027 東陲ネンゴロ庵 「福島横穴見聞録」5 | 東陲ネンゴロ庵

東陲ネンゴロ庵

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027 東陲ネンゴロ庵 「福島横穴見聞録」5


1 はじめに

・  ネンゴロ庵、庵主後聞です。熊本地方を中心に、激しい地震が続いています。亡くなられた方々にお悔やみ 申し上げます。被災された方々へお見舞いを申し上げます。ネンゴロ庵も古びた柱や梁がきしみ、今にも崩れてしまうかと心配するほどでした。何時襲ってくる か分からない揺れに、庵主も寝不足気味です。早く終息してくれることを願うばかりです。庵は今のところ被害はありませんが、これからどうなるか分かりませんので、避難するかどうか考えているところです。

・ さて、今回は、室町時代に福島県に存在した関東公方の出先機関の話から始めたいと思います。


2 関東管領奥羽探題稲村御所(かんとうかんれい おううたんだいいなむらごしょ)

・ 時は、室町時代、南北朝の合一、つまり北朝方の足利氏を中心とする幕府が南朝方を押さえ、全国を統一した14世紀末のことです。

・ 京都では、三代将軍足利義満が、幕府の実力を高めようと、様々な画策を行っていました。開設されました。関東には、鎌倉府が置かれ、関東一円の支配体制を築きつつありました。元々足利氏は、今の栃木県足利市を本貫の地としていました。最初は、後に二代将軍となる義詮(よしあきら)が、主となっています。やがて、将軍となって京に去った義詮の後を、弟の基氏(もとうじ)が継承します。これが初代とされ、関東公方(かんとうくぼう)、関東管領(かんとうかんれい)、鎌倉御所(かまくらごしょ)などと呼ばれます。つまり、室町幕府の関東支局のような役割を持つことになったのです。

・ 基氏の次は、その子氏満(うじみつ)。これが二代目です。次の三代目は、氏満の子である満兼(みつかね)が継ぎます。

・ 応永五年(1398)鎌倉公方となった満兼は、翌年早速、弟二人を奥羽の地へ送ります。

・ 一人は、満貞(みつさだ)で、現在の福島県須賀川市に赴き、稲村御所(いなむらごしょ)と称します。

・ もう一人は、満直(みつなお)で、現在の福島県郡山市へ下向し、篠川御所(ささがわごしょ)を称します。この二人を支援したのは、足利という名前、権威を利用しようと考える在地の勢力であった事は言うまでもありません。両御所は、幕府の権威と当地の勢力バランスの上に成立していたと言えるでしょう。

・ さて、福島県に奥羽探題が二ヶ所に存在していたと言うことを聞いて、奇異に思われる方も多いと思います。奥羽と言えば、現在の宮城県、岩手県、青森県までを含むからです。それを、南の端である福島 にだけあるなんて、偏りすぎています。これはどういうことかというと、簡単に言えば、関東公方の勢力が、ここまでしか及ばなかっ
27-1 たということです。また、
京都と鎌倉の関係もあまりよくなかったということもあったようです。出先機関が力を持ちすぎると、本社はそれを制御しようとします。独断専行を許すと、秩序が乱れてくるからです。これもよくある話ではあると思います。勢力争いは、何時の時代でもあるものです。まして兄弟や一族が東西で覇を競うような状況になれば、大乱の恐れすらあります。

・ 上の写真は、稲村御所のあった辺りと推定されます。特に何かが
27-2 残っているというわけではありません。すぐ近くに、赤城神社があります。左の写真、左手の石柱には「
村社赤城神社」とあります。右手に見える「赤城神社之碑」には由緒が刻まれています。碑文を少し読んでみます。

・ 「当神社は、赤城神、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)、経津主神を祭る。」

  「崇神天皇の御代に、皇子豊城入彦命を上毛野国(群馬県)に遣わし、東国開発の経営にあたらしめる。その開発成就を祈念し、赤城神社本宮を奉齋し、農耕水源の神、当地鎮護の神と崇め奉るという。」

  「後世、国威東に伸び、豊城入彦命を祖神と仰ぐ子孫と氏族は、生活の地に赤城神を祀り(後略)」

(須賀川の稲村に移り住んだ人たちは、そのご先祖である豊城入彦命を祀りました。それが、この赤城神社です。) 

