第4話https://ameblo.jp/5717-8507/entry-12711120819.html 


心身弱いとねぇつむつむhttps://ameblo.jp/5717-8507/entry-12666116592.html 



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(第5話)
〜やる気を出すスイッチと、やる気を削ぐスイッチ〜

小学1年の一学期末、プールに入ったのが切っ掛けか、風邪をひき。
それから胃腸風邪を経て虫垂炎になった私は、救急手術を受けました。
数日入院し、自宅療養をして、登校しましたが、確か2、3日で夏休みに突入したと思います。

久しぶりに登校し、自分の席に座っていると
誰かが私の背中を叩きました。
振り返ると、クラスメイトの女子が立っていました。
長期間休んだ時や、病欠した時あるあるですが。


席替えで席が変わってるんですよね。

しかも誰も教えてくれないから、分からないんです😢

背中を叩いてきた女子は
「そこ!私の席やで!座らんといて!」
ときつい口調で言いました。

私は慌てて立ち上がり
「え?ごめんなさい!」
と言ってその場から離れました。

最初は どうしていいのかわからず、教室のすみで震えつつ、立ってましたけど。

クラスの雰囲気に慣れてきたら、私は先生の机に席順が貼られているのを思い出し、それを見て席に着きました。

んで、授業を受けたのですけど。

ちんぷんかんぷんでした(ⅹ_ⅹ)

一学期末には、私は既に立派な落ちこぼれでした。

しかし救いだった事があります。

それは、私が本来なら3年生にならないと通えない学童保育に、小学1年から通っていた事です。

もっとも私自身は、学童保育が嫌で、嬉しいとは思っていませんでしたけど。

1年生から特例で通わせてもらってる事や。
男子ばかりの中で、1人だけの女子参加だった事とか。
私の人見知りと、すぐ泣くと言う事などが、他の学童保育に通っている生徒達のいじりたい欲求に引っかかったのかもしれません。

高学年はさすがに何もしなかったですけど。

3、4年生は、物珍しいからか、よくからかってきたのです。
私からしたら、いじめ以外の何者でもなかったですけど。

学童保育は始まりは、5時間目〜6時間目終了時からでした。
それから各親が迎えに来てくれるまでの時間、2人の男の先生が、勉強や遊びなどみてくれていました。

学童に着いたら、手洗いうがいをして、おやつの時間になります。

けど、私は動きがとろかったせいで、3年生のいじめっ子に、よくおやつを横取りされていました。

おやつ取られても、しくしく泣くしか出来なかった私。

そんな時は、その3年生の実の兄で、同じく学童に通っていた 6年生が
「おい!弱い子や女の子をいじめんな!何やってんや〇□!」
と怒鳴り、私の傍から小3のいじめっ子を引き離してくれました。
そして
「薔舞香ちゃん、ごめんね。これ僕のやけど良かったら食べてね」
と優しくお菓子を譲ってくれるのでした。

私は『お兄ちゃんって良いなぁ。優しい。うちも弟やのうて、お兄ちゃんなら良かったのに』と思いました。

翌年そのお兄ちゃんが卒業される時は、悲しくて大泣きしました。



学童では、おやつの後は宿題と復習をする子と、遊びまくる子に分かれました。

私は本当なら遊びたかったですけど、なんと言っても落こなぼれですから。

それに
「女やから中学出たら奉公したらいいわ」と言ってた母も、1年生の担任の先生から連絡を受けたせいか
「遊んでええで」
とは言わなくなったのでした。

代わりに
「(学童の)先生、お願いします。勉強させて下さい」
と言ったようでした。

ので、私は有無を言わさず勉強組に引っ張って行かれました。


私は宿題と、もう1つ別に、担任の先生が手作りして下さったドリルを、毎日するようになりました。


もちろん、学童の先生も教えてくれました。
毎日、宿題と特別ドリルをする事が、私の日課になりました。

担任の先生は
「このドリル使ってね。みんなには内緒ね。分かるところから解いてみてね。出来たら職員室に来てね。待ってるから」
と言われました。

私は先生の言葉をきいて、内心『めんどくさい』とか思いながら、毎日ドリルを使ってました。
そして4時前に、職員室に行きました。

そこで担任の先生が、目の前で採点してくれました。
また、分からなかった所や、間違えた所は、優しく教えてくれました。

先生は
「多田さんは丁寧に字を書くのね。いいね」
とか
「多田さんは、分からなくても、すぐ飛ばしていかずに、ちゃんと取り組んでて偉いね」
「多田さんは、覚えたら忘れないのね。偉いわ」
ととにかく褒めてくれました。

