1日終わって、ヘトヘトで。
でも、今日は大野さんのカレーがある、あの人と食事をする約束がある、ということが、思いのほか俺を頑張らせた。



「こんばんはー。おおのさーん、戻りましたー」

「おかえり、そろそろだと思ってコーヒー煎れてる。すわって待ってて」

「はい、いつもありがとうございます」


コーヒーから立ち上がる香ばしい香りがアトリエを満たしていた。
深く吸い込めば、身体が緩むのを感じる。

ゆっくり目を閉じて、耳を澄ませる。



エアコンから漏れるモーターが回る音

大野さんの衣擦れ

カップがテーブルに置かれてコツンと音を立てる




「ほれ、お待たせ」

「ありがとうございます。いただきます」



熱さに気をつけながらゆっくりと口に含めば、香ばしく華やかな香りが鼻から抜ける。酸味が少なく、かと言って苦いだけではない絶妙なバランス。


ひとくち、ふたくち。

ゆっくりとすすって、ちゃんと味わう。

「ふぅ・・・やっぱうまいわ」

「そっか。よかった。カレーあっためるから、ゆっくり飲んでて」



昼間には明るく清らかなアトリエ。

今は日が落ちて、昼とは全く違う表情を見せる場所。
外の薄闇を吸い込んでしっとりと落ち着いた空気。


俺はここで飲ませてもらうコーヒーが、とても気に入っていた。

一日の仕事の始まり、途中、終わり。

どの時間に尋ねても、大野さんはいつも美味しいコーヒーを欠かさず煎れてくれる。

ある日『二宮用な』と、美しく繊細に槌目のはいった真鍮のカップでコーヒーを出してくれた。

それを見て、触れて、心が踊った。
俺の手の大きさにしっくりと馴染んで体温が移る


あの時の込み上げる思いは、まさに感動。

それ以来、いつも『二宮用』で出してくれる。

大野さんが作ってくれた。
世界で俺が使う為だけに存在している、俺のカップ。
今日も当たり前に、このカップに温かなコーヒーが注がれている。


そうだ。
このカップを受け取った時に、俺は『FREE STYLE』のファンになり、そして、大野智に委ねてみたい・・・と、思ってしまった。

だってこれを受け取ったら、わかる。
どれほどの想いが込められているのだろうかと。


昼間はいくら体調が思わしくないからとはいえ。
・・・いや、それだけが理由じゃないことは自覚している。




本当に愚かなことを言った。

謝りたい・・・。





「・・・あの。大野さん」

「ん?カレー食う?」

「あ、はい、カレーは食べたいです。そのために頑張ってきたんで・・・」

「米食う?パン?どっちもあるぞ」

「えっと、その前に、謝らなきゃと、思って」

「・・・どーした?」


いつもの優しい、大野さん。



「ごめんなさい。俺、昼に、よくないこと言いました」

「・・・『なんのために』ってヤツ?」

「はい」

「そうだなぁ。なんのために、なんて考えてたら、なかなかわかんねーもんかもな」

「・・・?」

「・・・信じられるように、かな。」

「・・・信じられるように・・・?」

「そう。贈りたいのは気持ち、なんだよ。伝えたい、伝わってほしい。伝える方は確実に想いはあるし、受け取るほうもそれを疑いはしない。ただ何かカタチにせずにはいられない。気持ちなんて目に見えない。形もないし、大きさもわからない。それが『ある』ってことを、アクセサリーがそこに『ある』ことで、信じられるように」

「モノがあれば、それは、気持ちは、信じられますか?」

「・・・哲学だな。目に見えるコレ、ソレ、アレ。あるかどうかなんて全部『あると信じている』だけだろ」


そういって大野さんは、俺の手に収まっているカップ、テーブルにのった花瓶、入口に置かれたささやかなクリスマスツリーを指した。

「だって、コレも、ソレもアレも、触れるものだから」

「物質的なものだけを『ある』って言ってるなら・・・そうだな、やっぱり気持ちも『ある』・・・だろうな」


座る俺を見下ろしながら大野さんは俺の頬を両手で包む。

親指でゆっくりと目元を撫ぜる。


「二宮は、ここにいる。オレは・・・それを信じてる。」

「おおのさん・・・」


見上げれば、そこにはいつも作品を作るときと同じ眼差し。
優しくて真摯で、それでいて静かに燃えるような瞳の色を感じた。



「おおのさん、青い・・・瞳」

「・・・あお?」


「バーナーで素材を熱してるときの炎の色って、青いでしょ。その色が瞳に映ってキレイっていつも思ってた。透明で、清らかで、強くて。冷たそうに見えて、実は一番温度が高い、青い炎」


大野さんが俺を見る。

作品と向き合っているときと同じ。
大切なものを見つめるときと同じ。

この感じ・・・知ってる。



寒くて。
寂しくて。
苦しくて。
またあの逃げ場のない時間を過ごすのかと思ったら・・・。



俺は弱くて、ずるい。

もう、いい。
だって誰に、何に、遠慮する必要があるんだ。

あの時の、2年前の俺はきっと誰が見ても可哀そうだった。
俺自身がそう思ってた。


だから。


「おおのさん」


甘く、ねだるような声で、彼を呼ぶ。
わかりやすく、目線を唇に移して、目を伏せる。

彼はちゃんと、その意味を受け止めてくれた。
息が唇にかかる近さで、低く、言う。


「・・・二宮、具合は」

「そんなの・・・おおのさんがあっためてくれたら治る」



ガラス窓の向こうには、クリスマスの景色。
今日はクリスマスだって、ちゃんと、思う。