S41年は...

 

つげ義春の旅年譜は1966(昭41)年から始まる。

25年間のうち前半の十年間は訪れた場所も多く、よく動き回り一度の日程も長かった、と回顧され、また友人との車旅行も作品のアイディアになっているのは疑う余地がない。

しかし、”蒸発旅日記”はリアリティそのものなので漫画作品にされなかったのだろうと私は思う。

原案、原作に対し、殆どの映画がそうであるように映像化はアレンジして出来上がる。従って映画は映画で、勿論原体験とは違うのだが、”蒸発旅日記”に引き込まれてしまうのは原作者が 「いま思うと軽薄な真似をしたものだと恥じ入るばかりだ」とするリアリティゆえか。。

 

「それはS43年の初秋だった。行先は九州。住みつくつもりで九州を選んだのは、そこに私の結婚相手の女性がいたからだった。といっても私はその女性と一面識もなかった」 

..そんな文面で始まる”蒸発旅日記”に引き込まれてしまった。

↑アバンチュールの始まり、つげ義春が自身よそ者と意識しながら珈琲を飲んだであろう店

つげ作品オリジナルと表現の違いがあっても、映像の ”つげワールド”にも浸りたいと思うのは私だけではないだろう。

自分にとって”蒸発旅日記”は、まさに脳内に再現されるアバンチュールであり、そんな”つげワールド”に自分の感性がにシンクロすると、あたかも自分の記憶も実はあいまいなもので、まるで過去の事実が夢だったのではないかと一度疑う事になるかも知れない。

だが、作品を知らずに旅年譜だけ読むと理解できないだろうと思うのは旅年譜には次の通りサラッと書かれている;

 

「九月<九州>: 九州へ   蒸発するつもりで出発し決意が鈍り三重松坂に一泊。九州では小倉、湯布院、湯平、杖立温泉を泊まり歩く。 帰途、名古屋で一泊。静岡県の清水市でも泊まった覚えがあるが、思い出せない。」

 

作者が一週間待たされる間、小倉から杖立温泉、湯布院を経由し”白雲荘”に泊まったとのこと。なんとも郷愁さそうフォトではないか。この写真を見て、私は群馬の老神温泉を思い出したが、坂道にも電柱にも何とも言えぬテイストを感じてしまう。

そう、興奮も感動も忘れさせない”蒸発旅日記”だが、物語の最後に述べられたのは; 

― 「軽薄な真似をしたものだと」 としながらも続けて 「私の蒸発はまだ終わってはいないような気もしている。-(中略)-私は何処かからかやって来て、今も蒸発を続行しているのかもしれない、とフト思うことがあるからだ。」

 

独特の文章は、「李さん一家」に似た論理的手法で、きっと言霊を緻密に計算されたのかも知れない。

だが私には、なにげない一文から作者の心の情景もニュアンスも正確に、これ以上ない完璧な文章として私の頭の中に展開する。

 

あたかも映画を超えた現実のように

 

そしてまた、自分の夢か?実体験か?とさえ思わせる..。