ここ最近、カヴァレリアルスティカーナの復活祭の合唱と、2012全日本吹奏楽コンクールの課題曲であったさくらのうたを、鬼リピしています。笑

 

コロナのおかげで(おかげ、というと不謹慎ですが)、人とも会わず、友人たちが他の友だちと仲良くしているところも見ず、また周りから見られることばかりを意識することもなく、悠々と過ごしていられました。ここまで落ち着いて暮らしていられたのは、外出を控える風潮があったから、というのは、まんざらでもないことでもあります。

ですが今度、大学の友人と会います。図書館で借りていた本を返しに行くので、そこで会おうというのです。

 

先の公務員試験で、友人は落ちました。

私は無事に合格することが出来ましたが、彼のメッセージには試験前にあった「子供っぽい」情熱はなく、ふつうの大人としての平熱になっていました。

それはやるべきことを終え、社会人としての展望も見えてきたところで、かつての少年らしさを卒業した証拠でしょうか。

けれど、私が愛していたのは、そんな子供っぽい私たちの関係と時間だったのです。

 

平熱になった彼からのラインには、なんの魅力も感じません。自分に対しての興味がないことを、知らしめられているような気がするためでしょうか。それも正しい。

実際、彼も私に対しては、ストレートで合格したという事実を踏まえて、かつての情熱も少しずつさめているのでしょう。

けれど、やはり、私はかつての若々しくておろかなやりとりにこそ、私たちの時間の価値の全てがあったのではないか、そう思われて仕方がないのです。

大学生というのに、小学生のような付き合い方。

私たちの会話の応酬が、まるで漫才のようだと言われたこともありました。

河川敷で喧嘩したり、授業をサボって好きな子との作戦について練り合わせたり、お互いの作品について語るために川の周りを何周もして、また授業をサボってしまったり。

旅行にも行きました。リゾートバイトで、地獄のような時間を共有したりしました。それらすべての思い出が、やはり「子供っぽさ」あってのことであったと、強く思われてきて仕方がない。

そして彼は、高校時代よりも楽しかったと、ほとんど二人きりですごしたこの四年間を振り返っていたのですから。

 

あの、かつての「起きえないことが起きていた時間」に、私は恋していたのです。

彼はどうでしょうか? 彼は前に進む人だから、私のように思い出す度に体が分断されるような憧憬をもって昔に焦がれることもないでしょう。

 

私は彼に会いたいのだろうか。

会いたくないです。終わりには、必ず寂しさがある気がするから。

 

しかし、この「会ったら寂しくなりそうで嫌だ」の感情と、そこから派生する分岐――「だから寂しさを相手に教える」「気にしていないふりをして、陽気に振る舞うことを演出する」の選択肢――これこそが境界性パーソナリティ障害の症状ではないかと、思うのです。

大学一年生のころの私は、心に拭えぬ永久寂寥のようなものを抱いていました。でもいまは社会的身分も約束され、人に会わない穏やかな日々を過ごして、大人として心が落ち着いてきていますから、そう思えるのかも知れません。

大きく括れば、「相手に粘着質に執着するあらゆること」、それがボーダーではないかと。

なので、それも病気としてまとめることで、執着のないまっさらな己として彼に会うということ。

それがこの胸の寂しさを、根本から抜き取る最良の道、なのではなかろうか。

 

そう思うと、さまざまな情景が立ち返ってきました。

かつての子供らしい日々、それこそボーダーの情熱があったからこそ、行えたものではないか。ボーダーを捨てるというのは、陶酔の日々とも永遠に別れるということだろう。

ボーダーがなければ、彼に対して無関心になってしまうのではないか。

心の中心核となる友人たちは、どこへ行くの? ボーダーがなければ繋ぎとめられないんじゃないのか?

反面、このような声も聞えます。

ボーダーが治まってきたといって、いまもこうして悩んでいるなら、そのときには治っていなかったというわけだ。今回の決意だって失敗に終わる。

ありのままの自分を受け入れること。

 

しかし、ボーダーは、真っ向から向かっていかなければ治りません。

満たされたように思って、治ったと一口に言うのは、むしろボーダーの世界から離れていないことを示します。ボーダーとして満たされたのだ、ということ。平穏の時は永遠に過ぎぬわけがないのです。

ありのままの自分とは、苦しみ続ける自分であること。受け入れてしまえば、苦しみを生み出す周回から逃れられないのです。くるしみを味わえば、かつてあった自分に対して・相手に対しての寛容さも、忘れてしまいます。苦し紛れにありのままの自分を受け止めてはならない。

それでは、どうするのか。

前に書いたように、相手に対するねちっこい執着のすべてを病気とみなし、冷静に否定すること。

一人になってしまうとか、仲が良くならないとか、そういうことはもう目をつむります。

見えぬもの・確証のもてぬものに脅かされず、幻影から脱することを目指すのです。

 

――相手の行動が分からなくとも、自分の行動なら分かります。

当たり前として、相手を傷つけてはいけない。自分勝手な行動はしてはならない。

そこにボーダーの影響など、本当なら及ぶはずがないのです。

 

 

 

さくらのうたの話になりますが、終盤の盛り上がりの部分は、「今年も、さくらが咲いた」と、言葉がきこえてくるのです。

悲痛でもの悲しい旋律で語られていたのはさくらに纏わる過去の話、あの盛り上がりは、いまの姿と心。

 

またいつか、さくらが咲くときが来るのかも知れません。心が乱されることもあるでしょう。

それでも、「ああ、さくらがさいてくれたぞ」と思える心。

それを大切にして生きていたいものです。

 

 

それではまた。