CHAPPY©旨すぎる!!

 

当時の灘中特別教室&トイレ増設費。

 

1972年のこと。

1958年の全校舎と教員室が1,100万円だから

14年後なのにちょっと高くないか?

時は大阪万博後の高度成長期。

田中角栄内閣発足。札幌オリンピック。

浅間山荘事件。沖縄返還。日中正常化でパンダ来日。

横井庄一氏グアム島から帰ってまりました!!

そんな頃。

以下トイレ周りまとめてみました。

今もあるはず。

 

 

2009-09-24 13:02の記事++++++++++++++++++++

ひこちゅうのちゅう

あの1階が美術室で2階が吹奏楽部室(昔は音楽室?)の校舎は、
いつ頃建ったものなんでしょうか?>>>

と奥谷N姉さんご質問。ありがとうございます。これはかなりタイムリーなお話なのですね。というのもこの「灘崎中学特別教室(美術室、音楽教室、ついでに生徒便所(扉が観音開き))の起工式が1972年9月21日。落成式が1973年5月1日であること、なので我々第29期組が入学して完成したことになるのです。総工費880万円。この特別室は原前校長の議会嘆願の賜物とされている。以前までの音楽室は1952年当初は音楽室図書室兼用、音楽室にはピアノが無く職員室上にピアノがあったされる。(なださき創立50周年記念誌より)」そういえば完成した特別教室と生徒用便所は、他木造建築旧校舎の中では輝くほどの鉄筋ぶりを見せ、真四角な味のない建物ぶりを披露していました、まったく木造二階建校舎に不釣り合いなのですね。将来その「新しぶり」鉄筋特別室も木造校舎が取り壊され、皮肉にも新しい鉄筋校舎に取り囲まれる運命になるわけですね。学校の校舎というのは30-40年も時がたてば完全に当時の姿はない。ましてや鉄筋タテの真四角な、どこでもあるような校舎ではだれが愛情をもって見守ことができるだろうか?現在も辛うじて当時が残っているのは、この「特別室」と平屋の「技術教室」、そして「裏庭の池(なにを掲げているのかわかない彫刻が池の真ん中に)」となるわけです。0007
 
以下コメント

中学時代、のんさんの一番の思い出の場所なんよ~!吹奏楽部の部室の非常階段はサビサビで北側の鉄窓は重たかったなぁ~[ふらふら]この窓に腰掛けてボーっとしてると、「猫踏んじゃった」の早弾きが聴こえてくる、、、←(おやくそくだ、、、あいつらは一体誰と競争しているのだ?[台風]速く弾く意味なんてねぇだろっ[むかっ(怒り)]
恒例行事のマラソン大会では、このトイレ裏に身を潜め最初のグランド1周をサボり、スタート!体育教官に見付かり大目玉〓
あっ!ここには写ってないけど、裏に有った自転車置場もたいがい古かったよ!あれもイタちゃん時代に出来たの?
by のんさん (2009-09-24 23:00) 

 

<<<体育館から見た絵。著作権はCHAPPY。手前が新築のトイレ。向こうに音楽室と美術室。左が用務員のおばちゃんの家。右が自転車置き場。>>>CHAPPYさんの絵に添えてあったコメント。どうですか。そうそう。窓枠は明るいグリーン。コンクリート製の手洗い場もちゃんと描かれています。二階の側面のあのドアは噂の非常階段でしょうか?そうそう体育館に繋がっているコンクリートの廊下。その屋根は二段階に高さが違っている試行がこらされている。遠くに見える三年生の教室のドア。その棟とグランド側の建物を結ぶ茶色の屋根も見ることができる(ここにもコンクリートの手洗いが見える)。その通路の近代形は岩本ナオ著「町でうわさの天狗の子」第二巻表紙で伺える(ウラとってないけど)。そこには使い放題のウオータークーラー、ペプシの自販機がある。そしてこの「特別教室」とい面の木造用務員だ。私のイメージだが、いままでここは教員の宿直室というイメージがある。全面暗めの板で覆い被した建物、戸のガラスは気の格子ではめ殺し、入り口の戸はガラガラと左でスライド、当然木製。(以下イメージ)・・・・入ると小上がりに6畳ほどの焼けた畳部屋。左の2ケンの寝具の入った押し入れ、当然薄暗く、夜には裸電球のオレンジ色の光に包まれる。・・・・これが私の小説等、頭で想像するときの「宿直室」だ。そしてこの「茶色の用務員室」が基本だ。貴重な一枚ありがとうございました。CHAPPY©(マルシー)※クリックすると大きくなります。0010

 

以下CHAPPYさんのコメント

当時の美術の先生は定金teacher。
黒い四つ切画用紙を渡されて、
「これに風景画をかきなされ」と・・・
白い絵の具をいっぱい使うしかなかった。
で、壁の色と土の色がおんなじ。
どの木も同じ色。山も。
色みが少ないよ。とご指導を受けたのでした。

職員室の横の廊下に長いこと掲示してもらって、うれしかったです。
卒業時に返してもらえなくて、
高二の時、定金アンド川崎先生に会いにというか、
遊びに行って、話をしていて思い出し、
「定金先生、あの絵は?」
と尋ねたら、「そうだった、そうだった。返していなかったわよね」
ということで手元に戻ってきました。

