命をかけて



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先に読んで頂きたいです




そうか

99%の諦め

この言葉がやけに突き刺さった



エジソンは

99%の努力と1%のひらめきって言ってたけど

言葉の究極さ、割合の極端さと言うより

数字の%(パーセンテージ)の破壊力にやられたって感じ



私は今、生きる為に生きている

99%の死体、1%の生体

これ(死)が何を意味するモノなのか

今やっと気づき歩み始めた



その1%に対してはこうだ

一縷の望み

藁にもすがる思い

が適切な感情かも知れない



生き直しを決めた時

1%の希望、1%の可能性

の方にフォーカスをしたんだ

私にはそれは簡単な事じゃなかった



それは

じぶんのを受け入れる事から始まった

病気を介して死を目の前に突きつけられた

旦那さまの死もそーだった

結果、生きる…を選択する事を余儀なくされた

立て続けに死と生に向き合わされた



『人はいつか死ぬよ』

『あなた死ぬよ』

この二つは似て非なるモノ

でも、ほんとの所…全然違う



一度突きつけらたら抗えない

もー、抵抗が出来ないニヤニヤ

理解が追いついてもくれない



それは

未知の世界

受け入れなければ進めない



私はもしかしたら

視えない世界の愛の形を歩いている⁉️

イザナギとイザナミの世界観みたいに

黄泉の世界と光の世界を学んでいる⁉️

究極を辿っているのかな⁉️



パートナーシップの原型

であり原罪



キリストは原罪の改め方を説いていた

以前、前世セッションを受けた時

キリスト教を広めにきた宣教師だと告げられた

最初こそわからなさ過ぎてポカンだったけど

それキッカケでずっと行きたいと思ってた

キリストの墓に旦那さまと行けた

(前のインスタアカウントにその時の記録が残ってる)

そしてその日彼は行方不明となり帰らぬ人となった



誰も責められないし

責めてた所で何も始まらない

だから私はひたすら自分を責めてしまったけど

視るところはそこじゃないとはわかっていた

頭がおかしくなりそうだった



それからずっと考えていた

何か考えた所で私の頭はたかが知れていて

考えるのをやめてタイミングを待つことにした

そして今、ようやく繋がった気がする




私の中にはいちいち

罪の意識

がどの感情にも付いてると言う事がわかった




ずっと99%死んだように生きて来た

1%の可能性で生きる事を放棄してまで

その報いがもし病気を作ったのだとしたら

私は私に対して何とも卑劣極まりない

悍ましい大罪をかしてしまったのだろう‼️



生と死

こんなにも究極を見つめるよう促され

辿らされるコトになるなんて



この身体を持ってして

に関わる世界を歩かなければならなくなった

人から見たらあたりまえかも知れない

でも、私にとってはあたりまえじゃない



はみ出す事で逸脱する事で

人とじぶんとの違いを強調してきた

それをする事がカッコイイとさえ思いながら

何も出来ないじぶんとわかってて

他に主張する術を知らなかっただけで…



抵抗する事こそがカッコよいと思い

じぶんでは何もせず

拗ね散らかして甘えまくって

誰かに何とかしてもらおうとしてきた



受け入れる器がなかったとか

もはや、そーゆー事ですらない

世間知らず極まりないってだけ

本音言えば薄々気づきつつも

恥ずかしいと知りながらもやってた感じ

引けなくなってたのかも知れないニヤニヤ

それでも抵抗する事でしか意識を保てなかった



死を受け入れて生をまっとうする

死より生を選ぶと言う事の意味を見ている

意識の矛先をスライドしたんだ

人生やり直しを決意したから



どーせ死ぬのだから

だから私を生かす為に最後に悪あがきをしようって

1%の可能性に必要を感じてみたくなった

そこを転じさせてまで生に執着してみたら⁉️

また違う世界が見れるかもしれない

普段の私ならカッコ悪い事だと思っていた事

あえてそこをやる…と思えるようになった

存在を手薄にしていた現実を見る事を

今までバカにして見下して来た世界を

新しい視点で一生懸命生きてみよう…って思う



生きるって

あたりまえじゃないんだよ





もーすぐ、旦那さまの命日がくる

彼の思いと私の可能性を胸に

あえてを選んで生き直してみようと思う