この世界では金がすべてを支配しているし、金は大企業に流れてゆく!」(パーカー談)
フランスのワイン局不正行為担当者は「パーカーこそ不法行為の元凶だ」と名指しで指弾しているにもかかわらずだ。・・
「ブランドワイン、たとえばシャトー・ムートン・ロートシルトだ。 その偉大な名前を
あらゆるワインにラベル付けしてその名を汚してしまい、信用を失くした。
別物になってしまった。 伝統を棄てたのだ。」
「シャトー・ムートン・ロートシルト社は「ロスチャイルド男爵夫人が現在のトップです。」
「夫人はカリフォルニアではモンデヴィ社と20年以上もオーパス・ワンの共同経営をやってきた。」
また、高級ブランドのワイナリー・サンテミリオン社の幹部も、
「パーカーのお陰だよ」と発言している。・・
「タンクに微酸素処理することやテロワール(地味)の無さを新樽のオークで隠して
より均一でグローバルな味だといって宣伝している」・・
ワイン・コンサルタントは悪びれずに言う、
「パーカーは米国側の優秀な代弁者だ。 彼を含めた批評家たちは互いに評価を合わせている。
いかにも消費者側に立った批評家だと誤解させること。 宣伝PRとはそういうことだ。」・・
・・「わたしのテイスティングは見せかけだけのパッとひろがる今どきのワインとは違う。
舌から喉へ長く味わう。それは広がるのではなく、まっすぐ長くだ。」(ブルゴーニュワイナリーのおやじ )
「そう、この今風のブランドワインは娼婦のワインていうのよ。ひとを騙すワインね。
最初からすぐに口いっぱいに広がり、いい感じになったとたんに背を向ける、裏切りのワインよ。」(その娘さん)
「いまやワイナリーの戦場はブルゴーニュだ。
レジスタンスと戦争協力者とのたたかいなのだ。
若い者でもワイナリーの伝統に戻るものが出てきたんだ。」(おやじさん)
「ワインは造る人に似る。パパのワインは素っ気ないほど頑固。 だけど15年たつと旨くなる。」(娘さん)・・
・・「この現代社会には新しいファシズムがある。“ 流通の独占だ ”
良いワインは不要! ただ均一なものを大量につくれ!という脅迫のもとに」・・
「この国(フランス)でもいま、自由が抑圧されている。
だれもが、 “ 国のためなら我慢しよう ” という。」・・
「われわれには胸を張って生きてきた誇りがある。
金持ちか貧乏かは問題じゃない。
現代人は進歩という幽霊に惑わされている。」・・
・・グローバル資本が、世界中の地域産業を根絶やしにし、
その土地に生きてきた個の人生の尊厳をも踏み潰そうとしている。
このドキュメンタリーが世界で観られることをねがいたい。
....................................