🌸前話・闘病記つむつむ(18)トンネルに向かって転がるがごとく進む⑤

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🍀目次🍀


題19話  闘病記つむつむ(19)トンネルに向かって転がるがごとく進む⑥トンネルの中に入った。

父が開店1年弱で
「店を広くする」
と言い。

母と大喧嘩した後、父は自分の意見を通し  店を立派に改装しました。

ですが、改装した頃から、何故か客足が遠のきました。

母は
「だからお母ちゃん言ったやん!お客さんはぎゅうぎゅう詰めの方が入るって。

その方がお客さんは、流行ってるんやって思うから、並んででも来ようとしてくれんねやん。こんな閑散としたスペースはあかんねん。

それになぁ1年でこんな店大きくしたら、ここ儲かってる?ってみんな思いはるやろ。

常連のお客さんがやなぁ
『儲かってはるね。私らが出前頼まんでも、やっていけそうやね〜』
って言いはってんで!

お金あると思われるとな、みんなから  ねたまれるねん💢

離れて行きはるお客さんも増えるねん。

周りにお金あるって思われても、実際は借金増えてるしな。
そんなんお客さんに言われへんけど。
お客さんに
『おかみさん、儲かってええなぁ』
って言われる度、私イライラすんねん💢

お客さんには笑顔見せてるけどな、辛いんや!

やっぱりなんでも 可愛がってもらえる様じゃないとあかんのや!
こうなったんは全部お父さんのせいやからな!」
と、得意のマシンガントークで父を何度も責め立ててました。

母の持論で、他の人には なんかよく分からない事(お金あるとねたまれる とか。なんでも可愛がってもらえなあかんとか)も含まれてる様に思いましたが。
母は、あらゆる方面から父を責め立て、自分のストレスを晴らしている様に感じました。

父は苦虫を噛み殺したような顔つきで、黙って それらを全部聞いてました。

その言い合いは、家だけでなく、お店でもされるようになりました。

それはお客さんがいないから、プライベートな話しをする時間が増えたせいです。

母と父が話す時間が増えると、2人の仲は悪くなって行きました。

そして。
お客さんがほとんど来られなくなって。
お店の家賃とか払えなくなってきた頃、母は
「もうお店手伝われへん!働きに出る!お父さん!はよ辞める決断してや!」
と言って昼はお店に来なくなりました。

その頃から父は自宅に帰らず。
お店で寝泊まりするようになりました。

子供の頃は分かりませんでしたが。
いわゆる別居ですね。
そして、その事が母をイラつかせたのか、子供···もっぱら私に、小言マシンガントークが向けられる様になりました。

ちなみに弟は、母に
「お父ちゃん、お店で女の人2人雇ったよ。時給5,000円やって」
とか
「お父ちゃんな、お店で女の人と浮気してたで」
等報告?(告げ口?)するようになりました。

私はと言うと、母のマシンガントークから逃れる為、漫画の本やアニメにのめり込む様になりました。
ので「父が浮気」と言う話しを聞いても
「何それ?」とよく分かっていませんでした。

大人になって「一線越える」事と理解しました。
弟の方が、物知りだったようです。

この弟の
「お父ちゃんな、お店で女の人と浮気してたで」の密告が、母と父の関係を徹底的につぶす事になりました。

もし私が弟と同じ場面を見たとしても、多分言わないかなぁと思います。
もっとも 当時私は
「浮気」
ってどんなものか知らなかったから、見ても分からなかったとは思いますけど。

けどもし「浮気」の意味を知ってたら。

私は、父母に喧嘩しながらでも、一緒に居て欲しかったから、多分母には黙るかな。

言ったら 結局母が悲しみますもんね。
あー、けど父にはこっそり
「それなにやってんの?👀?
えー😰それって やっていい事なん?😡家族つぶしたいん?やめて〜やぁ」
とは言うかもですけど。

うーん。
「浮気」の具体的な意味がわかってたら、父だけでなく、相手の女の人にも一言言うかな。
「うちのお父ちゃんと何してはるんですか?やっていい事なんですか?家族壊さんといて!おたくの家の人に言うよ!」
とか脅すかも。

どこかで書きましたが。
元々私は一本気で。
家の中では、腹が立ったらどストレートに意見する勝気な所がありました。
父より相手を、バッサリ切捨てるように動いたかもしれません。

実際は私がおぼこかったのと。弟が真面目に母を守ろうとした結果、母は父の不義を知り。傷ついて、父を信じられなくなったようです。
父への対応は、辛辣なものになりましたし。
私達子供に
「お父ちゃんはな、あんなことした!こんなことした!だからお母ちゃん、お父さん嫌いやねん!そんなこともしてたわ!酷いやろ?」
と事ある毎に話して聞かせました。

