前回のつむつむ🍀*゜

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目次🌼*・

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第18話 闘病記つむつむ  トンネルに向かって転がるがごとく進む⑤ 起承転結の転

父のお店は、新年を迎えても ありがたい事に盛況でした。
私と弟も、お店になれて 会計までするようになってました。

母も
「お母ちゃんも調理師の免許とろおかなぁ」
と言うようになってました。
しかし父は
「水仕事が多い。手があれる。痛いからやめとけ」
とぽつりと言いました。
母は皮膚が弱かったのです。あかぎれとか、霜焼けとかが、すぐに出来るタイプでした。
父は心配したのでしょう。

母は残念そうに
「そやなぁ」
と言ってしばらく黙っていました。

『あれ?』
と私は2人の様子を見ていつもと違うと感じました。
なぜなら👀
こんなに、父が自分の意見を、母に言う事って、あまりなかったからです。
しかも、それを素直に聞く母は、もっと珍しかったので、驚きました。

父の思いやりが通じたのな···と私が思った時。
母はごにょごにょと何か言い出しました。

「お父ちゃん、皮膚が弱いからあかんって言うてんで。お母ちゃんがせっかくやる気になってたのになぁ!なんであかんねん!」
と、言いました。
『え?納得したんちゃうかぃ!!』
と私は思いました。
けど私は母に、何も言いませんでした。
ちなみに、父も黙ってました。

母は周りが何も反論してこないと、何回か愚痴愚痴言ったのち、黙ります。

けれど、納得してないのか?許せないのか?
母は、事ある毎に「やる気になってたのに!」を繰り返すのでした。

これもすべて、何も答えず聞き流していました。
ここで反論したら、今で言う「炎上状態」になるからです。

ただ、弟だけは
「お母ちゃんがやる気になってるのに、気持ちを削ぐ事言うのはあかんと思うわ」
と母に言っていました。
弟の言葉に
「〇ちゃんだけはお母ちゃんの事分かってくれるんやなぁ。いい子やわ」
と言ってました。

その言葉が出たら私は慌ててその場を離れました。
その場にいたら
「それに比べて薔舞香は。お母ちゃんが悲しんでても知らん顔やし。思いやりないよな。もっと〇ちゃんを見習って欲しいわ」的な事を言われるからです。

元々弟と比べられてては「お前はあかんな」を言われ続けて育ってきた私にとって。

これって、結構きついんですよね。

母の機嫌が悪い時は、最終的に
「薔舞香を産む時、真夏に3ヶ月も寝てやっと産んだったのに。なんの役にもたたへん。てか病気ばっかりして入院や通院ばっかりやった!」
と生い立ちストーリーから始まり。

「〇ちゃんと全然違う‼️薔舞香なんて産まんかったら良かったわ」
で締めくくられるのです。
聞きなれたストーリーですが。

いかに私が母に迷惑かけてるかとか。
あかん子やをふんだんにふりかけたストーリーなので、聞くと凹みました。
心がもやもやして、重くなりました。

そんな時、私は、何かしたくなっていました。でもそれをしないように漫画に逃げました。
この何かは、子供の頃はよく分かりませんでした。
小学生高学年になると、よく分からないけどしたくなる事の正体が見え始めました。
それは
「自死」でした。
普通に生活してても、何がきっかけで母のお怒りスイッチが入るか分からないのです。
ので、安心してられませんでした。

