026 東陲ネンゴロ庵 「福島横穴見聞録」4 | 東陲ネンゴロ庵

東陲ネンゴロ庵

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026 東陲ネンゴロ庵 「福島横穴見聞録」4

1 はじめに

・  ネンゴロ庵、庵主後聞です。小さい頃、即席ラーメンをよく食べていました。そうめんなどと同じように、 棒状に伸ばしたものです。出始めの頃は、棒ラーメンとも呼ばれていたようです。何故、よく食べていたかというと、プラモデルが当たるということからでし た。懸賞付きだったわけです。小学生の頃のことだと思います。首尾良くプラモデルを手に入れ、何とか作りました。日本海軍の戦艦長門だったと記憶していま す。特に戦艦が好きだったのではなく、たまたまそれが当たったというにすぎません。近くの小川に浮かべて遊びました。何かがほしいという思いだけだったよ うで、プラモを作るということは、それ以後はあまり記憶がありません。

・ さて、何故ラーメンのことをここで持ち出したかというと、その名前が「福島ラーメン」だったからです。福岡県八女市で製造されていました。八女市に元々福島という地名があります。この地名が東北の地に移されたのかどうか分かりません。実際に移された地名についても、触れてみたいと思います。


2 甲塚古墳を眼下に望む神社

・ 前回お話ししたいわき市の甲塚古墳のすぐ近くの丘陵上にあるの
26-1 が、延喜式内社である大国魂(おおくにたま)神社です。有名な同名の神社が、東京都府中市にあります。武蔵国の総社とされているようです。どちらの御祭神も
大国魂大神であり、童謡でも知られた大国主命(おおくにぬしのみこと)と同体であるという説明があります。分かりにくいことですが、
26-2 いくつも名前があるというように理解されています。他にも、七福神の大黒様(だいこくさま)や八千矛神(やちほこのかみ)という名前があります。今後、大国主命について説明するときに、詳しく述べたいと思います。いずれにせよ、
出雲の勢力が全国を席巻していた古代において、此の地も例外では無かったという事の証拠であると思います。出雲の勢力と 言っても、東出雲の熊野大社、西出雲の杵築大社、奥出雲の須賀神社

・須佐大宮などがあるということを、ひとまずお断りしておきます。

上の写真は、いわき市の大国魂神社の社殿です。境内には、宮崎県延岡市の史談会が植えたクロガネモチの木がありました。両市は、江戸時代の大名内藤氏の縁で、兄弟都市となっているそうです。そのことによる記念植樹のであるということです。


3 安積国造神社(あさかこくぞうじんじゃ)の灯籠

26-3 ・  写真は、郡山市の中心部にある安積国造神社前にある駐車場の様子です。倒れた灯籠の部分が傍らに置かれています。震災から数ヶ月、大きな重い残骸は、そ の災害の様子を私に語りかけているようにも思えました。周囲には、その他にも巨大な円柱が何本も横たわっていました。整理されて片隅に保管されてはいます が、これが倒れかかかってきたと思うと、ぞっとします。被害に遭われた方もおられたのではないだろうかと心配するのみでした。きれいに洗い清められている のでしょうか、新しい建築材ででもあるかのようにさえ見えました。







 この神社のご祭神を見ると、驚くべき発見がありました。書かれ
26-4 てある順番に、

➀ 和久産巣日神

(わくむすびのかみ)

② 天湯津彦命

(あまゆつひこのみこと)

③ 比止禰命

(ひとねのみこと)

④ 誉田別命

(ほむたわけのみこと)

⑤ 倉稲魂命

 (うかのみたまのみこと)の五柱です。神様の数え方として「柱」(はしら)があります。この内、④は応神天皇(応神天皇)、⑤は稲の神、穀物の神として知られています。➀と②は、③の祖先神という説明がありました。

