こんにちは照れキラキラ


只今、在宅介護真っ只中ひらめき電球キラキラ

相変わらず、毎日がドタバタですDASH!キラキラキラキラキラキラ


今日は『オモイの力』について

ふと思いたち書いてみようと思います。




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わたしはいつも、言葉と言葉の節々や

雰囲氣で人のことをみるクセがある。


で、いつも思う。


父は今よりも出来るようになりたいと願う。

ただ、その願いは関わる人によって、

その願いを半減してしまうことがあると。


医学的な今までのエビデンスも大事だとは思う。

色んな事を積み上げて体系化するのは

すごいことでもあるし、

1つの指標にはなると思うからだ。

ただ、それ一択になるのはどうかとも思う。

だって、強固な制限の枠になってしまうことも

あるのでは?と思うから。


それはいつも父がそう思わせてくれている。


人の細胞のとてつもない可能性を、

もう老人だからとか、

今までのエビデンスが云々だからとかで、

決めないでほしいし、

決められるものではないと思っている。


それは、ただ単に、人が勝手に決めた枠でしかない。


色んな事を受け止め、

やっともっと出来るようになりたいと

思うようになった父。

そのオモイは、父を作り上げてくれている

すべての細胞ちゃんに届いているとわたしは思っている。


そして、それは父にとっての力強い応援団でもある。

父を作り上げてくれている60兆もの細胞ちゃんたち。

なんて心強い照れキラキラ


父に関わってくださるリハの先生。

いつも出来ることをしてくださっている。

もちろん、すべてがすべて出来るわけではない。

けど、そのリハの先生のオモイも

父の細胞ちゃんを通じて届いているモノだとわたしは思う。


だからこそ、出来なくなることはあっても、

ちゃんと立て直すだけの土台が整っているのだと思う。

(それでも父のモチベーションはやっぱり下がる。。。

『出来る→出来ない→出来る→出来ない→出来る』の

繰り返しになるとモチベーションが下がるのは容易に想像はつく。

本当のことをいうと、やっぱり在宅介護で

出来るようになったことを施設でも維持できると

ありがたいなとは思う。

父のモチベーションを保つために。

出来ることと出来ないことがあるのは分かってるので、

ちょっとした父の氣持ちの代弁💡と

ちょっとした家族の心の揺らぎも書いちゃいました💡

父と一緒に喜び、父と一緒にションボリもするので。)


さて、話は戻します💡

そんな中でも、

たまにこころないことを口にする人もいる。

『老人なので出来なくなっていって当たり前なので』と。

(確かに、人のやる氣や肉体的なことを見たとき、

無理はできないね。という状態の人もいると思う。)


そして、それは事実ではあると思う。


ただ、その時感じた言葉の雰囲氣が

異様な感じだったのは覚えている。


その人の意識は常に、1にも2にも

『老人は出来なくなって当たり前』の世界なのだ。

だから、きっと奇跡なんて見たこともないのだろうと思う。


とてつもない心がふるえるステキな世界もあるのに。

すごく勿体ないなと思うことがある。

何かが出来るようになることだけが奇跡ではない。

瞬間瞬間に奇跡は散りばめられているのだ。



わたし自身の世界もそうだし、

父の世界もそう。

モノ作りにおいてもそう。

(ここにはステキな世界のことだけを書いていますが、

わたしも人間なので、色んな感情も學びもありますので~💡)


色んな意識の人がいると思うけれど、

『良くなりたい』と思う介護される側。


『エビデンスの上をいく人の細胞の可能性を引き出したい』と思うリハの先生。

『せめて、今の状態をキープしてあげたいから

リハの限りある時間内で出来ることを精一杯しよう』と思ってくださるリハの先生。

『老人は出来なくなっていくのが当たり前だから』と思ってるリハの先生。


例えば、色んなオモイの組み合わせが出来ると思うのですが、

それぞれのオモイの共振共鳴具合で繋がる未来は

マイナスになったり、0になったり、

50%になったり、100%になったりするとオモウ。


そんなオモイの共振共鳴で、広がる世界✨は

必ずあるとわたしは感じている。



モノ作りならあちらの意氣とこちらの意氣の一致✨

下矢印(意氣という言葉はないと思うのだけど、

  氣を感じるという意味合いで使っている

  その記事は、こちら)



共振共鳴するモノ同士には、

それ相応の調和と拡大があるのだと

わたしは介護を通して、

モノ作りを通して、

心底思っている。



(むかし、父がお世話になった病院のリハの先生に

たまたま父が2度目のお世話になったことがある。

その先生は、2度目に父を担当することになった時、

『どこかで見たことある名前と思ったら○○さんでしたか!