それにスイッチが入ったら
「産まんかったら良かった」
と落とされるまで、繰り返される言葉の数々が痛い。

私はお腹がキリキリ痛む様になりました。 
少し吐き気とかもありました。 
実際吐いた事もありました。 

「又病気かぃ😡」
と怒られながら病院まで2人で歩きました。

かかりつけの病院🏥で、診察を受けると。
生まれて初めてバリウム検査を受ける事になりました。

昭和のバリウムは不味くて、発泡剤は気持ち悪かったです。

けど病院慣れしてる私。

検査で抵抗すると余計にしんどい事を学んでるので、我慢しました。

出た診断は
「十二指腸潰瘍」
でした。

しかも治った痕があり、そこに食べ物とかが引っかかっり、食後にむかむかするのだろうと言われました。

小学生で「十二指腸潰瘍」
どんなストレス抱えてたんや···orzと今では思います。

この「十二指腸潰瘍」は
さらに私を窮地におとしいれる事となります。

クラスのみんなに、どう伝わったか分かりませんけど。
ある日、私が学校に行くと、私の机が廊下に出され
机に貼り紙がされてました。

「え?なんで?」
と戸惑ってる私。意味が分からなかったんです。おろおろしてると。

様子を見てた男子から
「お前、お腹に虫がおんねんやろ!バイ菌やな!それうつるんか?おっと触るな!汚い!」
と言われました。


するとクラス全員が、はやし立てるように
「バイ菌!バイ菌!バイ菌!」
と言いたてました。

「十二指腸潰瘍」と
「十二指腸回虫」と
間違えられていたようです。

これが、いじめの始まりとなりました。
この日から、クラスでグループとか作る時など

「あんたお腹に虫おるんやろ?気持ち悪い!傍にこんといて!移るやん!バイキン!」と言われ、ぼっちにされました。

1人であわてる様子を見て、それまで仲が良かった子達まで、くすくす笑うようになりました。
とても辛かったです。

なので
私は母に話しました。
すると
「うーん、そんなん無視したら。それに言ってはるお子さんは、お店のご贔屓さんのとこの子供さんやから、なんも言われへんわ。ちっとはあんたが我慢しんとあかんなぁ」
と言われ放置されました。


母は、私が十二指腸潰瘍になっても、全然平気なのか、言動は変わりませんでした。
何かあるとすぐ、愚痴愚痴やチクチク小言を言われる。
その都度、私はお腹と胸が痛くなりました。

この言葉の暴力は、私が母の言葉に反論したり。母からしたら『私が責められた!認められてへん!賛同してくれへん!昔お母ちゃん(おばあちゃん)にそんな事言われた!』など、様々なスイッチ(地雷)があって。

それらを刺激された時に、攻撃開始!となったのだろうなぁ···と今なら分かります。

けど幼かった頃は分からなくて。
「なんかお母ちゃんの嫌なこと」を言うた瞬間から、母の攻撃が始まると思ってました。
ちなみに、私は頭の回転が遅かったので、母がマシンガントークになって初めて
「ああ、あれは言ったらあかんことやったんや」と思ってました。

また私だけでなく、父も似たようなシュチエーションで、母の毒舌マシンガントークが火を吹きます🔥
1度言い出したら、最終的な言葉を投げるまで、母のマシンガントークは止まりません。

そして、一通り言ったら落ち着くのではなく、繰り返し繰り返し、ヘビーローテーションで1ヶ月位は話してきます。

さらに機嫌が悪い時は、お店のお客様や。
ダ〇エーでレジを並んでる見ず知らずの人にまで
「私の娘は病弱でね。いつも大変だったんです。なのに···」
と話し出すんです。

幼い頃から見てきた私は、そんなもんなんやと思っていました。

てか、それだけ私はあかん子なんやと思ってました。

けど今思うと🤔
母の方がやばいんちゃう?そういや精神科とか行ってへんかった。

いわゆる「鬱の無断断薬」さんでした。
そりゃ愚痴愚痴言うわやな。
誰彼構わず言いふらすのも、病的やし。

精神薬の「無断断薬」は、かなり危険です。
けど、専門家(主治医)に報告しつつ、断薬にもって行くのは🙆🏻‍♀️ですけど。

精神薬は脳に作用する薬だからです。

ざっくり言うと
「勝手にやめたら症状のリバウンドが来てものすごく辛くなる」
のです。

母はよく
「お母ちゃんはな、若い頃鬱になってん。けどな。お寺さんから独立して、会社に入って。会社の登山部で山を登ってたら鬱治ってん」
と言ってました。

物心ついた頃から話しを聞かされてるから、判断なんて出来なかったです。

それこそ「そうなんや」と思うだけ。

てか物心ついたかついてない頃の子供に、そんな話し。
普通はしませんよね。

話さないと母は、つぶれそうやったんやろなぁと私は、いつしか思う様になりました。

看護師になった頃には、母の言動はさらにやばくなってました。

「ベランダに黒い影来た!悪いこと起こる😱
とか。
「あんたのせいで、お母ちゃんはしんどい想いばっかりしててんやん!大変やってんで‼️」
など。
最後は
「産まんかったら良かった」
とか
「全部あんたが悪い‼️」
とか言う頻度が増えていました。

