お久しぶりです。篠崎です。

公務員を辞めて、いまはライターとして賃金を稼ぐ身になりましたが、どうにも生計が立てられず。。

今後は兼バイトをしながら、夢と現実に向かって生きていこうと考えています。

 

さきほど、このあらぶる日誌の中で何度もテーマにしてきた「大学時代の友人」と、半喧嘩になってしまいました。

彼は中学校で教員をしていますが、近頃は帰ってきても風呂に入る気力がないのだと言います。でも、辞めたい気持ちはあるけれど、辞めたところで地獄は変わらないのだと言います。それなら続けていたっていいじゃないか。

 

私は言います。

「でも、今のお前は安定した地獄への道を下っていることは変えようもない事実だが、環境を変えた先にあるのが地獄ではない可能性も否定できないだろう。」

彼は一点張りで意見を曲げません。私と同じように。

「環境を変えたところで地獄だろ?」

私は不思議なほど、電話で聞こえる彼の声に、感心をもたらす尊敬のゆらめきを感じられませんでした。大学時代には、彼の言葉の一つ一つが私の心にゆらめきを与えていたのは確かなのに、今の彼の声には、それがなかった。

あるいは私が、彼から尊敬を感じ取る力を失ったのかもしれません。

 

これが縁の切れ目だと、私は確信していました。

私たちはお互いの声が聞き取れなくなってしまいました。お互いが求めるものをお互いに受け渡そうと会話しているのに、どちらの手に渡されたものも、どちらともにとって意味がないものだったのです。

もう、これ以上友達としては名乗れない。

なぜなら友達というのは、相手の声が自分の耳に届くなんてことは、よく聞こえるように耳を澄ませるなんてことは、当たり前なことだからです。

それぐらい、私の胸には彼の言葉は残らず、消化の良い食べ物よりもすんなりと、体の外に落ちていきました。

 

 

彼の言った「環境を変えたところで地獄だろ」

果たしてそれはどうでしょうか。

 

何もしていないのに、何を語れるというのでしょう?

 

話が少し脇道に逸れますが、自己を形成するものには2つあると私は考えています。それはざっくりと分けると、「自意識」と「環境」です。

自分の思考や行動の方向性を司る「自意識」と、私達に常に外的・内的な影響を及ぼしている「環境」の2つが、1人の自己を形成します。

つまり、ある特定の環境による影響を知らない人に、環境による影響の持つ可能性を語れるのか?

 

「俺も俗になったけど、お前はさらに早いスピードで俗になってるよ。」

彼は俗ではないことに拘ります。それが俗ではない己の作品作り、絵描きの根底にある力なのだと、確信しているのでしょうか。

おそらく彼は「環境を知ってしまった後では、すでに影響を受けているのだから、もう取り返しがつかないのだ」と考えているのでしょうが、

その「もう取り返しがつかない」ことを、どうして環境に影響される前に知ることができるでしょう。

 

”俗なものを知って、俗に堕落していった絵描きをたくさん知っているから、俗を知ることはいいことではない。”

 

でもそれは、どうして彼が俗的なものに堕落していったかを説明できてはいません。

私が思うに、作品作りよりも俗的なものの方が彼の中で重要な価値を占めてしまったその瞬間、彼は俗的なものに蝕まれ、もう二度ともとに戻ることはできないのではないか。

致命的です。

俗的なものに引き込まれる心であれば、どれだけ神秘的な才能を持っていたとしても、それを手放して、ドブに捨ててしまうのです。

魔が差してしまう瞬間です。

 

だが難しいのは、俗なものを知らなければ、誰の心をも突き刺す「高尚なもの」は、作り難いという事実です。

極めてシンプルで、だからこそどこまでも複雑な「高尚さ」は、誰の心をも動かす力を持つものです。

自分の知識だけではなく、誰にも通ずるロジック(ある意味では俗的なもの)に裏付けされた個性こそ、誰もが理解できるし、尊ばれるものではないのでしょうか。

要するに才能の差別化というのは、ロジックか個性かどちらに比重を置いているかが、その最もたる根幹にあるのだと思います。

 

私は書き続けます。

いつかそれがかつてよりも俗になったと知ったときにも、「それでも書かないと生きていけないから。」と思うのなら、書いてゆこうと思います。

 

 

この記事を書いているうちに、1時間あまりが過ぎてしまいました。

晩ごはんを作らねば。

 

それではまた。