褒められた事のなかった私は、最初『え?お世辞?』っと、小学1年とは思えないひねた感じ方をしてました。

だけど毎日褒められている内に、なんだか心があたたかくなってきて。
素直に嬉しいと思えるようになって来ました。

担任の先生は、とても優しく綺麗な先生で、先生の事がすごく好きになっていきました。

職員室通いは夏休みになっても続きました。

ちょうどいい事に、学童保育も 夏休みとか関係なく、開いていていました。

夏休みの学童保育は、朝9時〜9時30分から、各親が迎えに来てくれる夕方までの間、毎日開校されていました。

夏休みは、学童に居る時間も長いので、夏休み用のスケジュールが作られていました。

朝行ったら、夏休みの宿題と自習をし、お昼には持ってきたお弁当やパンを食べました。
それから1時〜3時までお昼寝の時間がありました。

私はこの時間が1番嫌いでした。

眠くないんです。
遊びたいんです。
しかも扇風機しかないから暑いんです。
中々寝つけません。

だけど寝てないのが学童の先生にバレると
「あ、薔舞香ちゃん寝てない。罰として5分お昼寝終わる時間をのばすでぇ〜」
とか
「〇〇君と△君寝てない!これで3度目の注意や!罰として全員お昼寝時間10分追加やな!」
と言われるんです。

5分って長いんですよね。
ましてや他の子の為に10分のびるなんて、最悪やぁ😱と思っていました。

眠れなくてゴロゴロ向きを変えてたり、小声で話したりしてたら、その時も5分とかペナルティが付きました。

『永遠に終わらないお昼寝?』
と思ったものです。


けど3時に
「はたっ」
と起こされた時は、熟睡していて、もう少し寝てたいと思っていました。

やはり子供だから、お昼寝は必要だったのでしょう。

3時すぎたら起きて、おやつの時間です。

おやつは、大抵学童の先生が買ってきてくれました。

今でもあるのか分かりませんが、3色の色分けした四角いアイスや、丸いビニールに入っていて中身を吸って食べるミルク味のアイスなどをみんなで食べました。

悪ガキが
「俺、3色アイスの真ん中から食べれんねんでぇー!すごいやろ!」
と息巻いて、食べ方をみんなに見せ、見事に失敗して、両端のアイスを落としたり。

凝りもせず私のおやつを横取りしようとして、兄の6年生に怒られたり、先生に注意されたりしてましたしてました。

おやつが終わったら私は、特別ドリルを持って、職員室に通いました。

そして4時30分頃から、運動場で遊びました。
ブランコに乗ったり。
飼育されてる鶏達を見に行ったり。
学童保育の建物(プレハブ)の横にある「築山」で1人で遊んでました。

たまに学童の他の子達と、ごっこ遊びもしました。その頃は外では大人しかった私は、お姫様役をさせてもらいました。

なんと言っても女子1人ですから(笑)

そして5時ぐらいから、みんなのお母さんが迎えにやって来られました。

来た子から帰れるんです。

私は大抵1番最後までいました。

母は2駅向こうのパンの会社で働いていましたが、電車には乗らず歩いて通っていました。

「駅遠いねん」
が理由でした。

確かに。
電車に乗ると2駅だから5分程で最寄り駅に帰れます。
けど、母の勤め先の会社から、駅へは徒歩 約30分かかり。

私達の最寄り駅から自宅までは徒歩で 約10数分。
小学校までは、徒歩で40分かかりました。

また会社の最寄り駅は、各停しか止まらず、電車の待ち時間は、平均して約10分かかるそうでした。

つまり電車乗る時間は短いけど、駅に行くのに時間が1時間弱かかるんです。

母が自転車に乗れたら、会社から学童まで30分の距離でした。

が、母は自転車に乗れなかったので、その道を歩いて来るのでした。
時間にして45分ぐらいだったと思います。

なるべく早く学童に着くには、歩きが1番と母は結論づけたようでした。

よく私に
「あんたを迎えに行くのに、お母ちゃんは走早歩きで行ってるねんで!〇ちゃんだけ保育園に迎えに行くんなら 30分で行けるのに。小学校遠いねん。疲れてるのに、毎日迎えに行くんやで。感謝しいや!」
と言ってました。そして···