そして究極的に母がしんどい時は
「お母ちゃんはな、3人姉妹の1番上に生まれてな···」
と母の身の上話しが始まり、話し切るまで終わりませんでした。

この身の上話しも、物心ついた時からずっと聞かされていた話しです。

小学校の頃には、母の身の上話しがまるで自分が起こした罪の様に感じられ、人生に疲れを覚える様になってました。

私だけでなく、父も多分同じ様な目にあってたのでしょう。元々口下手な父は、黙って聞くのを対抗手段にしてたと思います。

私は子供だったから
やはり母に甘えたくて。嫌われたくなくて。色々しました。
「お母ちゃんの事悪く思ってないよ」
と言ってみたり。
「お母ちゃんの考えすぎやで」
とか言ったり。
これで母の逆鱗に逆に触れ、さらなるマシンガントークにさらされたものでした。

だけど例外が1人いました。
弟です。

弟は生まれた時から母のひいきを受けてました。可愛い❤目ぇ大きい❤頭いい♥優しい♥お母ちゃんの事をよく分かってくれてる♥
という理由からです。

お気に入りの弟が母と話すと、母はとても嬉しそうにしてました。
弟も母の事が好きで、母に認めてもらおうと頑張ってました。
ただ少し、頭が良すぎて。凡人の私が見てると「ずるいな」と思う事が多くありました。
いわゆる「悪知恵」ですね。

母は多分最後まで知らなかったと思いますが。
お店の店番とかしてる時、弟はレジの所で何かしてました。
覗きに行くと弟は。
普通のふりして


小銭を取ってました!!
私は凄く驚きました。

弟は
「少しならわからん」
と言いました。
本当に親達には、分からないようでした。

私は。先にも言いましたが頭が回転が鈍いので(あほなので)
弟を真似てこっそりお金を取るようになりましたが、すぐバレました。
弟は小銭でしたが。
私は札を抜いたんです。阿呆ですわ。

その頃テレビで、マッチがカメラのCMをしてました。

かっこよかったんですよね···カメラ📸
それを買いたくてごっそり。

そりゃバレますわ💦

カメラ📸買って、ほこほこしてたら母に問い詰められ。
「友達のお母さんからアルバイト頼まれた」と言うすぐバレる事を言って、ものすごく怒られました。

母は
「ここまであほやとは思わんかったです。お金困ってるのに、取るなんて!警察👮連れてこう思います!」
とお寺さんに電話でまくし立てられ。
平謝りしました。
警察👮😱
私、犯罪者😱

お寺さんは
「〇ちゃんあんまり薔舞香ちゃん責めたらアカンで。そんな事は誰しもあるから。反省してるなら、大事にしんときや」
と。
私には
「これで分かったやろ。親のものでも取ったら泥棒やで。もうしぃひんわな」
と言われました。

私はそれ以後お金だけでなく、何かを取る事はしなくなりました。

今思っても弟はやはり賢い。てかずる賢い?よな···と思います。
バレない範囲を見極めて取るんですから。
様子見てやばい時···私がバレた時の直後とか···は取らない。
ほとぼり冷めたらこっそり取る。

弟が幼児さんの頃、保健所の育児検診の時、保健師さんから
「この子はIQが高いです。賢いですが、賢いからこその 注意しなあかん所があります。育てる時によく気を付けてあげて下さいね」と母が言われたそうです。

