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私には、幼い頃の記憶が断片的な物しかないです。
知っているのは、母から聞かされた事だけ。
母は
「あんたはお腹にいる時から早く出てこようとして(切迫流産で)、お母ちゃん真夏に絶対安静やってんで。お風呂も入られへんかったやで」とか。
「産まれたら、病気ばっかり。お父ちゃんは子育て任せっきりやったから、私1人があんたを病院に連れていったんや」とか。
「生まれて半年で『腸重積(腸管の動きが悪くなり、腸管が重なってしまう病気)を発症してます。このままなら腸が壊死して死にます』と先生に言われてんで!」
注)下図は「腸重積」の図解です。
けど、最初に行ったS病院では見つけてくれんかったから、W病院まで歩いて診察受けに行ったんやで」とか。
「お母ちゃん働かなあかんのに、あんたが死にかけるから、寝る暇もなく点滴とか見てたんやで。赤ちゃんやったから、血管が細くて、W先生が右足の内側の血管を、メスで切って 点滴の針(管?)を入れて縫いはったんやで。あんたは火がついた様に泣いて暴れるし、大変やったんやで」とか。
と、ことある事に言われながら育ちました。
そして母は
「あんたがなぁ 病気になった時 お父ちゃんがどう言ったかわかるか?『また病気か😓金かかるなぁ。金喰いよるなぁ。足ひっぱりよる』って言うてんで!酷いやろ!」
とも言われて育たちました。
私の最初の記憶は、母のこの言葉でした。
確かに大変な想いをさせたから、その都度
「ごめんなさい」
と言ってましたが。
人生最初の記憶がこれなのは、どうなんでしょうか?
私は成人しても尚
「私は小さい頃からお母ちゃんに迷惑かけてるから、償わなあかん」と思っていました。
ぶっちゃけこの想いが、人生最初に自覚した想いでした。
一方、普通の人達が持つ
幼なじみとの遊びとか
家族旅行やイベントとか
友達との遊びとか
幼稚園や小学校のクラスメートの事とかの思い出は、殆どありません。
母に聞かされて
「嗚呼、私ご近所の子と遊んでたんや」
「嗚呼、親類の所にも行ったんや。男の従兄弟いたんや。遊んでたんや」
「てか親類いたんや」
と、他人事のように思い出したものでした。
母は「自分を認めてもらいたい欲求」の強い人でした。
そのためスーパーマーケットのレジで並んだ 見ず知らずの人にも
私に話すように
「私ものすごく苦労してるんです。この子(と私を指さす)が病気ばっかりするから、何回も病院に走ったんですよ。私自転車乗れないし、タクシーは高いから、徒歩ですねん。何回も入院して、覚悟しといて下さいとか言われた事もあるんですよ。けどいい先生のおかげで助かったんですけど。病気の時に甘やかし過ぎたから、この子はわがままになったんです。それに比べて弟は、賢くて可愛いんです」
と私が今も、そらで言えるほど
何度も
何十回も
何百回も
マシンガントークで話すような人でした。
自分はか頑張った‼️
こんなに頑張った‼️
だから認めて‼️
お願い 褒めて‼️
と言いたかったのかな···と今の私は振り返ってそう感じます。
また···
母も母(私の母方の祖母)に、育児放棄や、暴言や、火箸で叩くなどの体罰を受けて育ったので
「母親ってそんなにええもんなん?お母ちゃんには分からへんわ」
と中学の頃、面と向かって言われた事がありました。
その時はそうなんや···と聞き流してましたけど、数年後
「母も母親の愛を知らずに育ったんだ。うちの家には、虐待の連鎖があるんだ」
と気が付きました。
今更言っても 何も変わらないかもですが。
このままにしておきたくない。
12歳にする決断にいたるまで、何があったのか。
私の満たされない心の真ん中に、何が隠れているのか向き合いたい。
と想い、少しづつ振り返り、昇華させたくて、この闘病記を書きたいと思いました。
内容が自分の心の傷にもつながっているので、順調に書き進めるのは難しいと思います。
それでも書きたい気持ちがあります。
暗い話なので、苦手な方はここからでも引き返して下さい。
どうかよろしくお願いしますm(*_ _)m