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闘病記つむつむ(17)トンネルに向かって転がるがごとく進む④まだ幸せだった頃〜お誕生日会〜



開店して早い時期に、父のお店は軌道に乗ったようでした。

母曰く
お客様はな、くっついて食べるのが みんな好きやねんで、きっと」
とよく言ってました。

しかし、けして父の事はほめない感じでした。

だけど私は
『お父ちゃんの作るご飯が美味しいから、お客さん来てるんや。すごいな』
と思ってました。言わなかったけど。
言うと母からうとまれそうな気がして、言えませんでした。

小学4年(だったかな?)にして、親に忖度する娘って、どうなんだろうう💦
と今では思います。
機能不全家族の場合にこんな「言葉に出来ないやり取り」が多いと思います。

本来なら父と口をきかない母。
けど、お店をし始めた頃、2人は協力していました。

言葉の棘はありましたけど。
その鋭さは、やわらかくなっていました。

相変わらずきつい母と、母の言葉に洗脳されてる子供達でしたけど
父は何も言わず
どんくさいながらも、コツコツ料理を作っては出前に行ってました。

そして季節はめぐり。
秋になりました。
私の誕生日が近づきました。

私は、それまで、クラスの子のお誕生日会には参加した事はありました。

けど自分家で誕生日会を開く事はありませんでした。

理由は
「クラスの子らを家に入れたら、家が汚いのがバレるやん!そしたら絶対虐められるでぇ!それにそんなお金、家にないわ!」
と母の拒否反応でした。

うーん🤔確かに、お金も無かったかなぁ😓

けど、他の子の誕生日会におよばれしといて、自分はしないと、そっちの方が
小学生には、虐めの種になりました。
「食い逃げやで〜」
とか言われるんです。

なので私は、プレゼントだけあげて、なるべく誕生日会には出ないようにしてました。

私は、今年も変わりなく、静かな誕生日を迎えるんやと思っていた時
母が言いました。
「あんたさ、お誕生日会したいか?」
「え⁉️」
私が驚いて固まってると、母は
「お父ちゃんがな、お店の座敷使ってやったらええって言うてんねん。あんたしたいか?」
と、普通に聞いてきました。

「ええのん?」
とおそるおそる聞くと、母は

「ええんちゃう。家に入れる訳ちゃうし。店やったら汚れてもかまへんし。お父ちゃんも、やったらええって言うてるから」
と、拍子抜けするくらい軽く言われました。

よくよく母の言い分を聞いたら
「家に知らない人が入るのが、汚れるようで嫌やねん!後で拭き掃除とかしなあかんやん!それに、お母ちゃんが小さい時、家が汚いからいじめられたんや〜」
と言うことでした。


「誕生日会あかんわ!」と怒ってた母の真意は、母の超潔癖な所と、昔の嫌な体験から来た言葉だったんだと分かりました。

けど今度は店やから。
知らない人が入っても、大丈夫やし。
ここの店には座敷もあるって宣伝にもなるからとも言われました。

娘の誕生日を宣伝にするのか?と思いましたけど。

まぁいいか🎶と瞬時に思いました。
その時の私は、本当に嬉しかったです。

早速誘いたいクラスの子達にお誘いのカードを書きました。

けど、私は元々人付き合いが苦手だったのと。
私が運動も勉強も出来へんから、クラスでそんなに親しく話す友達は、数人しかいなくて
しかも、今のおしゃべりな私とは考えられないくらい、重たい雰囲気の子でしたので、声をかけれる人は限られていました。

それでも話してくれてた数人の女子に、お誕生日会のカードを作って手渡しました。

生まれて初めての誕生日会なので、私はワクワクしてました。

けどふっと思いました。

お店は和食···うどん屋さん。
お誕生日会に出る食事は、やっぱりうどんかなぁ(´・ω・`)💦

お誕生日会と言ったら、やはり洋食で。
ケーキとかデザート🎂🍨が並ぶよな。
あんまり贅沢言われへんから、うどんでも我慢しやな。
とか思ってました。

けど父は
確かに和食なのですが、見せ方ががあざとかった(笑)


ケーキ🎂 どーん!
栗の蒸しパンや、花のような結び目の手まり寿司どーん!
更に
ハートマーク❤のにんじんが乗ってる、可愛い散らし寿司どーん!
果物どーん!
スープ どーん!
飲み物どーん☕️!
ジュースどーん!🍹
あと数点、和食どーん!
洋風の食器に可愛く盛り付け どーん!
お菓子も複数用意 どーん!🌸

とどめに、壁に華やかな飾りがどどーん!