この言葉が、この後現実のものになりますが。
小銭を取ってる時から、既に発露していたのかも知れません。


母の様子は年々酷くなって。
なんか聞こえるとかまで言い出してました。
私が、大人になって、精神科領域の病になりクリニックに通ってた時に、主治医に母の事を相談した事があります。

けどその時母は60近くになっていました。
一通り私の話しを聞いた主治医は
「で、本人さん困ってるの?同居してる家族は困ってるの?」
と聞かれました。
「?」
と私が戸惑ってると、主治医は
「誰かが困ってないなら。もうお年やし。好きにさせてあげてええん違う?」
と言われました。

まぁ専門家に相談するのが遅すぎたんですね。
もし小学校の頃誰か大人が気がついてたら、母も父も苦しまなくてすんだと思います。

話しを戻して。

お店をしてる時は、家も仕事も一緒だから、2人の雰囲気悪くなると大変でした。逃げ場が無い。

私は気が付かないふりをして、漫画を読んでました。

ちなみに。

弟はしっかり見ていて、母を守ろうとしていました。
けどそれは、逆効果やないのかなぁと、今の私は思うのです。

弟が確か小学3年生の頃だったと思います。

弟は母に
「お母ちゃん、あんなお父ちゃんがなぁ〇〇って言ってたで」
とか。
「XXしてたで」
など、いわゆる報告(密告)を細かくしていたのです。
弟に悪気はなくて。という言うか、母を守ろうとして、父が隠してる事を、母に知らせていたようでした。

知らされた母は、その都度 父に怒ってました。
ほぼ24時間、夫婦が顔を合わせて動く時、知らなくていい事も、沢山あったんじゃないかと思う私。

それを知らされたら、いさかいしかないですよね(>_<)

まぁ、幸いお店が忙しくて、その嫌〜な雰囲気にどっぷり浸かる事は少なかったですが。
けど、ちゃりん♪ちゃりん♪と小銭を貯めるように、2人の仲に小さな溝が出来、少しずつ深まってる様に感じました。



また、お店のお客様も、色んな人が増えました。
私の同級生のお宅もお客様になってくれはる所が増えました。
何となく怖い世界(ヤ〇ザ)のお兄さん達も、常連さんとして通ってくれていました。

その人達、見た感じは怖そうだけど、私達子供と話すと 明るくて、サバサバしてて面白かったです。
それに気前も良かったです。

例えばクリスマス。
「ほらこれ🎶ケーキ🎂買ってきたから食べてや」
と数人の人が私達に持って来てくれました。

生クリームでは無かったりけど。
朝···ケーキ🎂
昼···ケーキ🎂
おやつ···ケーキ🎂
夜···ケーキ🎂
とケーキ🎂三昧🍰🍰🍰🍰🍰🍰

と言う夢の様な生活が出来る、めっちゃ嬉しい事がありました🤗


その時は冷蔵庫が、ケーキ🎂🎂🎂🎂🎂であるれました❀(*´▽`*)❀

幸せやなぁと思いました🎶
またお正月は···。
あまり覚えていませんが、多分お年玉も
「ほら、おめでとさん🧧🧧」
と言いつつ、私達に結構な額のお年玉🧧をくれていたと思います。

けど困る事もありました。
「なぁおっちゃん、これ預かっといて〜な」
とか。
「つけでよろしく🙏」
とか。
つけはなんとか次の月には払ってもらってたみたいですが。

難儀なのが
「これ預かっといて〜」
でした。

ある日強面の兄さんが、父に言いました。
「なぁ大将、こないだ預けてた書類返してぇなぁ」
と言うのです。

父は一瞬動きを止め、考えていましたが。

思いつかないのか、兄さんに言いました。

「···なんの書類やったかなぁ?」
そしたら兄さんの声が低くなりました。
「はぁ⁉️あの茶封筒に入れた書類やん‼️大将覚えてへんのんか‼️
あれはな、大金になる書類やねんで‼️ものすごく大切な書類やから大将を見込んで預けたのに‼️」
カウンターをバンッ‼️💥と手で叩き、大声で
「大将‼️どない落とし前つけてくれんねん‼️」
と兄さんは言いました。

