本当は、
八大神社より手前にあった
こちらの
「詩仙堂」に先に行きました。🤣🤣🤣
この入り口が
何とも風情がありますね…。
この門は、
「小有洞」(しょうゆうどう)と言うそうです。
上に上がっていくと、入り口です。
上の写真の門が中門の
「老梅関」です。
詩仙堂の建物なこの窓の形が
特徴的で目をひきました💕😊
以下、青字は
詩仙堂HPよりお借りしました。
京都市左京区一乗寺にある詩仙堂は、江戸時代の文人・石川丈山の晩年を過ごした山荘跡です。
詩仙堂は、正しくは「凹凸窠(穴冠に果)」(おうとつか)と呼びます。凹凸窠(穴冠に果)とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
凹凸窠の中心には、江戸時代の絵師、狩野探幽(1602年~1674年)が描いた中国の漢晋唐宋時代の詩人三十六人の肖像画があり、各詩人の肖像画の頭上には、石川丈山が隷書体にて記した漢詩が書かれています。
四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としていることから、現在は「詩仙堂」と呼ばれています。
(写真はHPよりお借りしました)
そして、こちらにはイギリスのチャールズ皇太子(当時)やダイアナ姫(当時)も来られてたんですね…。
(HPよりお借りしました)
詩仙堂の御本尊は、馬郎婦観音(めろうふかんのん)です。 所願成就・学業成就に御利益があると言われています。 馬郎婦観音の言い伝えは、唐の時代、憲宗元和4年(809年)。今から1200年以上前の中国、唐の時代にまで遡ります。
中国・長安の西、鳳翔地方では若者たちの間で、伝統的な教養として六芸の「馬術」と「弓術」の修練に余念がありませんでした。その頃、外来思想の仏教が浸透していましたが、若者たちは仏教が説く三宝(仏・法・僧)に耳を傾けようとせず、蔑視さえしていました。
ある日、彼らの町に妙麗な一人の婦人が現れ、若者たちが「わが妻に」とこぞって求婚しました。すると婦人は、求婚を引き受ける代わりに『観音経』や『金剛般若経』の暗唱など全28項目の課題を与えました。そして見事、馬(ば)という1人の若者が課題を成したのです。しかし、婚礼の席に花嫁は現れず、にわかに息絶えてしまいました。
それから数日後、紫の衣に身を包んだ老僧が現れ、馬に花嫁を埋葬させた場所を案内させました。その場につくと、棺の中から一連の金の鎖状の骨が出てきたのです。
「これは観世音菩薩の化身である。仏教を信じようとしない、きみたちの閉じた心の扉をひらくために、方便として婦人の姿をかり、ここから天空へ飛び去ったのである」
この観音は、宋代に至につれ盛んに信仰され、宋末頃に絹本著色図として描かれた一枚が、わが国の京都大徳寺に伝えられたところから、鎌倉時代にはこの観音の信仰が行われたものと考えられています。
何とも
優しいお顔の観音様ですね…。
そして、
紅葉🍁の季節は終わっているのですが、
四季折々のお庭が楽しめます。
紅葉🍁はすっかり落ちてしまって
いますが…
赤い実をたくさんつけたの万両がきれいでした💕
雨が降った後で
赤い実の下の雫💧が
きれいでした💕
そして、
僧都(そうず)といわれる
いわゆる「鹿おどし」がありました。
この竹が
大きくて…🤣🤣🤣
そのせいか?
音が低い重低音のような感じでした🤣🤣🤣
この僧都は…
鹿🦌や猪🐗が庭園を荒らすのを防ぎ、
閑寂の中に石川丈山もこの音を愛し、老隠の慰めとしていたらしいです。
甲高い音を想像していたから
ちょっと違いましたが、
静かなお庭に響く音は心地よいですね。
ここのお庭が
思ったより広くて…🤣🤣🤣
いろいろ、楽しめましたよ💕
そうして、
この詩仙堂も後にして…
次の目的地の
金福寺に向かいました…。
つづく…。