コーランでは死後の裁きが書かれている。
記録の天使がアッラーに記録簿を提出する。
照魔の鏡と閻魔大王みたい。
本当の臨終はそんな軽い感じでいきません。いくら戯作者が臨終を冷やかして書いても、死というものは重いものです。結論を先に言うと、「臨終の時に何を思うのか?」ということが、臨終正念(りんじゅうしょうねん)です。
命が終わる時、最期の一点で人生が止まる時が来るのです。命は動いているから、十界をクルックルと回ります。それが「何処で止まるのか?」ということです。ガラガラガラとおみくじを回して、「何処で止まるのか?」と、ピタリと止まったところが臨終です。
ピタリと地獄で止まってしまうと大変です。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏界」と円に書いてあるのです。それをガラガラと回すと「地獄はすぎたな。あ~あ、畜生で止まってしまったな!」と言うのです。そのような感じです。
「最期に人間は何を思うのか?」ということによって、来世が決まってくるのです。もっと厳密に言えば、散々悪いことをやってきたヤクザで、やりたい放題のことをやってきて、地獄で止まりそうで最期でクルッと回って、仏界で止まってしまう奴がいるかもしれません。それで生まれてしまうのです。
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釈迦仏教の根本は、反省、反省、また反省
隆法本のおかげで、釈迦教団の実際が感じられる気がする。
働かんと反省(八正道や六波羅蜜)ばかりやっている。
仏道修行のため
とにかく念仏を唱える、念仏を唱えると兼好法師も書いている。
観想念仏(貴族や特権階級)から口唱念仏(庶民)への流れ
当時の新興宗教にはまっていたんでしょう。
管理人も新興宗教、幸福の科学にはまった。
臨終の時に正しく一念心を持てるようにしていくということが、信心修行です。なかなかそうは思いません。人間には欲があります。「自分の貯めたお金が心配だ」と思うと、来世は大蛇に生まれるのです。何故かというと、昔は壺に金貨を入れて隠したのです。
天井に置いたり、地面に埋めたりしたのです。その金貨の周りには必ずヘビが守っているのです。暗い所、湿った所に金貨は隠してあるのです。死んだ時に「俺の金が心配だ」という一念心が残ると来世はヘビに生まれてしまうのです。本当です。そうならないように修行していかなければいけません。
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この世と肉体への執着
あの世の存在を教えられなければ、この世以外に世界を知らない。
生前の思いと行いによってあの世の存在(形態、住む所)が決まる。
釈迦の説いたダルマ論
2600年経っても古くならない。
この教説、わからん人はわからんし。
生き方(正命)がだらしない管理人
果たしてどこまでわかっていると言えるのか。反省。