ある所で、平和を訴える言葉の書かれた幟を持って、田舎の誰もいない道路に向かって平和を訴えるスピーチをしている人たちを見たことがあります。
私は、この人たちは頭がおかしいのではないかと思いましたが、そういうことを口にすると何をされるかわかりませんので黙っていました。
ひょっとすると、その人たちには私には見えない霊か何かが見えていたのかもしれません。
今のところ国内は戦国時代のような状況ではないし、なんかやるせないところはありますが「米国の平和(パックスアメリカーナ)」のテリトリーになることによる「自民党の平和」時代ですので、国内で国内の平和を訴えても無意味なような気もします。
そもそも誰もいないところでスピーチしても無意味だと思うのですが、何か意味があると思っているのでしょうか?
おそらく、年間スケジュールとして決めていることを消化しているだけなのではないかと思いますが、だとすると「年間○○回平和運動をした」という記録を残すことに意味を見出しているのでしょう。
山本七平氏が『一下級将校の見た帝国陸軍』の中で、そういう形式主義の極端化した一種の病気のようなものとして「員数主義」という言葉を書いています。
官僚の社会では現在もそういう形式主義が横行しているみたいで、現実には存在しないはずの無意味なものがたくさんできてしまっています。
結局、高級官僚が「霞が関文学」という純文学を(コンサルに外注して)作成し、官僚のレクチャー頼りの政治家がダーティーな大衆向けの「永田町文芸」(直木賞の対象)にしてだまくらかすというシステムになっているようです。
政治、行政というのはノンフィクションでなければいけないと思うのですが、その実態は、縦割り行政と形式主義その他の融合により、事実、現実とは遊離したダークファンタジーのようなフィクションだらけになってしまっているようです。
結局、実際に意味があるのは利権を握っている一部で、大部分の国民には無意味かマイナスという状況がバブル崩壊以後続いているような気がしますが、現実に意味のあることをしようとするより無意味なことをしている方が楽というのが官僚世界です。
いろいろ勉強したのですが、現在のおかしな状況は「パックスアメリカーナ」に依存せざるを得ない状況が根本にあるような気がしますが、元々日本語自体があいまいで非論理的な言語のように思えますし、日本文化の根源に発するものかもしれません。
ありがとうございます