自転車小屋には、柱から柱まで何台っ。
てなことで出席番号で分けられていました。
男子生徒の自転車にはついてた。ついてた。
ウインカーが。
おいらのカバンのカバーも自家製でした。
でも、中間テストとか、期末テストの荷物の少ない日になると
みんな、箱のようなケースに文房具を入れて前のかごに突っ込んで
来ていました。
これが灘崎街流なんだと思いました。
by CHAPPY (2009-09-27 22:21)  

 

もちろんでスターシャもこの灘中。

1,100万円。

今ならちょっとしたリノベーション1部屋の値段だが、

1952年。ほぼ70年前はこの全ての建物を建つことができたのだ。

当時の町の1年間の財政規模は1,500万円。

その規模がわかる。

 

2009-09-18 15:06 の記事++++++++++++++++++++

ひこちゅうのとなり

1970年代はこの木造の校舎・・・・・我らが卒業する2-3年後にプレハブ生活を経て鉄筋校舎に生まれ変わる。この木造新校舎ができたのが1952年7月12日。当時の町の財政規模は1,470万円。この校舎総事業費は1,100万円。昭和25年から3年間とはいえ1年間町予算の8割をこの「灘中新校舎事業」に注ぎ込む。「町と致しましては400万円の借入金をなし、町費及び国庫補助1,000万円の巨額を投じたのでありまして今後とも数年間により、24ヶ月の長きにわたって入金償還を致すわけでありまして・・・」と当時の町長・若林伯之のお話。ようするに「あ〜大変無理したね」と言うこと。そんなこんなで30年弱がんばったこの校舎。左2階建ての一階が一年生。二階が二年生ということになる。三年はこの校舎裏の薄暗い校舎となる。左(白い部分)の学生通用口の床はコンクリート時期で、真冬に地べたに座らせるとかなり染みる冷たさだ。右の白い二階建て建物が職員室、放送室となる。この当時の放送室は手前の一階、給食時間にかけたグランドファンクの「アメリカンバンド」はここから流れた。わけだ。0006
 
以下コメント
あの1階が美術室で2階が吹奏楽部室(昔は音楽室?)の校舎は、いつ頃建ったものなんでしょうか?
私たちが過ごした校舎の中では、きっと1番古い建物でした。
入学当初は確か体育館そばの外トイレも、かなり古い建物だったんですが体育館や柔剣道場と一緒に新しくなった記憶があります。
中学行ってみたいなぁ…きっとまた新たな記憶が甦るでしょうね。
by Nの姉 (2009-09-20 02:36) 
 
あれはたしか昭和53年の冬か54年の前半くらいだったかな?
某少年のたばこが原因とのウワサがありましたけどね。
by さんたにやん (2009-09-24 22:34)  

なぜか葉山に似ている彦崎、

多分海のあった頃の彦崎は葉山御用邸のあたりが彦崎駅。

東の明石山のシルエット。天神社山まで葉山にはある

逗子はちょうど迫川ぐらいか?

江ノ島は常山。遠く富士山は距離は短いけど金光山か。

当時のブログには昔の彦崎に多い名前を記載。

佐野という名前は私には当時見当たらない。

 

2009-09-15 19:31の記事 ++++++++++++++++++++

ひこちゅうのなまえ

なんといっても「若林」。「若松」。わかわかコンビだ。「中嶋」。「藤原」。「片山」。「三上」。そして岡山で全国的に多い「三宅」。これは日本書記でお馴染みの屯倉からですかね、ヤマト政権直轄地経営倉庫・土地関連からきているといわれる古式ゆいしい名前なのだ。前期屯倉は畿内またはその周辺に限られていたらしい。0004のイラストのように、海に囲まれ島の数も現在とは比較にならないほど多い、その時代は朝鮮と朝廷の交流も頻繁でかなりの舟が行き来し、吉備国の児島屯倉は瀬戸内海でもほぼ中央の重要地点、また吉備国は「たたら鉄」の重要産出国でもある・・・・真備市の白猪屯倉。児島湾の高島。屯倉も瀬戸内の数々の島にも出来たのであろう。また、岡山の平喜酒造から「屯倉」という純米大吟醸が発売されている。吉備国=たたら鉄=朝廷=屯倉。そして珍しい名前では「三竿」。「綾野」。「「尾高」。昔からある名前だ。そして肝心の「彦崎」の由来。「彦」は「男らしく、雄々しい、すぐれた意が古来よりある。「﨑」は海辺の岬。まとめると「彦崎」とは景色の美しく優れた岬という。バイ灘崎町史。普通と言えば普通でつまんない名前である。あ〜茂曽路がうらやましい。0005
【イラストは海があったころの児島郡灘崎町彦崎】

 

彦崎の概要は続く。

岡山での彦崎の位置を説明するのは難しい。

県南だけど、海側ではないく。

かといって倉敷市、岡山市、玉野市のちょうどセンターに位置。

現在は平成の統合で岡山市だけど、ではない。

というのも昔は児島という島が中国平野とくっ付いたためか

0004|3238(2024/1218)

