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🍀前話🍀

🍀「闘病記つむつむ第2章第3話」🍀https://ameblo.jp/5717-8507/entry-12858747464.html

🍀「新中学校設立で運命変わる。〜いじめ・不登校・シンナー・自殺未遂〜」🍀

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🍀闘病記つむつむ 第2章第4話🍀

🍀「自慢出来る子」と

                    「苦労を表現出来る子」🍀

          〜虐待・差別・心の病 〜


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元々 父と折り合いの悪かった弟は、小学4年生の頃から母に


「あんな男とまだ一緒にいるの?別れたら良いのに」

と言っていたと、母から聞いた。



私はその時、小学6年生。

「夫婦仲」とかは、全く考えてもいなかった。

ので弟はかなり大人の様な考え方をしてたのだと思う。


もしかして、こう言う所まで気がつくのが、IQの高い子の特性なのかもしれない。

けど母は、単純に嬉しそうだった。
そして私に
「○ちゃんはお母ちゃんの事分かってくれてる。お父さんの事嫌いやって事も。あんたと大違いやな」
と言うのであった。
私は返す言葉もなく聞いていた。

すると、元から返事なんか求めてない母の マシンガントークが炸裂する。



「○ちゃんはな、まだ小学生3年生やのに、お父さんが浮気してんでって、お母ちゃんに教えてくれたんやで。


お母ちゃんが、苦しんでるの分かってくれてたわ。
あんたは漫画ばっかり読んで、お母ちゃんの気持ちなんて考えてくれた事なんてないやん!
○ちゃんはお母ちゃんを守ろうとしてくれれててんで。
あんた なんも感じへんの!」
確かそういう事を、繰り返しザクザク言われたと思う。

私だってお母ちゃんの事、考えてるよ。
だからお母ちゃんが望む通り あほになってるやん!
ピエロになってるやん!
と私は心の中で思っていた。

物事付いた頃から母や

親戚に近い関係のお寺の人から


「あんたはわがままや!それに比べて○ちゃんはいい子や」

と言われ続けて来た私。

本当はすごく嫌だった。


わがままって?

好きな事と、嫌いな事を素直に言うのがわがまなの?


てか例えば

「これ買って!欲しいねん!買って!買って!買ってぇ!うわーん!」

と駄々をこね、通路に大の字で寝て手足をばたつかせるのは、わがままと違うのか?


それをするのはいつも弟だった。

私はやった事がない。


それでもみんなが

「あんたはわがままや」

と言う。


小学生4年くらいになると私は、母にそう言われると、変な風に聞こえる様になっていた。


『あんたはな、あほでいいねん。その方がお母ちゃんのしんどいのんが、みんなに分かってもらえるやろ』


『わがままでええねん。そしたら○ちゃんとより比べられるやろ。○ちゃんの凄さを分かってもらいやすいやろ』


と言われてるような気がするのだった。


私の思い違いかもしれないが。

その第2の意味で聞こえる言葉と。

私がやる気を出した時の母の態度がそろうと、やる気スイッチは簡単にOFFになった。



例えば。

私がテストを頑張り80点くらいとり、母に見せると

「⋯こんなんな、誰でもできるやろ」

と言って去る。
何も言われず一瞥だけされる時もあった。

なんでなん?と最初は思っていた。
けど、そのうち
『私の役割りと違う事してるんかな?私はあほでわがままじゃないとあかんのかな?』
と。

ここまではっきり思った訳では無いが、朧気に、賢いのは弟の役目。私はピエロでええんや⋯と、私は成長とともに、思う様になってきた。



私の育った家では
父は悪役で稼ぎの悪い調理師
母は苦労人で絶対君主で可哀想な人
弟は天才で可愛い
私はあほでぶさいくで金食い虫(病院によく行くから)

と言うふうに配役されてるように感じた。



母に、そう口に出して言われたことは無い。
けどこの役割から外れた事をしたら、怒られたり無視された。

特に父と私がターゲットになってたと思う。

ちなみにこれを決めたのは、絶対君主の母だった。

なのに弟が小学生4年頃少しほころびだした。


弟がいじめで、不登校をしたからだ。

けどその時は、弟はまだ おとしくしてたので、母にそれほどショックを与えなかった?


