昨年、US氏のオーガナイズで始まった60年代ストックカーの再現 ”REDLINE 7000”、

=タミヤA型シャーシ+電関モーター搭載のストックカーも既に11台リリース。

Vol.10&11のFinal Ver.で暫らくは手が離れそうだったが、YS氏より追加オーダー。
何度もよみがえる”宇宙戦艦Y”や、売れない店の”閉店セール”じゃないが、ブログご照覧の方々が食傷気味にならない事を願いつつ、Vol.12&13制作着手。

 

先ずはモーターOH。未使用・未走行でも、いかんせん55年前の当時もの。サビを落とし腐食部を磨き、長すぎるシャフトのカット、ケースはメタル形状の加工やインチ穴にSO-M2ナット付加等々..

赤錆ではないがローター表面は腐食が見られた

 ↑ 左はカツミ、右はケムトロン。 コア表面とコミュテータを研磨して..      

 ↓ハンブロールでコーティングして再組立て。

 

<フロントサス> Vol.12

センターロールタイプの’68年全日本選手権を席巻したムサシノ式船津型、今までと同様の型式だがトーションバーのピポッドを改良し精度向上。

 

<フロントサス> Vol.13

Vol.12まで続けたトーションバーを廃した。

ロール時の踏んばりより路面への追従性、安定性重視のフロントアクスルを上下動させるタイプ。’69年、70年全日本を制したTEAM CHIKYUのシャーシに範をとったものだが、タミヤA型元々のSアームピポッドを使うと見た目もまとまり良く、我ながら良いアイディアだと思う。

  ↓ Vol.2以降のスウィングアーム同様、ピンが左側から入るように加工

’69年当時、チームCHIKYUのシャーシはテールリフトにバタフライの組合せ、カマタ勢や白金の連中も似たような構成のシャーシだったが、’70年このフロントアクスルまでドロップさせるシャーシとなった。

 

当時、 私も真似てFクラスはフロントをドロップさせるようにした。支点も比較的前方でストロークも短いものだが、作用点距離が短いので左右にガタつく事は無い。

Sアーム必須だった白金のウェブコース(上下だけでなく若干左Rにもヒネれてる)で効果的だっただけでなく平坦なコーナーでもスロットからヌケずらくなったように感じた。

下の二枚の写真、Fタイヤ位置の違いがお分かりになるだろうか。

 

さて、思い出すのが、このロータス・タービンを以って臨んだ最後のオール関東戦。

当時のカー雑誌”オートテクニック”がスポンサーとなり、場所は通い慣れた白金レースウェイでチームCHIKYUリーダー、知久君ご提供のトロフィーが掛かっていた。

前年の全日本チャンプ古澤君が出なかった事もあり、気合を入れて参加した私は運よくGTクラスとストックカーでトロフィー頂いた。

だが、両クラスともベテランの馬木さんには全く歯が立たなかった。スタートから離され、一度もホールショットを取ることもなかった。

ところがフォーミュラだけは違った。スタート後の直線からバンクを駆け下り、ヘアピンにかかるまでに馬木さんだけでなく全車をかなり引き離せていたのだ。

唯、かなり無理したハイチューンモーターを使ったせいで、コントロールしきれず最初のヒートはコースアウトしてしまった。

その後、当日の高電圧と油ぎったコースコンディションにも慣れ、さぁ取り返すぞ..と思い慎重にヒートを重ねたが、4ヒート目には既にモーターがボケ始め、以降はテールエンドで周回するハメになり、結果は4位。フォーミュラでお立台に上がれなかった無念と反省は、今でも絶縁対策やマイQCの原点になっている。


脱線話乍ら、当時のレースで活躍されていた馬木さんはスガモをホームコースとされていた。私より半廻り年長の馬木氏は緻密な真面目さが印象的で、レースの数週間前から一人で白金に練習に来ておられ、敵わないなと思う事ばかりだった。

だがフォーミュラの一件からオール関東の後では、いつか彼に勝つことも夢ではないと思うようになっていた。

スガモ勢は人数も多く、はたから見てもコミュニケーション良く、後日、別のレースで”オール関東じゃ勝手なコトしやがって”などとスガモ勢の鈴木兄弟にジョークを言われ馬木さんは苦笑いしていた。

しかし、サーキットが閉鎖されたスガモの方々とも疎遠となり勝負を挑むチャンスもないまま。

彼も、残念ながら20年前に50代でお亡くなりになり、もう会うことは無い。

それでも、このトシになっても細々とサーキット通いをする自分のブログを、もし何か懐かしく思う方がおられれば幸いだ。