台湾留学時代に出会った友人であるみなと君から台湾のお菓子をいただきました。台湾でも大変お世話になった優しい彼。ありがとうね。
また雑談中に「日本でディープな日本文化に触れたい」との要望を受け「南宮大社の例大祭で一緒に神輿をつる(担ぐ)」ことを提案しました。
いつぶりかな。大学で山田君に会いました。卒業論文執筆に関する対話を行いました。学部の4年間を締めくくる論文として有終の美を飾って欲しいですね。完成&読むのが楽しみだな
明日は「Business Communication」という講義。そこで「おすすめの本」を紹介するという課題が出されました。てなことで、私は市川沙央(2023)『ハンチバック』を推薦しようと思います。
そうそう。山田君と雑談していると、中国語演習で共に学んだ学生さんが私に気がついて話し掛けてくれました。「ブログ読んでいます」と彼女。こりゃあ、望外の喜びですな…。
【市川沙央(2023)『ハンチバック』】
論文や専門書の精読で、小説を手に取ることに時間的な制約がある私は、信頼性と話題性の観点から「芥川賞」受賞作品を読むことにしている。
大学3年生の春から専門演習(ゼミ)が始まり、大量の書籍と対峙するようになった私は、「本を読むこと」への心理的な障害が徐々に薄れていった。
確かに、図鑑や歴史漫画が好きな少年であったが、好んで読書をするタイプではなかった。初めて最後の頁まで読み終えたのは、島田洋七(1987)『がばいばあちゃん』であった。
そして、初めて手に取った芥川賞作品は、これまた話題性に富んだ又吉直樹(2015)『火花』であった。発表、そして受賞当時は「ああ、お笑い芸人の人が書いた本が芥川賞受賞したんや。」としか思っておらず、読むことは無かった。その後、発表からかれこれ7、8年が経過した頃にようやく手にした。
以後、年に2回の受賞作品発表の後、受賞作品を岐阜駅の本屋さんにて、電車待ちの間に購入するようになった。尤も、最近は本屋さんの方が先に寝てしまうがね。
私にとって小説を読むこととは「論理性」や「ファクト」、「意義」などという、ある種の学術的息苦しさからの解放であり、また逃避である。そして、文学的な「表現」や「美」という底なし沼に頭の先から落っこちてしまって(いや、でもまだ髪の毛があるから、先に着くのは髪先かもしれない)、でも何故か心地よくて抜け出そうともせず、気が付くとまあ、逆上せている。まあ、ご承知の通り、私が小説を読む場所は大抵の場合、お風呂場であり、また浴槽であるから。
私の社会的あるいは文化的資本という養分を渇望せんとする、一方で傲慢な、一方で生理的な欲求が満たされていく。
そして『火花』に続いて読んだのが、市川沙央(2023)『ハンチバック』であった。余談であるが、その次は九段理江(2024)『東京都同情塔』、朝比奈秋(2024)『サンショウウオの四十九日』と続いた。個性的なんて言葉では表現のしようがないほどの特異性がそれぞれにあった。なお、石原慎太郎(1955)『太陽の季節』、松永K三蔵(2024)『バリ山行』、鈴木結生(2025)『ゲーテはすべてを言った』は積読もしくは読んでいる途中であり、また温室に旅行しようと思う。
市川沙央(2023)『ハンチバック』には、「5つの健常性」なる鍵概念がある。そして、その鍵は怒りから精錬されていて、触ろうものなら火傷してしまう。いや、火傷では済まないだろう。
その「5つの健常性」とは①目が見えること、②本が持てること、③ページがめくれること、④読書姿勢が保てること、⑤書店へ自由に買いにいけることである。そして、それは主人公が憎んでいることであり、また私は傲慢になった。この「読書」の特権性に気が付いたとき、市川沙央(2023)『ハンチバック』の虜になり、また逆上せた。