見た目も華やかで、キラキラしていて。

そして絶対外せないポイント(ケーキ🎂等)は、がっちり押さえられてました。

招いた子達は、とても驚いてました。
けど1番驚いたのは、私でした。

お父ちゃん、すごい( ꒪⌓︎꒪)
魔法使いか?

本気でそう思いました。

その日は母も機嫌が良くて、座敷に何回も来ては、足りないものはないか?とか聞いてきました。
夢のような誕生日会でした。


後に弟も、誕生日会を開いてもらったと思いますが、やはり凄かったと思います。

その後もお店は順調に進み。

初めての年越しを迎えました。

年越しは、それまでコタツに入って紅白見て、途中で寝落ちするのが常でした😴😴

けどその年は
お店で年越し蕎麦にラップを付けまくってました。

年末が、こんなに底冷えする事を初めて知った年でした。

お客さんはちらほらでしたけど、出前が殺到しました。

母がそばを作り
私がラップかけ
弟は箸を入れ
父がチャリで出前する
そんな役割分担が自然と出来てました。

ちなみに。
父の出前スタイルは。
少ない所はおかもちで。
多い所は、木製で 長方形の大きなお盆(?)に、丼や蓋付きの食器などを並べ。
その上に更に同じお盆をかまし
さらに板の上に数個商品を乗せるのです。


一番多い時で、お盆3段重ねをしてました。

それを右肩に乗せ、片手で支え
もう一方の片手でチャリ🚲をあやつって出前に行きました。

雨の時は商品に厚めのビニールを被せ、自分はカッパを着て、やはりチャリ🚲で出前に行ってました。

この年の大晦日は、寒かったけど晴れてました。

店に残った私達も、ふらりと来られるお客さんの接客をしてました。

その合間に、倉庫兼押し入れに置いてた白黒テレビで、こっそり紅白歌合戦を見てました。

動いてるから、いつもよりは眠くなかったです。
でも、なんと言っても小学生。
紅白が演歌ばかりになると、うとうとしてました。

「あんたら、もうええから奥の座敷で寝とき」
と母に言われましたけど。
弟は寝てましたが、私は
「もう大丈夫や。手伝うから」
と言って頑張りました。

時計が11時50分を指すと、紅白も終わりかけ。
気がついたら、「蛍の光」が流れてました。

今思うと、生まれて初めて紅白を最後まで見たのは、この時でした。

確か赤が勝ったかな?よく覚えていません。

そして「ゆく年くる年」が始まった頃
父は最後の出前に
母はお店の後片付け
私は眠気と闘いつつ、お店のお客様に
「こちらは、おすみでしょうか?お下げしてもよろしいですか?」
と声をかけてました。

お客様は
「小さいのに、手伝ってんのか。いい子やなぁ」
と頭をわしわしされました。

するといつの間に起きたのか、弟も横にいて、同じくお客様に頭をわしわしされてました。

そしてお客様が
「ご馳走様でした。大将、今年もよろしく!」
と言って帰られる頃には、父も出前を全て済まし。
母もほぼ店の後片付けを終わらせていました。

両親が、残った洗い物をしてる時、私はほうきで🧹お店をはいてました。

最後に火に元確認と。

お店にお正月休みのポスターを入口に貼り付け、暖簾を中になおし、初めての「うどん屋さんの大晦日」を終えました。

時間は午前12時30分頃になってました。
お店の鍵を閉めて
人通りの殆どない道を、父母と、弟と私の4人で、家に帰りました。

こんな真夜中に外を歩いたのも初めてだった私は、電灯の明かりに照らしだされた、他のお店のお正月休みのポスターを見ながら
『まさに真新しい年の始まりやなぁ。今年も今のまま仲良く出来れば良いなぁ』
と私は思っていました。

遠くの方から、ゴーンと鐘の音が聞こえていました。

まだ幸せだった頃の話しです。

続)

※挿絵の絵柄が変わっています。不徳のいたすところです💦絵を練習中ですので、どうかご容赦くださいませ🙇‍♀️💦※