道元禅師 正法眼蔵 辨道話(べんどうわ)(1)-3 | たこなぐりの宗教ブログ

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いまおしふる功夫辨道(クフウ ベンドウ)は、証上(ショウジョウ)に万法(マンボウ)をあらしめ、出路(シュツロ)に一如(イチニョ)を行ずるなり。

今ここで教える修行精進は、悟りの法の上に一切の存在を在らしめて、解脱のために一如の自己を行ずることです。

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『法の上に一切の存在を載せる』

道元先生も自分の言葉に酔ったと思われる。

確かにかっこいい表現

 

大乗の船に一切の衆生を載せ、悟りの世界(彼岸)に連れて行くのだ。

一切の衆生を救うのだ。

法華経はそうなのかな。

大乗の船=弥陀の大願船

法然や親鸞の路線

切符は南無阿弥陀仏と唱えること

 

ボロクソに批判していたのかな、それは日蓮か。

救いの宗教より、道元は悟りの宗教を目指した(と思われる)

 

解脱のために一如の自己を行ずることです。

『一如の自己』って、なんだろう?

如実知見=ありのままに見る

からすると、「ありのままの自分」ぐらいの意味?

 

自受用三昧(今の自分と一つになること)

禅は座っている時間だけではない。

過去思考とか、未来思考とかせず、現在ただいまを重視

1日の苦労は1日にて足れり」イエスも言っているけど。

 

複利の視点を持たないと、投資は成功できない。

釈迦やイエスの時代

高利貸しは嫌われた。

カネが増えて喜ぶ=この世的価値観であり、否定されるべし。

すべてをなげうって、我に従いなさい(ついてきて私の所業を見なさい)

それは無理ですよ、イエス様

ラクダと針の穴のたとえ

話がズレてきたのでやめた。

 

その超関脱落(チョウカン ダツラク)のとき、この節目(セツモク)にかかはらむや。

その自他を隔てる関を超えて脱落した時には、今までの教理の細目に頼ることはないのです。

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道元がシナで印可を得た論文

身心脱落(しんじんだつらく)

 

他を隔てる関を超えて脱落

ゾーンの話に戻るが、幽体離脱まで行っているかも。

自分の肉体がプレイしているのを、コート外から見ている状態。

 

宮本武蔵も観(マクロ)の眼と見(ミクロ)の眼を説いている。

佐々木小次郎の動きを観察するミクロの眼だけではなく、

巌流島を上から観るようなマクロの眼を持て。

 

宗教で言えば、自分の悟りを目指すだけではなく、

衆生の苦しみを見て、関心を持て、救いに心を砕け

慈悲の眼

 

釈迦の悟り > 道元の悟り

これは間違いないだろう。

 

自他を隔てる関を超えて脱落した時には、今までの教理の細目に頼ることはないのです。

 

この言葉の意味は考える価値はありそう。

道元の悟りが凝縮されている。