今日、”モリのい 場所” を訪ねた。

数年前、山崎努と樹木希林の出演した映画を観て気になっていたが、豊島区千早にある、画家 熊谷守一の住まい跡で、現在は区立の美術館となっている。

入場料は1名500円。画家自身のエッセイ「ヘタも絵のうち」を額面通りにしか理解できないなら、きっとコスパに見合わないと思われるだろうからお勧めしない。

だが、いつもスマホやPCに触れない事がないような、そんなコンビニエンスな日々から抜け出せないけど偶には脱出してみるのも悪くないと思うことはないだろうか?或いは、ついついデイリーに呑んじゃうけど偶には禁酒だってできるんだぞっ!などと、例えばそんな意識あるご仁なら、ここで一日のわずかな時間を過ごすのもいいだろう。

 

展示室手前の階段脇で。勿論、展示室内は撮影禁止である。

 

熊谷守一師は戦前の生まれ。現在の東京芸大を首席で卒業。同期に青木繁や和田三造がいたそうだが画風は全く異なるし、その作品は彼の人生を色濃く反映している。

思うに、当時のアバンギャルド(抽象、前衛)を意識していたのではないだろうが、私が感じるのは、独特の観察眼と自らの心象をカタチにしたい、画にしたい、と言う強い思いだ。

 

小舟を漕ぐアイヌの老人に神をイメージし、また文部省に出展拒否された『轢死』(1908年)は自身が目撃した列車事故現場のスケッチが元になっている。

この作品は現在岐阜の美術館にあるそうで私は見ていないが、暗い絵の中でようやく横たわる女性らしきものが見て取れる、との感想を聞いた。

勝手な想像だが、翌年の第三回文展で褒状を受けた『蝋燭』の暗いキャンバスから浮び上ってくる像は、彼の心に残った『轢死』の世界観から得た表現ではないだろうか、と思ってしまう。

一時、故郷に帰っていた師はかってのクラスメート斎藤豊作の援助により1915年再上京し以降、毎年二科展に出品するようになり、住まいも東中野、西池袋と移り住む。

そして 1932年に千早町に引越し、その後45年間 彼が死ぬまで過ごした、と言う訳だ。

1956年は私の生年に、師は軽い脳卒中を起こし以降ほとんど家にいるようになったそうで、庭に出て昆虫や草木を観察し、家の中のアトリエに入っては夜まで油絵を描き続けたと言うから、まさに山崎努が演じた映画🎥”モリのいる場所”のシーン通りだったのだろう。

館内ではいくつかの絵画のハガキが一枚100円で売られている。

 そう言えば、地面に伏してアリを観察している🎥シーンがあった。

 

自分は人にオモチャ作りの情熱を持上げられる事があるが、何でもスイスイ順調器用にできている訳ではない。道楽だと言われればそれまでだが、楽なことばかりではなくとも、やりたいのだ。

我家の工作室で夜遅くまでメカ制作やエナメルペイントに没頭していると、自らの創作意欲を満たしたくてやっているのだろうと分析するのだが、師の心情も同じだったのではと思ったからこそ、いつかは”モリのいた場所” を訪ねてみたかったのだ。

(熊谷守一師が亡くなられたのは1977年8月1日(97歳)だった)

 

私が麻布の親元から離れ、千早町に住んでいたのは1981年末~84年。

移った当初は未だ近くに地下鉄が通ってなく最寄駅は”東長崎”だったが、1983年に千早町の最寄駅、地下鉄の要町と千川の両駅開業。

1985年、師が暮らした生前の跡地に”熊谷守一美術館”ができ、地下鉄のおかげで誰でも駅徒歩10分で行けるし、さらに現在では区立の美術館となって運営されている。

 

きっと、この先も ”モリのいた場所” は無くならないだろう。