いや、その時も担任の先生に電話したり、お寺さんに電話したり、大騒ぎだったか。


私の時は全く騒がなかったのに。

母の心の中の私と弟の立ち位置の違いを、まざまざと見せつけられたのを覚えている。



それが今、中学に入ってからの弟の変わりようは、予想を超えていた。


弟が、問題行動(髪染め、タバコ、刃物を持ち歩く、自殺未遂、本格的な不登校、シンナーを吸う等)を起こすようになったからだ。

弟はカウンセリングの先生に
「もう勉強するのん疲れた。勉強しなお母ちゃんに振り向いてもらえない。だから頑張ってきたけど、もうしんどい」
と言った様で、母は先生から聞かされて泣いたそうだ。

母はその頃よく
「お母ちゃんが ちゃんと○ちゃんの事見てなかったから、こうなった。
けどお母ちゃんも必死やってん。
薔ちゃんはすぐ病気するし。
病院遠いから1人で行かせるわけにいかへんし。

それにお母ちゃんは自転車にも車にも乗られへんしな。
タクシーは高くて使われへんし。
だから病院行くだけでも、大変やってん。

薔ちゃんが点滴とかされたら 益々帰りが遅なるし。
けどな、お母ちゃんは頑張っとってん。

お父さんはなんもしてくれへんし。

そんな時○ちゃんと話すと、心が明るくなってん。


あの子が満点のテスト持ってきたりしたら、ものすごく嬉しかってん。


あんなに勉強してる子やったのに。

無理してたなんて⋯。



お母ちゃんが悪いって言われるけど、お母ちゃん一生懸命やっとってんやん。

だいたいあんたが病気ばっかりすんのがあかんねや!!
そやけど今の○ちゃんは普通じゃない!
目付きとか違う!
お母ちゃんにはわかる。
あの子に悪霊が付いてる。
何とか救ってみせる!
霊が悪い!!
あんたも悪い!
お父さんも悪い!!
学校も悪い!!
私の○ちゃん返してぇ(泣)」
と涙ぐみながら、ぐるぐる同じ事を、何回も私に話した。


何度もこのマシンガントークを聞いてると、私はある事に気が付いた。

母の話し方と

母の希望する事が、何となく透けて見えた。


あってるかどうかは分からない。けど私にはそう感じた。

まず母の話し方のパターンに気がついた。


母はまず「自分の自慢出来る子」の話をする。

そして次に

「自分が苦労してきた事をわかってもらいやすい事柄=苦労を表現出来る子」の話しをする。


最後に2つを比べる。

話す順番が逆の時もあるが、基本「比べる」様に話す。



今振り返ると、母は「承認欲求」の強い人だったと思う。



それは母自身、幼い頃から実母(私から見たらおばあちゃん)に認めてもらってなかったからだ。
認められるどころか、火橋で叩かれたり、暴言を叩きつけられたり、ご飯を抜かれたりしてたそうだ。

母も私と同じで、心の中心に暖かい太陽の無い人だったのだ。

ので、常に誰かに
「凄いですね。偉かったですね。頑張りましたね」と言われてないと、自分を保てない人だったのだ。

中学の頃の私は、そこまで深く考えてなかったが

「自慢出来る子と苦労を表現出来る子」の2つを、母は必要としてるんだ。

とは、うっすら感じていた。


そんな事に従わなくても良いやんと、今なら思う。


けど、子供の頃は。

私は母に嫌われてても、母が好きだった。


それに、認めたくなかったけど、弟がこうなった原因が、姉の自分が 入退院繰り返したからだ⋯と言う負い目もあった。
弟を休ませなあかん⋯とも思った。


ので私は決意した。
「自慢出来る子」の弟がダウンした今
私がそれにならなあかんと。

そう思ったのが確か夏休み最後の日だった。
翌日の中学3年2学期から私は、中学1年の教科書を開き、独学で勉強をやりなおし始めた。

まるで、小学1年の時、担任の先生に押してもらった「やる気スイッチ」が押された時と同様、突然勉強への意欲が燃え上がった。

今回は、母の為に、自慢出来る子になろうと決意した事で「やる気スイッチ」がONになった。

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「やる気を出させるスイッチ」と「やる気スイッチを削ぐ」→闘病記つむつむ第1章よりhttps://ameblo.jp/5717-8507/entry-12714748347.html


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その炎は、母が弟の持ち物を見ながら泣いてる姿で、なお高まった。


ちなみに、弟の部屋から出てきたのは

お酒

シンナー

煙草

睡眠薬

カッター(ナイフ)

シートの鎮静剤

などであった。




私は毎日学校が終わって銭湯に行ったあとから、ご飯までと。
ご飯が終わった時間から、真夜中までと。
早朝から登校までの間、ずっと勉強することにした。
最高12時間、自宅で勉強した事もあった。