私達は、その時まだ小学生だったし。
母の事が好きだったから、母の言葉を丸呑みしました。

そして父の居場所が無くなりました。

後の話しになりますが。
父が癌で闘病してる時、母はご飯は時々作ってあげてたみたいですが。
1階のトイレとお風呂は使用禁止にしてました。
癌末期で、父が歩くのも危なっかしい時でも
「お父さん、お風呂は近くの銭湯行って」
と言ってました。

その時の家と銭湯の距離は、多分100mもなかったです。
が真冬でした。
ふらふらと歩く、やせ細った父。
ゆっくりしか歩けないから、行き帰りで体の芯まで冷えきったと思います。

そんな状態でも、母は父が家のお風呂に入るのを拒みました。

その頃 私は、1度目の結婚をしていて、実家から出てました。

私がいても、母は同じ言葉を言ったと思います。私がいて出来た事は、父の送り迎えかな🤔
行き帰りで冷えない様に、沢山コートとかかけながら歩くか。
いっそ車椅子借りて、短時間で行き来してたと思います。

母が父の「浮気」を知ったのが、私が小学6年頃···11歳ぐらいです。

お風呂拒否したのが、私が27歳か28歳の頃でしたから、ざっくり約16年経ってました。

母はそこまで引きずるぐらい、あの「浮気」に傷つけられていたんです。

最も、結婚当初から母は父の
「···嫌だなぁ」
と言う事を貯めてきてました。

それは子供の頃から、ずっと愚痴を聞かされていたから分かります。

だけどあの「浮気してんで」の言葉を聞かなかったら、もしかしたら···
あそこまで父を嫌いにならなかったかも···と少し思います。

「浮気」はあかんです。
が。
それを積極的に密告するのもなぁ···と思います。
この辺のところは、今でも私はよく分かりません。それだけデリケートな問題だと私は思っています。

話しを戻して。
母と父が、まだお店にで一緒に働いていた頃。
お店が上手くいかなくなった頃と同時期に、私は胃の痛みと吐き気をもよおす様になりました。
あまり続くので、バリウム検査を受けました。
そして
「十二指腸潰瘍の跡」
を見つけられました。

「跡」だから、確か胃薬くらいしかもらわなかったと思います。
食後少し横になるように指示を受けました。
この事、何故か学校に
「十二指腸潰瘍」ではなく
「十二指腸回虫」と間違えて伝わっていました。
「回虫」➡「虫」➡「伝染る」と認識されたのです。
それで私は、バイキン扱いをされ始めました。
いじめと言う「トンネル」に入りました。

私は胃も痛いし。喋れる友達も居ない。
 授業中は良いけど、休み時間は身の置き所がない状態になりました。

たまらず、母に言うたら
「あんな、悪口なんて無視しとけば おさまるねん。それに言うてる子らは、お店のお得意さんの子供さんやからな、うちらはなんも言われへんねん。
あんたが我慢しゃぁーないやん」
と言われました。

私は
『自分の娘より、お得意さんの子供さん達を大切にするんやな。けどそうなるわな。だってお店のご飯買ってくれへんようになったらあかんもんな。けど···ほんまの親なら、自分の子を助けてくれるんちゃうんかな···。私、もらわれてきた子供なんやろか』
と思いました。

私は幼い頃から漫画をよく読んでいて。
漫画の設定の中で「貰われ子」と言うのがよくあったんです。

また大好きだった「キャ〇ディ・キ〇ンディ」も、主人公はみなしごで、いじめられてたし。

本当の親子と違うから、私はこんな目に合うんかな···と思っていました。

学校では、
私の笛を持ち出され。
クラスの障害のある男子に無理やりその笛を吹かせたり。

「似合のカップルやぁ」
とはやし立てられたりしました。

私は小さい頃から潔癖症だったので、人に自分の笛を吹かれるなんて、我慢出来ない事柄でした。

ちなみに、笛をふかされてる子も、いじめにあってました。

私は我慢できず、笛を奪い取って教室から泣きながら出ました。

だけど行くあてがない。

泣きながら校内を走って、気がついたら屋上の扉の前で座ってました。

そこで泣いていました。

どのぐらい泣いたか分からなくなった頃、階段の下から誰かが上がってくる足音が聞こえました。

そして
「あ!いたいた!見つけた!」
と言われました。

担任のY先生でした。
Y先生は、顔はブツブツがいっぱいできていて、髪も何故か白髪が混じってるけど、まだ 若い男の先生でした。

子供の目から見たらおじさんに見えましたが。
確か先生なりたてだったと思います。
Y先生は私が泣き止むまで、傍にいてくれました。
そして
「みんな反省してるよ。さぁ教室に戻りましょ」
と言われました。

