あんな小競り合いは日常茶飯事、とるに足らないこととと、誰も何も無かったようにフロアの人波が動き出す。



だが、見つめあった2人は喧騒から取り残されたかのように動けないでいた。




『エビバディ、スクリーーーームッ』

『おおおぉぉーーーっ!』



DJに応えて色めき立ったフロアは2人の空間を気にも留めない。




「櫻井さん、こちらへ」

「あ・・・」


ぐっと力強くマサに腕を引かれ、櫻井はされるがままに店の奥へといざなわれた。



「サクラ!・・・大丈夫か?」



カウンターから声がかかる。


櫻井が絡まれていることに気づくと声をかけてくれるバーテンダー。
この店の治安は彼に守られている。バーテンダーは櫻井が誰かと一緒にいると、その相手との距離が櫻井の本意か無理やりかを確認してくれる。それが頼もしく、この店を気に入っている理由の一つだ。優しい笑顔なのに、いざとなるとものすごく強い。静かで余計なことを言わないが、たまにこうして声をかけてくれることで安心できるのだ。

『今日は大丈夫』と、目線を返すと心配顔の彼だが、小さくうなづいてそれ以上は何も言わなかった。



今どきほとんど不要ともいえる、レトロな木製ブースの公衆電話。店内の隅にあるそれは、昔はこれで意中の相手に連絡をしていたのだろう。木製のブースにはイニシャル、名前、タバコの焼け跡など、なかなか呼び出しに応じない相手にヤキモキしながら手持無沙汰に記されたものか。

そんな狭い空間に押し込められた櫻井は、戸惑いとともに大きな期待をせざるを得なかった。



「マサさん、どうして」

「私こそ、どうしてと聞きたいです。サクラ・・・さん」

「ふふ、自分から聞いておいて、いざ聞き返されると野暮なことでしたね。つまりこういうことですよ。この店で僕は『サクラ』。バーテンダーとは顔なじみになるほど通っている・・・」

「あぁ。なんてことですか・・・。そして、今日は私が、あのバーテンダーにサクラさんのお相手としてふさわしいか、牽制されたと?」

「そうですね、そして、僕はその助けを制して、自分の意思でマサさんの前にいます」


櫻井は熱く見つめるマサの視線に高鳴る鼓動が抑えられず、思わず身震いをした。



「サクラさん・・・どうしました、寒いですか?」

「・・・ええ。すこし」


櫻井はマサの思い違いを利用し、寒さをしのぐ仕草をするように、自分の両腕を抱き肩をすくませ、あざとく目線を下げた。

マサは低く囁くように櫻井の耳元へ言った。



「あたためて差し上げたいけれど・・・私はこういった場所での行きずりでサクラさん、いえ、櫻井さんと関係を持ちたくない」

「アナタは本当に・・・ええ、僕もです。ここで二人が始まるにはあまりも出来すぎていて、都合がよすぎる。僕の小説だったらこんなつまらない展開は書けないな」

「『都合のいい展開』というのは、櫻井さんにとっても・・・ですか?」

「そう思ってもらって、構わないです」



マサが囁くたびに、櫻井の耳元へ熱い息がかかる。


「はぁ・・・マサさんの熱い息遣いにチョコレートのように溶けてしまいそうです」

「櫻井さん、そのようにわたしを煽らないで。あなたの甘さに堕ちてしまいそうだ・・・これでも必死のやせ我慢なのです」

「ふふふ、本当にマサさんはまっすぐで気持ちがいいヒトだ。大将の仕込みがいいのかな?」

「あぁ・・・大将の顔を思い出したら、急に冷静になりましたよ、櫻井さん」



そうしてふっと、マサは櫻井から身体を離し、公衆電話のブースからエスコートするように手を引いた。




店を出る前にカウンターからマサへと声がかかる。



「なぁ、オマエ、にのんとこの若いヤツだろ?」

「・・・はい。お世話になってます、大野さん。先日は大層な釣果だったそうで。おすそ分けをありがとうございました。」

「ん、また持っていくからよ」



そんなやりとりを櫻井は不思議そうに眺め、ふと気づく。



「なるほど、大野さんが・・・」




櫻井はこれからまたこの店で過ごすことに別の楽しみを見つけた気持ちになった。