鳥頭三太郎の生活と意見と愚痴とぼやき及び鳥頭日記

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 私の日々思うことや、見た映画や読んだ本の感想や、ネットで見つけた情報なんかを皆様にお知らせしようと思います。

 1956年の日本とソビエト連邦との国交回復交渉の際に米国のダレス国務長官が日本政府に対して行った政治的脅迫(恫喝)について、Geminiに質問してみました。

 

 

 

 

「1956年の日ソ国交回復交渉において、ダレス米国務長官が重光葵外相にかけた圧力(ダレスの脅迫)の経緯と影響について詳しく解説してください」

 

『1956年(昭和31年)の日ソ国交回復交渉において、アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官が日本の重光葵(しげみつ まもる)外相に対して行った通告は、歴史上で「ダレスの脅迫」(あるいは「ダレスの威嚇・恫喝」)として知られています。

 この出来事は、冷戦下におけるアメリカの対日圧力の実態と、日本の領土問題(北方領土)が解決不能なまま固定化された経緯を象徴する極めて重要な事件です。その詳細な経緯と歴史的影響は以下の通りです。

 

1. 時代の背景:鳩山一郎内閣と「日ソ国交回復」への挑戦

 

 戦後の日本政治において、鳩山一郎首相は「対米自主外交」と「戦後処理の完結」を掲げ、ソビエト連邦との国交回復を目指していました。

  • ソ連の提示条件(2島返還案): モスクワでの事前交渉において、ソ連のフルシチョフ第一書記らは「日ソ平和条約を締結し国交を回復するならば、歯舞群島と色丹島の2島を日本に引き渡す」という提案を行いました。

  • 重光外相の苦渋の決断: 重光外相は当初「国後・択捉を含む4島返還」を主張していましたが、交渉が難航する中で、実利的な対日国交回復と安保理加盟(国連加盟)を優先するため、「2島返還で妥協し、平和条約を締結する」方向へと腹を固めつつありました。

 

2. 「ダレスの脅迫」の経緯(1956年8月19日)

 1956年8月、スエズ運河問題をめぐる国際会議のためにロンドンを訪問していた重光外相は、現地でダレス米国務長官と会談しました。この会談の席上でダレスが行った通告が「ダレスの脅迫」です。

 

サンフランシスコ平和条約第26条の「拡大解釈」

 ダレスは重光に対し、次のような論理を突きつけて強く圧力をかけました。

「もし日本がソ連と妥協し、国後・択捉の領有権を放棄して平和条約を結ぶならば、アメリカはサンフランシスコ平和条約第26条を適用し、沖縄および小笠原諸島をアメリカの領土として永久に保持(占領を継続)することになるだろう。」

※サンフランシスコ平和条約第26条には「日本が他国に対して、この条約で認めたものより大きな権益を与える条約を結んだ場合、アメリカなども同等の権益を請求できる」という規定(最恵国待遇条項のような規定)がありました。

 ダレスはこれを拡大解釈し、「ソ連に千島列島を諦めるという有利な条件を与えるなら、アメリカも沖縄を返すわけにはいかない」と強弁したのです。

 

 

3. なぜアメリカ(ダレス)は交渉を妨害したのか?

 

 アメリカがここまで露骨な介入を行った背景には、冷戦期における強い地政学的思惑がありました。

  1. 日ソ接近と「日米安保体制の動揺」への恐怖: 日本がソ連と平和条約を結び、東側陣営と関係を正常化させることは、アメリカが築こうとしていた「東アジアにおける反共の砦(日米安保体制)」を揺るがす恐れがありました。

  2. 「未解決の傷」として領土問題を残す目的: 日本とソ連の間に「北方四島問題」という決定的な領土対立を残しておけば、日本が永久にソ連(東側)と真の親善関係を結ぶことはできなくなります。つまり、領土問題を「日本を対米従属(西側陣営)に繋ぎ止めるための錨(いかり)」として利用したのです。

 

4. 日本政治への影響と「北方領土問題」の固定化

 ダレスの圧力を受けた重光外相は深く苦悩し、モスクワへの電報で「2島妥協案」の断念を余儀なくされました。この介入は、その後の日本外交と北方領土交渉に極めて決定的な影響を与えました。

① 「4島一括返還論」への方針転換

 アメリカからの圧力と、自民党内のタカ派(岸信介ら)の反発を受けた日本政府は、それまでの柔軟な姿勢を捨て、「国後・択捉・歯舞・色丹の4島が一括して返還されない限り、平和条約は締結しない(4島一括返還論)」という硬化された外交方針へと転換しました。

② 日ソ共同宣言(2島譲渡の棚上げ)への後退

 1956年10月、鳩山首相は自らモスクワに飛び、ソ連との間で「日ソ共同宣言」を調印しました。これにより国交回復と国連加盟は果たされましたが、「平和条約の締結」と「2島の引き渡し」は先送りにされました。

③ 北方領土問題の「永久凍結」

 その後、日本が「4島一括返還」を主張し続け、1960年の日米安保条約改定によって対米従属を強めると、激怒したソ連側は「領土問題は解決済みであり存在しない」と立場を硬化させました。

 結果として、北方領土問題は70年以上が経過した現在に至るまで1島も返還されないまま完全に行き詰まることになりました。

 

 

まとめ

 

 「ダレスの脅迫」は、戦後日本が「対米自主外交」を試みた最初の大きな局面において、アメリカが超大国の力でそれを強硬にねじ伏せた象徴的事件でした。

 日本は短期的には国連加盟という成果を得たものの、「沖縄の返還」という人質を取られたことでソ連との平和条約締結の決定的な機会を失い、北方領土問題が現在に至るまで解決不能な構造に縛り付けられるという甚大な代償を払うことになりました。』

 

 

 

 

 1956年と言えば1945年生まれの人が11歳ですからそんな政治的なことわかるわけないでしょうし、当然その後に生まれた世代はそんなことがあったことも知らないでしょう。

 

 

 

 

 こういうことは学校でちゃんと教えるべきなのでしょうけどなぜか教えないので、一方的にソビエト連邦(現在ロシア)が悪いような印象操作をされると批判的に考える能力が日本人にはありません。

 

 

 

 

 そもそも日本はポツダム宣言を受諾して降伏した段階で領有権を放棄しており、日本側から領有権を主張することはできないはずなのですが・・・。

 

 

 

 

 

               ありがとうございます