先生はいない。教科書だけ。まさに独学だ。

1教科を40分位続け、10分休み、また違う教科の教科書を引っ張り出した。
その流れで5教科を毎日 復習した。

途中眠気が来た時は、10分だけ机に突っぶして寝た。
目覚まし時計を何度もセットし直した。

その中で苦手な教科が出てきた。英語と数学だった。
分からなくなると、分かるところまで戻って、もう一度教科書と向き合った。

そう言えば参考書とかは使わなかった。
買ったらお金かかるし。見ても分からないと思っていた。
ので、繰り返し繰り返し、同じ教科書を読み返していた。

また過去の勉強だけすれば良い⋯と言えない時期もあった。中間と期末テストの時だ。

中間と期末テストの為、過去1年〜2年の教科振り返りと、中3(当時の学年)の勉強を、同時に進行して学ぶ様になった。

けど当時はビデオがなかったので、見たいアニメがある時は、しっかり見てから勉強を始めた。

その頃、下校する時に 私の幼なじみと偶然会い、一緒に帰る事が何回かあった。

私が中1の時、コーラス部の助っ人にならへん?と声をかけてくれた子だ。

彼女は小学校も一緒だった。

幼なじみと言って良かった。すごくクールで賢くて、勉強の好きな子だった。小学生の時か、中1の時、勉強せずにたらたらしてる私に、掛け値なしで「そんなんやったらあかんよ」と言ってくれた子だった。

彼女は「勉強って楽しいやん!新しい事知るのってワクワクするやん。なんでしないの?」と言ってた。
当時の私には、耳の痛い意見だった。
『塩の友達やな』
と思っていた。
「塩」はからいけど、生きてく上で必要な物でもある。
それ以降、彼女を「塩の言葉」をもらう機会は何回が訪れる事になる。
我流で勉強してる時
「勉強って楽しいやん」
と言った彼女の言葉を思いだし、私は「ほんまやな」と思うようになっていた。

彼女は漫画も好きだった。家も近かったので、お互いの漫画を貸合いっこした。
けど勉強は一緒にした記憶が無い。

彼女のレベルが高かったからだと思う。
その証拠に彼女は校区で1番賢い公立の高校に行った。
すごいなぁと思った。


中学3年の二学期 最初の中間テストは、今までの低空飛行から少し上がった。

私の、かわり様に 母は驚いていたと思う。
てか何か言われた記憶は無かった。
でも、母は見てたのかな?

二学期後半に、いきなり母が
「知り合いの人が家庭教師してる。英語と数学を頼んだから、その人の家に週2回通い」
と言いだした。
何故かお隣の家の同級生も一緒に通う事になった。

二学期に行われた第2回進路相談では、担任の先生が
「一気に成績上がりましたね」
と驚いていた。
当然「中学出たら働いたらええ」は見送られた。
だが、弟と違って少し勉強したからと言って、良い学校に行けるレベルまでには届かなかった。
担任の先生は
「公立は無理ですね。私立専願でないと苦しい」
とハッキリ言った。

私もそらそうやなと思った。
せっかく勉強しても、貧乏な家やから、高校は無理やな⋯と私はあっさり諦めかけた。

と、母が
「専願なら高校行けますか?」
と担任の先生に聞いた。

『へ?』
私は聞き間違いかなと思った?

母の問いに
「はい、私立専願なら行けると思います。ギリギリですが」
と担任の先生は答えていた。

私は自分の進路だけど、元々働くんやなぁと思ってたので、どんな学校があるか知らなかった。

ので呆然と話しがかたまるのを聞いていた。


私はどうやら私学の女子校を受験する事に決まった様だった。

どこでもいい。受かるなら。
正直そう思っていた。

その日、担任の先生からもらった高校のパンフレットを見て
『私、ほんまに高校行くんや⋯』
と信じられない気持ちでいた。

お母ちゃん、お金どするんやろ?
うち貧乏やのに。

とも思った。進路相談の後も、お金の話しは出なかった。
ので心配した。

「もう少し早く勉強してたらねー」と言ってた担任の先生の言葉が心にしみた。

ほんまやと、自分でも思った。

その時
「○○さんはやったら出来る子やねんで」
と言う声が、頭の中で響いた。
小学校1年の担任の先生の声だとすぐ分かった。

『うん、頑張ろう!今が勉強すべき時なんやから!とにかく受からな始まらへん』
私は呟いて、自分の勉強机の椅子に座り、中2の数学の教科書を引っ張り出した。

だんだん寒くなる時期だった。

続)