「お母ちゃんは足が早いから、あんたをあんまり待たせてへんやろ?5時に仕事終わって、着替えて、早足で行くからな。信号に引っかかれへんかったら5時45分には着いてるやろ?そやのに、学童の△先生は『遅くに迎えにきやがって!もっと早く来い!』って冷たい目で見るんや。あんたが学童にいるからお母ちゃんは嫌な目に会うんや。あんたが悪いんやで。ほんまにあんたは、手間かかるなぁ」
といつも通り愚痴を言って、結局私が悪いと責める母でした。

私は気持ちがペタ〜ンと凹むのを感じていました。

本当なら、その日勉強で担任の先生に褒められた事とか話したかった私ですが。

母に責められると、担任の先生に褒めてもらえた嬉しい気持ちが、霧散するんです。

代わりに『迷惑かけてごめんなさい』という気持ちと、心の重さを感じるようになってました。

母が愚痴ってる時は、口答えすると長くなるから、私は黙って聞いているか。

「そやねん。私があかんねん。こんな時魔法の箒があったら、お母ちゃんを乗せて、バビューンってすぐ家に連れてくのになぁ。私魔法の勉強するわ」と少しふざけて話しをそらしました。
すると母は
「あんたはあほか」
と母が笑うのです。
そうするとしめたもんです。

私は道化役を演じて見せました。
「私が杖を振ると、自動運転車だって出せるしぃ♪ドラ〇もんみたいに、空飛ぶ道具も出せるねん♪楽でええやろ♪」
とふざけるふりをすると、母は

「ほんまにあほやな(笑)出来たらええけどなぁ」
と笑って、お小言が止まる時がありました。

最も、母が心底疲れてる時は
「何言うてんねん!漫画と違うで!そんなんやから勉強出来へんねんやん!あんたはほんまにあほやな!〇ちゃんの爪の垢でも飲んどき!ほら行くで!〇ちゃん迎えに行かなあかんねんやから!急いでや!」
とバッサリ切られます。

私は切られるのが痛いから、常に母の顔色を見て話す癖が、年々強くなって来ました。

いつしか
母が今望んでる私の姿はこれかな?とか推測して、演技をするようになりました。

例えば母がイラついてる時。
言葉でごまかせるレベル出ない時は、あえて怒られるような表情をしました。
母はそれを見ると
「あんたさ、お母ちゃんに悪いなぁとか、ごめんなさいとか思ってへんやろ?なんなんやその目ぇは!この出来損ないが!」
と怒るんです。

けど1度怒鳴ると、母は少し落ち着くのか、私への攻撃が弱まるんです。
「もぅ···そんなん言うててもしゃーないとか。はよ〇ちゃん迎えに行こ。行くで!はよ歩き!」
と興味の対象が私から外れるんです。

傷はつくのですが、自分からけしかけた方が、まだ攻撃を受ける準備が出来てるので、心の痛みはましでした。

逆に珍しく母の機嫌が良くて、気を抜いて話してると、突然怒り出す時。これは困りました。
「お母ちゃん、こんなに頑張ってるのに!あんたは何もわかってない!ほんまに嫌な子やわ!産むんじゃなかった!〇ちゃんだけで良かったわ。あんたは なんで生きてんの?」
とか言われるので、心が冷たくなりました。

心が裂けそうになるので、そんな時、私は慌てて道化師役を演じました。

そうすると
「あんたに言うても伝わらへんなぁ。あほやなぁ。〇ちゃんとこ行こ。〇ちゃん待ってるから。急ぐで」
と母の攻撃が少しマシになる時もありました。
もちろん逆効果の時も多くありました。そんな時はボロくそに言葉で切られました。