 

2009-09-14 19:04 の記事+++++++++++++++++++++++++++

ひこちゅうのなりわい。

彦崎といえば彦崎貝塚。といっても大々的に世間で知られているわけでもなく、よくみかける発掘作業の記憶もない。しかし、この貝塚により彦崎人は縄文時代前期には存在していたであろう事は彦崎人にとって重要だ。旧児島湾に面した下海岸段丘上標高5-6メートルに位置する 。現在の岡山県児島郡灘崎町彦崎字西ノ土井に所属する「彦崎貝塚」。貝塚には胎児3体、若年3体、青年男子5体女子2体、中年男子2体女子3、老年男子2体、計25体の埋葬された人体によりかなりの人数の村があったこと・・・・・イノシシ等の装飾品、貝類、獣類の骨、により瀬戸内の外との交流もあったこと。貝類と地層により、縄文時代初期は干潟、中期は岩礁、後期は干潟と岩礁、そして縄文時代は干潟と変遷していった経緯がわかった。海山の幸にも恵まれたことも付け加えておく。そして最近(2005)に縄文初期である「大量イネのプラントオパール」が発見され、約6500年前に稲が存在と言われている。東アジアにおける稲作は8000年前に始まり、日本への渡来時期は約4000年前と言われる。かなりの記録更新だ、本当だとすると。このプラントオパールの中には小麦、キビ、ヒエ、アフリカ原産のシコクビエ、コウリャンなども少量含まれ、これも共作していたら偉い騒ぎだといわれている。とにかくこの時代は現在のほとんどの人口である岡山市、倉敷市は海の中であり、半端ではない遠浅の海を前にかなりの漁場の濃い地域であったはずではないか。しかし、室町時代後半から始まる児島湾干拓事業によるその漁場を除々に奪われ、湾頭陸岸の干拓成功地から畑地→稲田を営むようになる。一部塩田も営まれていたというが、その事実を証明するものは今はない。長期の干拓事業による町は潤うが彦崎の農業に小作であり、副業で縫製業、毛むしろ業が盛んであったらしい。近年ではその縫製業も影をひそめ、これといった「なりわい」も無く、中途半端なベットタウトとしてその役割を終えようとしている。0004

 

現在移行している記事(3283)は

実在する地域の話のみ限定で20年前から始まりました。

岡山県南区彦崎&植松の今昔話です。

知らない人は全く興味のないものなのだけど、

そこから見える時代の流れを自分自身で記録したいと思いました。

できるだけ1960年後半から1980年の文化も盛り込んだつもりです。

幾度とくる昭和ブームの翻弄されながらこのひこブログも成長しました。

 

そうこうしていた2017年にDeNAベイスターズの佐野恵太が入団、

そう。この彦崎(正確には植松)出身となります。

なので彼もこの後出て来る彦崎小学校→灘崎中学校となるのです。

世帯数も1152世帯の小さな地域。

それも私ごとながら、1980年からの根っからの大洋ファン。

当時は彦崎には私と兄しか居なかっただろう熱烈大洋ファンだったのです。

それが事もあろうに彦崎唯一のプロ野球選手が大洋に、

いやDeNAに入団するなんて!!

長生きはするものです。

2009-09-14 11:34の記事|0003++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「ひこちゅう」のせつめい。 

 
「ひこちゅう」それは灘崎町彦崎中心の略。旧名は岡山県児島郡灘崎町彦崎。例えば東京だと「のぞみ」で3時間30分で岡山着。昔の11番のりば奥、人里離れた3-4両に乗ろう。それが岡山発宇野線。間違っても瀬戸大橋線にのってはいけない。岡山・宇野間を走る単線進行方向左に広がる干拓地を見ながら9駅目の無人駅で下りよう。そこが「彦崎駅」だ。各駅停車で2-30分。東京から約4時間の旅だ。人口は灘崎で15,818人(2004年10月)なので約2000人ぐらいか。因みに彦崎駅乗車1日263人・・・・・地価46,000円。主要道路は岡山県道21号線岡山児島線と同岡山県道22号線倉敷玉野線。バスは下電バスの彦崎跨線橋バス停がある。主要施設は彦崎郵便局、中国銀行彦崎支店、彦崎小学校、彦崎保育園、スーパーマルナカなどがある。グルメ処は川上食堂、そば処「千田」、お食事処「ガーデン菜花」などが有名。彦崎は北に倉敷川に沿い、南に児島山脈を背負った約3km²。二本の谷があり、それに伴う大谷川、庄司場川が倉敷川に合流している。大きな溜め池は馬場池、用木川池、大谷下池があり農業用水として利用される大事な溜め池だ。狐﨑、馬場、土井(駅前?)、磯、札場、奥谷、明石、片屋、中村、大谷、用木、大久保の地区に分かれる。そして各地区に寄り合いの出来る公民館が設置されている。彦崎の名前の由来は雄々しい海辺に岬であるということ、過去に海に面した海岸の岬があったこと、またヒソ(鉄)の出所としての節もあり。0003