人間の探究 772-2 正理会と宗教   正理  祈り | たこなぐりの宗教ブログ

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宗教の古典の紹介
この世での生活状況

正しい理とは国家にもあり、キリスト教にもあり、仏教にもあります。それぞれの正理を見つめて、明らかにすればよいのです。
まず、我々は日本人であるから「日本人の正理とは何か?」と考えていけばよいのです。それは歴史から物を考えないと出てきません。「日本人とは何ですか?」と聞かれても普通の人は答えられません。「日本の歴史はこうであった」「これが日本人の正しいものの考え方だ」「これが日本人と他の民族の違う点である」ということを明らかにしていくことが正理活動です。これは社会に向けた正しい日本の正理活動です。
あるいは、日本に入った仏教はどのようなものでしょうか? それを考えた上で「仏教とはこのようなものだ。このようにしていくことが正しい」ということを言っているのです。そのような幅の広さをもっているのです。

 

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歴史教育

頭と尻尾、神話と現代史がすっぽり抜けている。

文部省って、なんのためにあるんだろう。

法務省も最高裁も、占領基本法(憲法)で動いているし。

 

民族地政学

聖書や古典を使ったら、おもしろいものになる。          

 

 

[中略]

 

本来、宗教は祈りによるところが多いのです。唯物論者は宗教を馬鹿にします。「祈って何かが変わるのか? あの山を動かしてみろ!」とマホメットは言われたのです。「よし、俺が祈ってやる」と、マホメットが祈ると山は少しも動かなかったのです。「山が動かないならばこちらから歩いていくのだ」とマホメットは言ったのです。これが正解です。

 

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ブチ切れて棄教した信者は多そう。

ふざけやがって。こんな教祖のために命をかけられるか。

バカバカしい。

 


祈って物を動かそうとすることはおかしいのです。ハンマーでいろんな物を造ることが正しいのです。物を造らないで祈りをかけて、家などができるわけがありません。ご飯でもそうです。スイッチを入れなければご飯は炊けません。ご飯と水を置いて祈るのでしょうか? そのようなことはおかしいのです。すべて準備した奥のところでは祈りが効いてくるのです。スイッチを入れないで「ご飯が炊ける!」と祈ったらそれは間違った考え方です。
これとは反対に頭で考え抜いてやっても、その先はわかりません。答えが出る場合もあれば答えが出ない場合もあります。そのような場合は祈るのです。それまでも否定する必要はありません。
祈ると確かに効果はあります。病気の人は治りたいのです。病気の人に「国家のことを考えろ」と言ってもそれは無理です。病気の人はまず自分の体を治したいから祈りたいのです。「神様お願いします!」と祈ることは、よいのです。
それも結論的に言えばDay by day, in every way, I 'm getting better and better.という祈りです。そのような意味において祈りというものは効果がありますが、それに頼って何でも祈っていくということは間違っています。よい会社に入りたいなどと祈ってもよい会社には入れません。

 

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「地球は行動の星なんだよ」

「自分のやることをやらないで、お願いしますって」

斎藤一人語録

 

寝転がって祈るのがラクチン

ロクな結果にならない。