『嘘だ!!』
と正直思いました。けどこれ以上ここにいたら、先生困るよなぁと思ったんです。

私は出来たらすぐに帰りたかったけど、先生の促しのまま、教室に戻りました。

クラスメートは 一応
「ごめんなさい」
と言ってくれました。

けど。 
雰囲気や声のトーンから
反省ではなく。先生に言われたから仕方なく言ってるだけなのが、よくわかりました

私だけに聞こえるように
「Y先生!なんで薔舞香ちゃんだけ優しいん やろなぁ?」
と、ひいきしてるやろぉ的な事を何回も言われました。

そのストレスのせいか、私はまた、十二指腸潰瘍の跡が痛み、学校や体育を休む事が多くなりました。

子供の頃は、勉強が出来るか。
体育が得意の子は人気が出てました。

特に体育が出来ると、クラスの中で人気者になれました。

私はどちらも出来ない子でしたから、はっきり言って 馬鹿にされてました。

体育休む時に、聞こえるように「ずる休みちゃうん?」と言われるんです。

そのコソコソ話しが、とても嫌でした😖

結果更にストレスが増え、私はお腹が痛くなり、お腹を下す様になりました。
そして吐き気も再び現れました。

確かかかりつけの病院が休みの日に、いきなりそれらの症状がお店で出ました。

結構激しくて 水さえ飲めない状態になりました。

母は電話帳(今で言うタウンワークかな👀)をめくり、開いてる病院を探しました。
時間は確か夜9時くらいでした。

いつもなら119で病院に行くのですが。
その当時お金がなくて。
119だと、どこの病院に連れていかれるか分からないので。
遠かったら、帰りタクシー代がかさむので。
それで自力で病院を見つける事にしたようでした。

母は2つ離れた駅の病院を見つけ、すぐに電話しました。

実は8時30分までの夜診でしたが、母は食らいついて、病院が根負けしました。
「お待ちしてますから、急いで来てください」
と言ってくれました。

私は動ける状態ではなかったけど、母の剣幕に、何とか歩いて駅に行き、電車に乗って そこの病院に母と行きました。

暗い路地の先にある小さな診療所でした。

着いてすぐ検査と点滴がされました。

検査結果は
「豚肉アレルギーを起こしている」
と言う聞いた事のない病名でした。

要は豚肉を食べたら、吐き気や腹痛を起こすアレルギーの1種でした。

いきなりなった理由は分からないですが、対処法は簡単でした。
豚肉を食べない事でした。

私はあまり好き嫌いの無い子供だったので、豚肉食べられないと
「豚まん食べられへん(泣)嫌やなぁ」
とか思ってました。

先生のお話しでは
「大きくなったら自然と治る」
との事で、今後二度と食べれない訳では無いと、少しほっとしました。

が、これ。
学校でのいじめに拍車をかける出来事となりました。

給食が食べれない💦

学校給食は大抵豚肉か鶏肉を使っていました。豚肉の入ってる日は、うちからパンを持って行って、1人だけみんなと違うのんを食べないとあかんのでした。

けして豪華なパンでは無いです。
どちらかと言えば給食のが豪華で、食べてるみんなが羨ましく感じる事も多々ありました。
けど、クラスメート達は
「また薔舞香ちゃんだけ、家から持ってきてるパン🍞食べてる。ええなぁ🤔なんで薔舞香ちゃんだけそんなん許されるんやぁ😡」
と言いました。

1番辛かったのは揚げパンとカレーの日🍛でした。
揚げパン➡と油っこいのでダメ┓(*´゚ω`)┏
カレー➡豚肉だからダメ┓(*´゚ω`)┏

結果牛乳と持参のパン🍞のみ。
私は揚げパンもカレーも大好きだったんです。
パンなんて嫌やなぁと、思ってると、いじめっ子が
「薔舞香ぁ、ええなぁ!好きなん食べれて!えこひいきやなぁ!」
とはやし立てました。
立つ瀬がないとはこの事です。
私はこんな事が繰り返され、まじに学校へ行かなくなりました。