・ さて、問題なのは、③の比止禰命です。神社の由緒には次のようにあります。

 「天湯津彦命の十世の孫。第十三代成務天皇五年、勅命により阿尺国造(あさかのくにのみやつこ)に任ぜられた。安芸の国から未開の当地へ赴かれ、社稷の神様として和久産巣日神、天湯津彦命を木山に祭られ、阿尺(あさか安積)の国を開かれた。」

 成務天皇の時代には、地方行政組織が整えられたとされています。比止禰命の話もそれを受けたもので、歴史的な整合性があります。私の解釈では、成務天皇は駐留軍として近江西部(大津市穴太)の辺境地域を守備していたと考えます。日本全国を支配していた権力によって、比止禰命は、安芸から陸奥国に派遣され、郡山市及び旧安達田村両郡を支配したのです。そして、現在も地域の開拓神として祭られているのです。このことについては、私が当ブログで皆さんに伝えたい本論に関連する事柄ですので、後日詳しく申し述べたいと思っています。


4 福島にあった久留米

・  東京都下にも、東久留米市がありま すが、これは福岡県久留米市との関係はないようです。しかし、福島県郡山市久留米は、遙か九州から移住した人たちが持ち込んだ地名であることがはっきりし ています。久留米郵便局、久留米交番、久留米開墾資料館を始めとして、銀行やショップの支店などにも名前が見られます。この写真は郡山市の
26-5 久留米水天宮
です。久留米市には、全国の総本宮である水天宮があります。それを此の地に勧請、つまり移り住んだ人たちが携えてきたわけです。はるばる東北の地へ移住し、開墾という一大事業に取り組んだ人々が、心の支えとしていたことが想像されます。

・ 震災の影響は此の地にも及んでいました。灯籠の上部が落ちていることがお分かりになるでしょうか。

きれいに掃き清められた境内ですが、未だに石塔を復元することはできていませんでした。

・ 開墾当時の様子については、神社の石碑に詳しく刻まれていました。久留米開墾百周年記念碑によると、「明治の初め政府は国費をもって、士族授産と殖産興業を進め、久留米藩士は率先して政策に従い、明治十一年(1878)十一月十一日、ここ大蔵壇原並びに対面原に、百四十一戸、五百八十五名が移住し、刀を鍬にかえてから百周年を迎えた。(1978 昭和53年)思えば古来不毛の地として顧みられなかったこの原野は、先人の文字通り、苦闘の風雪を超克して開拓精神によって美田となり、経済都市郡山の今日のごとき飛躍発展の基盤を成した。」とあります。

・ その苦労の様子は、同じ境内にある「吉富翁之碑」に詳しく書かれています。ここでは割愛します。


5 伊達政宗を救った武将

・ 郡山駅から奥州街道を北へ向かい、逢瀬川を渡ると、左手前方に
26-6 日吉神社の森が見えてきます。ここに、伊東肥前の碑があります。

・ 天正十六(1588)年7月、窪田城(久保田城 郡山市内)において、伊達氏と佐竹氏は相対峙しました。この際、苦戦に陥った伊達政宗を救い、伊東肥前重信は手兵30騎と共に戦死します。その後、伊達家では参勤交代の途上、必ず籠を止め香華を手向けたといいます。この戦いでは、伊達氏が、最上氏・蘆名氏・大崎氏に腹背を攻められ、苦しい状況でした。最終的に政宗は勝利を得ますが、太閤秀吉の惣無事令に反したとして、勝ち取った領地は奪われ、仙台に国替えとなったそうです

・ 石碑は、逢瀬川の北にあったようですが、江戸時代の中頃、此の地に移されたそうです。洪水の被害でもあったのでしょうか。ここは、小高いところなので、その心配も無いようです。






6 おわりに

・ 今回は、いわき市や郡山市の神社についてお伝えしました。次回は、室町時代における関東公方の出先機関について、朝河貫一について、津波の被害などについて記したいと思います。それでは失礼します。