002 東陲ネンゴロ庵 存じ寄りのネコ殿からの引き継ぎ | 東陲ネンゴロ庵

東陲ネンゴロ庵

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002 東陲ネンゴロ庵 存じ寄りのネコ殿からの引き継ぎ

 庵主の後聞(こうぶん)です。庵に住み着いていますネコ殿に、あいさつということで話を頼んでおいたところ、奉安殿について追加の話をしろということでした。わたしも詳しいことは知らないのですが、以下書き記したいと思います。なお、ネコ殿から訂正を頼まれました。前回、戦国策からの引用ではないかと記したのですが、史記が正しいということでした。お詫びしますとのことです。ご了承ください。はっきりとは知らなかったので、私も調べてみると、臥薪嘗胆の故事で有名な越王勾(句)践(えつおうこうせん)の記事の中にあるようです。ネコ殿共々勉強不足を恥じ入っております。

 さて、ネコ殿の話にあった徳之島に、私が旅立ったのは数年前のことになります。最初の目的は、サトウキビでした。
 江戸時代後期、諸藩は財政難に苦しんでいました。九州南部の大藩である島津氏もその例外ではありませんでした。その理由は、各藩それぞれです。奢侈に溺れた放漫経営もあれば、洪水や日照りなどの天災による産業の不振・収入不足、参勤交代や普請・賦役などによる経費増大等々、経済体制そのものが音を上げていたようです。しかし、この事態を放置しておくわけにはいきません。それぞれ工夫して対応したようです。消費税を上げたり、埋蔵金を掘り起こしたり、給料や年金を下げたりと今でも様々なことが行われます。この時に財政再建に成功した藩が、幕末に力を発揮したということは言うまでもありません。
 さて薩摩でも、対策を打ち出しました。その一つが、サトウキビから作られる黒砂糖の増産による増益と借金を減らすことでした。増産には、厳しい統制が行われました。借金の軽減には、一部商人へ専売し、優遇するという措置が取られました。。
徳之島南西部犬(いん)田(た)布(ぶ)岬付近

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しかし、あまりに厳しい締め付けに村人は反抗します。それが、犬田布(いんたぶ)騒動です。ここは、奉安殿のある鹿浦のすぐ隣の地区にあたります。徳之島の南西端にあるここは、写真にあるように太平洋の荒波が打ち付ける所です。村人達は、藩の役人を島の東部中央にある亀津に追い返します。元治元年(1864)のことです。村人達は処罰されますが、砂糖の取り締まりは軽減されたということです。現地には、子孫の方々が100周年を記念して建立した石碑があります。また、身代わりになって拷問を受けた為盛という人のお墓も残っています。
 
 今、1月ですが、サトウキビの取り入れ、砂糖作りは、1月から3月が最盛期です。収穫が多いときは、5月の連休までかかることもあるそうです。今頃は、サトウキビをいっぱい詰め込んだ大きな籠を載せたトラックが道路を走っていることだと思います。砂糖工場の近くに行くと、甘い香りがするようです。黒糖焼酎も、様々な種類があるようです。量販店などでも目にすることがあるかと思います。試してみられるとよいかと思います。
犬田布岬大和慰霊塔

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さて、なかなか奉安殿にたどり着きません。もう一つだけ、お話ししておきます。写真は、旧帝国海軍の戦艦大和の慰霊塔です。犬田布(いんたぶ)岬にあります。大和は、徳之島西方に沈んでいるということです。私が行ったときには、工事中だったようで、足場が設置してありました。何も遮るもののない、強い風にさらされる崖の上ですので、時々は手入れが必要なのでしょう。碑面には、高松宮宣仁親王による碑文が刻まれています。宮が海軍軍人だったので、縁があったからなのでしょう。また、遊歩道の傍らには、大和挽歌と題された石碑もありました。
「山も哭(な)く
  野も哭く
   花もなく
この世の袂(わか)れの
夜を
  星ふる」
と刻まれており、作者は龍子とあります。それからすると、画家である「川端龍子」がすぐ頭に浮かびましたが、それ以上のことは分かりませんでした。強い西風に吹かれ、岬を歩きながら、遙か彼方の大和を偲びました。
大和挽歌石碑

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犬田布騒動に参加した人々、大和に乗船し南の海の波間に消えていった人々。時代の荒波に立ち向かい、雄々しく戦った人々に唯々頭を垂れるしかありません。誰もその時代、住んでいる国や地域の事情から離れて生きることはできません。しかし、これまでに起きた出来事や事件などを学ぶことによって、少なくとも、不幸な結末に到ることを避ける道筋を知ることはできるのではないでしょうか。「過去に目をつぶるものは、現在のことも見えない」というような意味の言葉もあります。私なりの見方、考え方で物事の本質を捉え、皆さんにお伝えできればと思います。

 さてさて、頼まれた内容からまた離れてしまいました。脱線続きですので、次回は元のルートに戻したいと思います。奄美大島、加計呂麻島、喜界島、沖永良部島で見た奉安殿のお話をしたいと思います。そして、何故、戦後70年以上過ぎた今でも、こうして残っているのは何故か考えてみたいと思います。これで今日は失礼します。