夕暮れを閉じ込めたような、やわらかな明かりの静かなバー。
外の喧騒を一切感じさせない、とろりと時間が流れる隠れ家的なここは、心身ともに俺の潤いの場所。

仕事が休みの前日にしか訪れないこの店。なぜなら、ここでは時に、夜を過ごす相手に出会うこともあるのだから。


だが、今日はルーティンを破って店を訪れた。



普段は見ない朝のニュース番組が示した

『レールを外れた先に思わぬ出会いがある』

という占いに従ってみた結果だ。

このところ遠い彼の国の内戦に決着がつき、その収束をもたらしたのが新たに即位する王様だというので、世界情勢が気になる。念の為各番組をチェック。

そんな朝のニュースのひとつから聞こえた占いが妙に気になって、興味本位に仕事帰りに寄り道をした。


いつもはカウンターですぐに飲み切るショートカクテルを楽しむが、今日は小さな丸テーブルでゆっくりとアイリッシュコーヒーを飲みながら、久しぶりに手にした気に入りの小説をめくる。

その物語は、日本の女子高生が自分に絶望しながらつまらない日常を送っていたところに、異世界から迎えが現れ『王となり世界に安寧を取り戻してほしい』と異形のモノたちに存在を乞われる・・・というもの。童話のお姫様のように王子様を待っているのではなく、その女子高生は自ら『王になる』と決めて戦いに行く。決して初めから強いわけではない、努力と選択の積み重ねで成長する主人公に憧憬を抱く。


自分自身は王になりたいとは思わないが、朝のニュースやこの小説のように、王になりうる人物、自分の人生を賭けてもよいと思わせてくれる人に出会ってみたいと思う。


物語の世界に想いを馳せていれば、ゆっくりと近づく人影を感じた。


小説に目を落としつつ、その人物の息遣いに耳を澄ませる。



歩調から察するに、おそらく男性。
よく手入れされているだろうソールから響く上品な靴音。
余裕を感じさせるゆったりとしたリズム。
若者の身の程を知らない自尊心ではなく、確かな自信を感じさせる...

ほのかに漂うムスクの向こうにわずかに潜む甘い花の香り。
不思議な安らぎを感じる。


わずかに呼吸を深くして香りを味わっている、つかの間。
ふと、少しの距離の向こうで靴音がとまる。



「こんばんわ」



意外だった。

体温を感じない距離で礼儀正しく声をかけられるのは、この店では滅多にない。きちんと挨拶をされたなら、こちらも倣って挨拶を返さんとする日頃の社交性と真面目さが顔を出して、反射的に顔も見ずに『こんばんわ』と言いながら声の主へ顔を向ける。



その姿をみて、俺は息をのんだ。



懐かしい。

自然とそう思った。
しかし誰ともわからない。
敢えて言うなら……遥か遠くの時代に共に生きた、かつての恋人、とでも言おうか。

そんな得体の知れない郷愁に飲まれる。


白い肌にはっきりした目鼻立ち。
オールバックが映える額に、凛々しい眉は男らしく、長いまつ毛に囲まれた瞳は水を張ったように潤っている。
そして何よりも三日月のように柔らかいカーブを描く目元に惹かれた。




その美形は俺の沈黙をさして不快に思った様子もなく、鼻にかかる甘い声で



「こんばんわ」


重ねて、言った。