いまおしふる功夫辨道(クフウ ベンドウ)は、証上(ショウジョウ)に万法(マンボウ)をあらしめ、出路(シュツロ)に一如(イチニョ)を行ずるなり。
今ここで教える修行精進は、悟りの法の上に一切の存在を在らしめて、解脱のために一如の自己を行ずることです。
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『法の上に一切の存在を載せる』
道元先生も自分の言葉に酔ったと思われる。
確かにかっこいい表現
大乗の船に一切の衆生を載せ、悟りの世界(彼岸)に連れて行くのだ。
一切の衆生を救うのだ。
法華経はそうなのかな。
大乗の船=弥陀の大願船
法然や親鸞の路線
切符は南無阿弥陀仏と唱えること
ボロクソに批判していたのかな、それは日蓮か。
救いの宗教より、道元は悟りの宗教を目指した(と思われる)。
解脱のために一如の自己を行ずることです。
『一如の自己』って、なんだろう?
如実知見=ありのままに見る
からすると、「ありのままの自分」ぐらいの意味?
自受用三昧(今の自分と一つになること)
禅は座っている時間だけではない。
過去思考とか、未来思考とかせず、現在ただいまを重視
「1日の苦労は1日にて足れり」イエスも言っているけど。
複利の視点を持たないと、投資は成功できない。
釈迦やイエスの時代
高利貸しは嫌われた。
カネが増えて喜ぶ=この世的価値観であり、否定されるべし。
すべてをなげうって、我に従いなさい(ついてきて私の所業を見なさい)
それは無理ですよ、イエス様
ラクダと針の穴のたとえ
話がズレてきたのでやめた。
その超関脱落(チョウカン ダツラク)のとき、この節目(セツモク)にかかはらむや。
その自他を隔てる関を超えて脱落した時には、今までの教理の細目に頼ることはないのです。
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道元がシナで印可を得た論文
身心脱落(しんじんだつらく)
『他を隔てる関を超えて脱落』
ゾーンの話に戻るが、幽体離脱まで行っているかも。
自分の肉体がプレイしているのを、コート外から見ている状態。
宮本武蔵も観(マクロ)の眼と見(ミクロ)の眼を説いている。
佐々木小次郎の動きを観察するミクロの眼だけではなく、
巌流島を上から観るようなマクロの眼を持て。
宗教で言えば、自分の悟りを目指すだけではなく、
衆生の苦しみを見て、関心を持て、救いに心を砕け
慈悲の眼
釈迦の悟り > 道元の悟り
これは間違いないだろう。
自他を隔てる関を超えて脱落した時には、今までの教理の細目に頼ることはないのです。
この言葉の意味は考える価値はありそう。
道元の悟りが凝縮されている。