その当時は、母の機嫌を良くして、少しでも好きになって欲しくて、道化師を演じていました。
しかし、今思うと、私が道化師···ピエロを演じてたのは、対母専用の作戦···私なりの生存戦略だったなぁと思います。

そして今なら
「これは毒親?」
と思いますが、当時は
「どの家も同じ様に、お母ちゃんの様子を見て話す事とか変えてるんや」
と思っていました。

虐待の怖いところですよね。

他の家庭と比べる事なんて、小学校1年には出来ないから、今自分がいてる所や、両親のあり方は絶対正しいと思ってるんですよね。

なので、表面は明るく振舞って。
時にはピエロになって、周りを笑わせて。
「あほな子や」
と言われて。
それに全然気にしてない風を装ってました。

けど内面は、冷たくて痛くて、苦しくて、悲しかったです。
それでも母を信じたいから、母が自分を悪く言うのは、自分が悪いからと思っていました。
そう、「私が悪い。お母ちゃんに償わなあかん」と言う、いつもの思考回路に、気持ちが自然と流れて行くんです。

それがきつくなってきたら、慌てて漫画とか本を手にしました。


現実逃避でした。
漫画の世界は、私を攻撃して来ませんでした。夢中になって何回も読み返しました。

そんなこんなの夏休みが終わった頃。
二学期最初のテストがありました。

私は夏休み中、学童と担任の先生に勉強を見てもらってたので、少しマシになるかなと思ってテストを受けました。

すると問題が分かるんです。
私はびっくりしました。

出来損ないの私やのに、問題の解き方が分かる♪
答え出せる♪
テストの空欄を、かなり埋める事が出来ました。

しばらくして、テストが返って来ました。


算数80点
国語80点

我が目を疑いました。

嘘、いつも5点とかやったのに。
こんな点数見たことない。

私はすごく驚きました。
そして担任の先生が
「多田さん、頑張りましたね。多田さんは頑張り屋さんやからできたんですよ。偉かったね」
と笑顔で褒めてくれたんです。

頑張り屋さんと言われたことは、それが初めてでした。

いつもは
わがままで怠け者
あほであかんやつ
と言われていたので心底驚きました。

心が膨らんで、あたたかい気持ちになり
「私もできるんや」
と少し誇らしく思えました。

その日は、学童の時間がいつもより長く感じました。

早く母にテストを見せたかったのです。

褒めてもらえるかもしれない···。

そう思っていました。

夕暮れになり、母が迎えに来てくれて、家に帰りました。

すぐ話したかったけど、母は〇ちゃんのお迎えの事を考えてるようだったので、家に着いてから言いました。

母はしばらく黙ってテストを見てました。

そしてため息をつくと、凄くめんどくさそうに
「ふーん。あんたでもやったら出来るんやなぁ」
と小さな声で言うと、テストを床に落としました。

そして何も言わずに、〇ちゃん(弟)の方に行ってしまいました。

私は
あまり喜んでくれない母を見て
『褒めてくれへんかった。頑張ったのに···。やっぱり〇ちゃんの方が好きなんかな』
と凹みました。

そして「···やったらできるんやったら。勉強やらなあかん時にだけ勉強やったらええやん。その時までせんでええやん」
と思ってしまいました。

担任の先生と学童の先生に教えてもらい、毎日努力してた夏休み。
褒められて嬉しくて、頑張ったけど。

母はなんか頑張る私が嫌いみたい。
褒めてくれへんかった。

今なら「勉強は褒めてもらうためにするのと違う。自分の為にするんや」と分かります。

けど。生まれて初めて取った高得点のテスト。
本当に手放しで褒めて欲しかったです。
そう、床に落とさず。

色んな先生がやる気のスイッチを、繰り返し押してくれてたから取れた点数でしたが。

母が私のやる気を削ぐスイッチを1回押しただけで、私は勉強への熱が消えました。

後に、ある事柄が起こり、私は再度勉強をしようと言うやる気スイッチを入れるのですが。
これはまだ先の話しになります。

母親の影響力は、やはり凄かったのだなと思いました。