私は普段優しい兄さんの豹変ぶりに、驚き震えていました。

見たら父も顔色を失っていました。

お店がシーンとしました。

けど

「え⁉️何言うてんの兄ちゃん。あの茶封筒の書類って、この前 持って帰りはったやん」
と冷静な母の声が聞こえました。



思わずみんなが振り返ると、母がへーぜんとした顔で
「お父さん渡してたやん。私は見てたで。忘れてへんで。兄ちゃん、勘違いしてはるん違うの?それとも詐欺か?」
とバッサリ言いました。

再度しばし沈黙が流れました。

すると兄ちゃんが
「あ、そう言えばそうやったわ💦女将さんよう覚えたはったなぁ💦(小声で···こらあかんわ)
いゃぁ〜大将、ごめんごめん🙏💦持って帰ってたわ💦
ああ、用事あるからワシ行くわ💦
ほんますんませんでした💦」
と慌てて店を出て行きました。

私は落ち着いた母の態度を、かっこいいと思いました。

けど後が悪い。
母は大きなため息ついて、怒りをあらわに父に言いました。

「お父さん、しっかりしやなぁ😡あの兄ちゃん、書類なくしたって騒いで、金取るつもりやったんやで‼️
だから私 言うたやん、変なもん預かったらあかんって‼️
私は預かった時から変やと思っとんたんや。私が覚えてへんかったら、どえらい事になっとったんやで‼️
もっとしっかりしぃやぁヾ( -`д´-」
とまくしたてました。

『お店にお客さんいてるのに···そこまで言わんでもええやん』
と幼心に思いました。

父はひたすらうなづいてました。

「ええか!これからはお客さんから物を預からん事‼️あとツケも無くしてく事‼️
お父さん、甘ぁ見られてるんやで‼️」
と、母のマシンガントークはしばらく止まりませんでした😰

私は見た感じは怖いけど、いつも優しくて明るい話しをしてるれる兄さんの、もう1つの顔を見て
「やっぱりヤ〇ザ屋さんって、怖いんやな」
と思っていました。

そんな日々が続き。
「うどん屋」に居ることが日常になった頃
父は突然言いました。

「店なぁ、狭いから改装工事して広げよううと思うんや」

お店をする‼️と言った時と同様、突然宣言しました。

父は大人しい人で、普段からあまり喋りません。
マシンガントークの母の連れとしたら、丁度良いバランスだったのでしょう。
けど、頑固でした。

母は
「はぁ⁉️お店の改装工事‼️あかんわ、まだ早いで‼️せっかく今のお店が繁盛してるのに‼️みんな肩寄せあって食べるから
『ここは流行ってる。ここは美味しいんや』
ってより思ってくれてはんのに!
開店してまだ1年と少ししかたってないのに、早いわ‼️あかんで😡」
と怒って言いました。
私達子供は、裏の和室が老いたのかな遊び場だったので、母と同じで反対しました。

けど結果から言うと、父は 又、自分の想いを貫きました。

改装工事中も手前の店で営業してました。
あまり途中は覚えてませんが。すぐに和室が店舗になりました。

そして



ぴたっと客足が途絶えました。


お昼時に、並んで来てくれてたお客さんは、工事中ほかのお店に行き。
そこの常連さんになりました。

また、ご近所に
「あの店なぁ、すごく儲かってるんやな。1年で店広くして。お金ようけあんねんで」
と言う噂を流されました。

実際は
お寺さん(母のお里代わりのお寺さん)から、最初に借りていたお金も
まだ返済しきれてない中、さらに借りてたので、お金はありませんでした。

自転車操業というのでしょうか。
儲けたものは、仕入れしたお店にすぐに払わわれ。
お金がない時は、頼み込んで食材やお酒を、後払いにしてもらってました。

子供(私)がお金取って。
お父さんのお店は、客足が減り。
お店だけでは、家計が苦しくなって来た頃、母はお店を父に任して、パートに出ました。

その頃から、暗雲が増してきたと思います。
店の改装工事。

これが大きな「転」だったと思います。
続)