もっと拘縮が酷くなってると思っていたけど、

びっくりするくらい大丈夫だね✨と開口一番に

嬉しそうに言ってくださったことがあった。


ということは、父に接してくださったリハの先生は

『良くなってほしい!』というオモイが強いリハの先生に

関わっていただけていたのだなとすごく思う。

體は呼応するのだと思う。


父は男性から見たら細身のタイプだし、

症状からしてもエビデンス的にみてもあまり動けないと思われるからか

リハの先生は女性が多いのだけど、今の状態でいられる父の状態をみて

ステキな先生に関わっていただけているのだなと思う。)



奇跡というのは、そういうなかでこそ、

起こるものだとわたしは感じている。


(リハビリ病院の時点で、父の體には

2本の管がついていた。

経鼻栄養の管と尿管の管だ。


けれど、両方ともとれている。

これも奇跡だと思う。

尿管の管をとるのはリハビリ病院の先生は反対だったようだ。

(色んなリスクもあるからなので、その反応は納得するものでもある)

けど、急性期医療→リハビリ病院→老健施設(在宅)と場所が移動するなら、

管をとれる機会はリハビリ病院しかないと思ったので、

ここを逃すわけにはいかないと、

家族が父の尿管とりたいと先生に伝えたのだ。


先生は提携の泌尿器科に紹介状を書いてくれた。

レントゲンをとっても特に問題はなかった。

ただ、半年ほど管を入れっぱなしだったため、

自力で出すことを覚えているかが問題でもあった。



けど、看護師さんは管を入れていても

入れてなくてもリスクがあることを教えてくれた。

それならと、自然な方を選ぶことにした。


看護師さんたちも協力してくださった。

(膀胱の中の尿の量を計ってくださったり、

父の膀胱の中に出しきれていない尿があったら、

管をいれて出してもくださった。

勿論、父も最初は大変な思いをしていたと思う。

目を見開き必死の形相だった。

もよおしたら、お尻の割れ目の少し上をコショコショしたりして

排尿を促した。お父さんの體なら大丈夫と囁いて肌を撫でた。

そうしてるうちに、少しずつ排尿することを思い出してくれた。

そんな奇跡もあるんです。

父はその当初、今より言葉がでなかった。

どうするか判断は難しい。

家族も悩みに悩んだ。

父には話しをして、手の握り具合でイエス、ノーを聞いた。)



祖母の見せてくれた数々の奇跡。

父が見せてくれている数々の奇跡。


そういう奇跡をたくさん見ているので

人って本当にすごいな✨と思うんです。


父はそういうことを周りに伝える(氣付かせる)

お役目があるのかもしれないなクローバーとも

思ったりする今日この頃。


そして今、わたしは、人の細胞って

人の可能性ってすごいんだよ✨

ということを、伝えたくなって伝えている。


そして、人のオモイとオモイの相乗効果も

ピタッとはまればスゴイ奇跡を生み出すし、

そのオモイが共振共鳴できる人と繋がり、

奇跡の相乗効果を生み出すことになっているようにも思う。


(何を奇跡として捉えるかは人それぞれですが、

わたしは一期一会のステキな景色に出逢っても奇跡だと思うし、

えっ。。。と思う状況があっても、

選択の連続で結果的に奇跡に繋がっていたと思うこともある。

美味しい食べ物に巡りあえても奇跡だと思うし、

生産者さんの心意氣を感じて出逢えたことが奇跡だとも思う。

ウォーキングの時に可愛い植物に出逢えても

キャー♪o((〃∇〃o))((o〃∇〃))o♪と思う。

だって、この瞬間瞬間自体、一期一会の折り重なりだから。


この世には驚くほど、たくさんの人がいて、

モノがあって、考え方があるなかで、

繋がるってスゴくないですか?)


なので、奇跡はこの世に溢れていると、わたしは思っている。


(父にも、この記事をアップしていいか聞いたら、

オッケーと💡

『色んな人に奇跡がおこったらいいね!』と

父に言ったら、ニコッと頷いて『イイキラキラ』と言っていました。


奇跡といったら、どれほどの奇跡か?と

思われる人もいるかもしれませんが、

父は要介護4です。

けれど、この状態になっているだけでも、

とんでもない奇跡ですクローバー)




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今日もこうして目を通してくださった皆さん、

ありがとうございます照れクローバー