「我赤城神社は、当地の太守鎌倉幕府執事二階堂行村室町幕府関東管領奥羽探題稲村御所足利満直の祈願所となる。」


27-3 (二階堂行村は、鎌倉幕府の官僚です。碑文から当地の領主であったという事が分かります。戦国時代にも二階堂氏が此の地に盤踞したということのようですが、そのつながりについては、よく分かりません。)

(足利満直は、稲村御所の主で、関東管領(関東公方とも言う)三代目満兼の弟にあたる。碑文では、満直が稲村御所としているが、やはり兄弟の満貞がそれにあたるとしている文献も有り、定かではない。石碑は、昭和六十二年に建立されているので、その時点での見解なのかもしれない。よく分からないところである。)

・ 設立から、稲村御所は30年ほど、篠川御所は40年ほど維持されたようである。篠川御所は、周辺の諸氏に攻められ、滅ぼされたという。やがて時代は戦国と呼ばれる争いの時代に推移する。

・ 最後に、豊城入彦命について。命は、崇神天皇の皇子とされています。十代目に至った天皇家は突如として外へ向かって攻勢に出ます。それが四道将軍の派遣で有り、豊城入彦命の北関東派兵なのです。しかし、何故この時期に奈良大和から一気に全国区へ躍り出ることができたのでしょうか。豊城入彦命の存在も、この謎を解くための一つのヒントです。私は、「近畿大戦」と呼んでいますが、後日詳述することをお約束しておきたいと思います。


3 福島二本松が生んだ朝河貫一

・ 以前「君が代は日の丸で歌われる」で少し触れたことのある朝河貫一博士は(以下朝河)、現在の福島県二本松市の出身です。私には彼について語る資格は何もないのですが、先のシリーズで入来と多少の接触を持ったことから、ここで話題にしたいと思います。

・ 二本松藩(丹羽家)は、幕末、十万石余の領域を有していました。戊辰戦争では、政府軍に反して戦い、敗北・落城します。朝河の父も従軍していたということです。

・ 朝河は、明治6年(1873)生まれ。福島の中学校を卒業し、東京専門学校(現在の早稲田大学)に学びます。さらに、アメリカに留学し、エール大学に学び、そこで教職に就きます。明治という時代を考えても、渡米の困難さは容易に想像できますが、朝河の強い意志と周囲の援助があったればこその壮挙であったということができると思います。明治28年(1895)の事だったそうです。

・ その十年後、日露戦争の講和が行われたポーツマスでは、市民オブザーバーとして、会議の進行に関与していきます。この活動は、アメリカでは高く評価されていますが、日本では全く取り上げられていません。私も評伝を読むまでは知りませんでした。歴史上そうしたことはよくあるわけですが、残念です。野に遺賢なしという姿勢がありありと見えます。

・ 朝河の代表的な著述として、入来文書の研究が挙げられます。現在の鹿児島県薩摩川内市入来に伝わる文書群を研究し、日本の封建制を明らかにしました。それは、西ヨーロッパと比較研究を行い、その異同について言及しています。詳しいことは、市販されている書物もありますのでご覧ください。

・ 朝河は、「大化の改新」を始めとして幾多の論文において、歴史の真実に迫ろうとしています。また、平和を希求する彼の魂は、昭和天皇へのルーズベルト大統領親書案を書かせています。ほんの一部しか紹介していませんが、朝河の歴史学、平和学に於ける貢献は、まさに巨人と呼ぶのにふさわしいものです。

・  しかし、日本において朝河は全くといっていいほど知られていません。朝河によって白日の下にさらされた 真実を、都合良く思わない勢力が、朝河の業績を無視し、人々に伝わらないようにしているとしか思えません。私はそれに少しでも触れることができたのは、幸 福であるといえるのかもしれません。悲しいことですが。私にできることは何かということを見つめ、これからも精進していくことだと思います。


4 おわりに

・ 福島横穴見聞録というのに、全然横穴が出てこないじゃないかという声が聞こえてきそうです。次回は、横穴について記し、福島編を終えたいと思います。これで失礼します。


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入来の事について再度触れてくれてありがとう。

これからもよろしく頼む。

二度目の登場 薩摩川内市入来麓のいつもいそがしいネコより