朝の時間さえ乗り切れば、学校に行かなくていい事を学びました。
それは布団亀になることでした。

最初は母も
「調子悪いんやったらしゃーないな。学校連絡しとくわ」
と、追求もあっさりしてました。

けど毎日になってくると
「薔舞香!あんた仮病ちゃうん?」と言われだしました。

そして毎日朝6時半から8時50分まで、母の「学校行かんかぃマシンガントーク連打」が始まるのでした。

「薔舞香!!はよ起き!!又休むつもりか⁉️はよ起き!!何考えとんねん!!あんたはあかんな!!」
とボロカスに言われました。

その時間帯、母はAMラジオをかけてました。
特に朝8時からの浜〇淳さんの「ありがとう浜村〇です」のオープンニングが流れ出すと、母のマシンガントークもヒート・アップするのでした。

何言われたか覚えてないです。
布団の中で震えながら
「学校なんか行かへん!」
と決意していたので。

また母は9時少し前には、仕事に行くので。
「お母ちゃん、はよ仕事行かへんかなぁ」
とかも考えていました。

軽快な浜〇淳さんのオープンニング・トークが終わったら、母のマシンガントークも終わると知っていたので、2段ベッドの上で、布団亀🐢になり、じっと我慢してました😖

母が居なくなると下に降りて、トイレとご飯を食べました。

そしてラジオ消して、NHKの教育番組を見てました。

そしてお昼すぎにはお昼の連ドラ「あかんたれ」を見て。

母が帰ってくる直前には再放送の「009」を見てました。

罪悪感とか全く感じていませんでした。

この辺りの事はあまり覚えて無いのですが。

当時家にお風呂がなかったので、4時に銭湯に行っていたと思うのです。

確か母と弟と私で行ってたと思うのです。
不登校の時も、多分毎日行ってたと思います。

そして時、朝よりは控えめの母のマシンガントーク・学校行け!を浴びてました。

そんな時弟は
「僕、学校行ってるよ。テスト100点やったよ。勉強好きや」
と話してたような(あまり覚えてないです?)

覚えてるのは母がいつも、弟を可愛がってた事だけ。

弟は私を馬鹿にしていました。
そりゃ成績も悪くて、不登校な姉だから仕方ないですが。

私の目の前で弟を抱きしめる母を見てると 悲しくなりました。

ある時母は、弟を抱きしめながら
「あんたな。せめて小学校ぐらい行きや。いじめがなんなん?〇ちゃんは頑張って行ってるで。まぁ言うても、あんたは女やから。中学出たら働いたらええけどな。それでも小学校ぐらい行っときゃ!」
と、言いました。

私は、体もしんどい。
学校の人間関係がしんどい。
弟と比べられるのがしんどい。
勉強しても虚しい。
褒められたり抱きしめられたことなんかほとんどないのが、辛い。
もぅ人生疲れた。
と思ってました。
だけど
私は母の言葉に 何も言えずに立ちすくしていました。

特に
「小学校ぐらい行っとき」
の言葉を聞いて。そうやなっと思い。
何回か頑張って学校に行きました。

そしたら席替えがあり、私の席が分からない💦
誰にも聞けないし、戸惑ってると。
ふっと「あ、先生の机には席の名前書いてるかも」と思い、誰にも聞かず自分の力で席を探せる様になりました。

けどやはり学校は居心地が悪くて、すぐ早退しました。

それと私の中で、学校より大切なものが出来てました。

昼ドラと009です。

母に「中学出たら働け」と言われてたので、勉強しても仕方ない。

それより昼の連ドラと009の続きがものすごく気になってました。

当時ビデオなんてないから、それを見るには学校休まな見れない。

母の言葉で人生捨て鉢になってた私は、開き直って、昼ドラとかを見るために、毎朝布団亀になりました。

長期の不登校だから、担任の先生も困ったと思います。
母に声かけしたのかもしれません。
母はいつしか
「薔舞香の先生、ええ先生やな」
と言うようになりました。
私にはよく分かりませんでした。

朝の日課の学校行けマシンガントークを逃れ、昼ドラ(おしんの様な話し)と009を見て。その後は漫画を読んで過ごし、私は満足していました。

私の頭の中には、学校も、クラスメートも、母も弟も父もいませんでした。
考えたら痛い事ばかりやったから、心の箱に閉じ込めていました。

私が布団亀してる内に、母の怒りを停めれる人はおらず。子供や家族を守るべき人(父)も、自分のお店に固着しており。
子供を育てる上で必要な機能が全く動いていない「機能不全家族」になりつつあり。

さらに、母に好かれてるはずの弟は、好かれる為に絶え間ない努力をしてて、そこに陰りが見え始めており、また同時に弟もいじめの対象になりつつあるなんて事、私は全く知りませんでした。

続)