🌼*・ブログの案内場( ´ ▽ ` )ノ︎💕︎


①闘病記つむつむ第1話

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②闘病記つむつむ第15話https://ameblo.jp/5717-8507/entry-12744626223.html 


③心身弱いとねぇつむつむ

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④昭和の看護婦シリーズ

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⑤❤思い切って試してみた洗顔と化粧水❤もちもち✨ぷるるんになった❤

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⑥🌸思い切って試してみた精油とホホバオイル🌸アロマで肌が若返った🌸

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⑦🍀*゜思い切って試してみたゼロカロこんにゃくゼリー🍀*゜内科医の勧めで食べたら痩せた🍀*゜https://ameblo.jp/5717-8507/entry-12671044884.html 



闘病記つむつむ(16)トンネルに向かって転がるがごとく進む③

我慢強いけど、少しどんくさい父と

我慢って何?言いたい事は言うよな 毒舌マシンガントークの母

2人が言い合いしてる所は、幼い時から良く見てました。
言い合い🤔と言うよりは、父が一方的に言われてました。

だけど

私が確か小学4年か5年の頃

「更科」と言ううどん屋さんの暖簾分けを受けた父

母の反対を押し切り

マシンガントークにもやられず

自分の店を持ちました。

私と、1歳半下の弟は、母の味方だったので
『お店やっても上手くいかへんわ』と言い続けてる母の意見を、まんま受け取っていました。

お店は文化住宅の1部屋を改装して作られてました。

立地条件は、あまり良くなかったです。

店の前に大きな工場がありましたけど。

そこの出入口が、店とかなり離れていて。


店の前を通るのは

近くにある保育所の親子と

小学校の通学をする子供達が多かったです。なんと言っても前の道は、小学校の通学路でしたので。


店をすると言われた時、母は
夕方のラジオ📻で、屋台風のおじさんがする
電話で占い🔮相談に、電話して

なんと放送されました。

占い🔮のおっちゃんは
「奥さん、いやぁ〜お店はええねんけど。時期がなぁ。今はまだ早いでっせ。あと2年したら良くなりますから、2年待った方がいいですよ」
と言われました。

ので、母は
お店が出来ても、ことある事に父に
「占い🔮のおっちゃんが、言ってくれたのに。絶対失敗するわ」
と言ってました。

今思うと、暗示にかけてたの?と言いたい感じでした😅

ずっと愚痴愚痴言ってた母ですが。

お店を1人で回せない父を見て、スッパリパートを辞め、お店の手伝いに入りました。

お店は最初、あまり人が来なかったですが。

来た人が
「おっちゃん、こんな美味いのん食べた事ないわ。それでこの値段!儲けられんのか?まぁまた来るわ」
と言って帰る事が多かったです。

そのおかげで、開店数週間後には
お昼時に席が満員になり、外でお客さんが待ってくれはるような店になりました。
ただ、父は丁寧やけど、要領の悪い所があり。

お客さんが増えると、それが災いしてました。



お店のメニューが多すぎたのもの原因やと思います。

すうどん100円
から始まって
定食と一品料理

壁にずら〜とメニューが並んでました。

父は大阪市内の「更科本店」でずっと働いていましたから、沢山の注文があっても
多分注文の品を分業して、何人かで仕上げていたんだと思います。

だけど父の店では、調理できるのは父だけで。

見かねて母が乱入してましたけど。

さすがに天ぷら、特に海老の天ぷらは
まっすぐにならず

父に
「これは出せない」
と言われてました。

手伝った母からしたら、益々腹がたったと思います。

またお客さんに注文された品を運ぶのは、主に母でした。

私や弟も、かきいれ時以外ののんびりした時間帯は、運んだ事がありました。

かきいれ時はお店が満員電車状態なので、子供では何も出来ませんでした。

注文が山の様に来たら父は
「先に付け出しだけお出しして」
とか
「お味噌汁だけ、お出しして」
と言って時間をかせいでました。

が、その後すぐに出せるかと言うと
それができなくて
お客さんから
「大将、味噌汁飲んでもうたわ!遅いわ!」
と大声で言われるようになりました。

小さいお店だから、1人が騒ぐと

連鎖するんですね。

母もお客さんに、同じように怒られてました。

お客さんの前では優しく笑って謝ってましたが。
お客さんに背を向けたら、鬼のような顔になり、つかつかと厨房に行き
小声で
「お父ちゃん!カツ丼定食やねんから、味噌汁だけでなく、丼も一緒に仕上げてや!お客さんに怒られんの私なんやで👹‼️」
と怒ってました。

父は返事をする余裕もなく
「ううう」
と言いながら、小さな厨房の中
湯気で暑いのか?
またまた緊張感からか?
汗をかきながら、料理を作ってるのをよく見ました。

けどそんな満員の時間は、午後1時になると潮が引くように静かになりました。

まさに戦場。
私はうちでお店をするまでは、食べ物屋さんがこんなに大変だと知りませんでした。

今の私なら「お父ちゃん、おつかれ」と言うと思います。

けどこの頃は、母の
「お父ちゃん酷いねんでー」
の暗示が効いてて、あまり話しかけませんでした。

それでも店のお手伝いはしてました。
私と弟がしたのは、お箸をお箸の紙袋に入れること。
あとは唐辛子の小袋を入れる事でした。

店のお客さんだけでも大変なのに、父は出前もしてたんです。



私達がセットした割り箸は、出前用のお箸でした。
いつもはケンカしてる私達でしたが、この時は協力してました。

お箸のセット作るのは、簡単そうに見えて、意外にコツがいりました。

上手く入れないと袋が破れたり。

お箸の木がささくれていて、手を怪我する事もありました。

食事処だから、血が出たら大問題なので、ゆっくり丁寧にお箸を袋に入れてました。

ちなみに「まかない」と
おやつ作られへんから、買って食べやと母に言われ、破格の1日100円と言うお小遣いを貰うようにもなりました。

昭和の時代。

丁度キャンディーズが、普通の女の子に戻り、代わりにピンク・レディーがU.F.O.と異文化交流してた頃です👩‍🚀👩‍🚀

今思うと懐かしいです。

お店は、すったもんだしながらも
軌道に乗りました。
あの頃が1番家族らしかったなぁと思います。


父が出前に行く時はみんなで
「行ってらっしゃい🎶」
と言ってました。

このまま上手くいくんやないかなぁ〜と思っていました。

いましたが···。


続)