お待たせしました!
名古屋城バーチャルツアー、最後にはおすすめのグルメスポットのご紹介もあります。
ごゆっくりお愉しみください!!
「尾張名古屋は城でもつ」
江戸時代から続く伊勢音頭の歌詞。名古屋城の威容を示す名台詞として今でも語り継がれます。名古屋城といえば大きな天守の頂に輝く1対の金鯱、というイメージを持たれる方が多いと思います。
かつては天守によじ登り、シャチホコの鱗を外して持ち去るといった盗難事件もあったりと話題に事欠かない金鯱。
が、実は名古屋城の価値はそこだけではありません。
これを読めば名古屋城が120%楽しめる、そんな記事をご提供いたしましょう!
名古屋城の歴史。
名古屋城は1609年(慶長14年)に徳川家康によって築城されて以来、尾張徳川家の居城として明治期まで続きます。明治に入り城を破却、すなわち取り壊す話もあったそうですが山縣有朋などの計らいで残されることに。1930年(昭和5年)には国から名古屋市に下賜され、その後に第一号の国宝(旧国宝)に指定されるものの、太平洋戦争における米軍機の焼夷弾によって御天守・本丸もろとも全焼。そこから14年後の1959年に市民の寄付によって天守等が再建されます。鉄筋コンクリートによる建造とした理由は「二度と焼かれてたまるか!」という強い意思の顕れであったとされます。
ただし国の特別史跡のため現状変更を認めない国の方針のため長らく本丸は再建されませんでしたが、名古屋市はガラス乾板写真や設計図の保存から精緻な再建が可能であることを説明、建設許可がおりたため本丸御殿の再建事業がスタート、09年から16年まで、足掛け7年に亘る工事のすえに本丸御殿が木造により再建されたのです。
この名古屋城本丸御殿は二条城二之丸御殿と並び「二大御殿建築」とされます。が、日本の建築界・城郭研究の権威である広島大学名誉教授の三浦正幸さんによると、二条城を凌ぐ「日本一の格式」ある城であると評されています。
なお、本稿におきましては、名古屋城への歴史的価値および尾張徳川家への敬意を最大限お示しすべく、可能な限り明治期以降の呼称を使用せず、江戸期の呼称で表記をいたします。なお、その際には現在の一般的な呼称は注釈にてお示しをいたします。
「慶長の御殿」。
本丸御殿の玄関部分です。
屋根は厚さ3mmほどに薄く加工した木を何層にも重なてつくる格式高い「こけら葺き」。実は享保期に「こけら葺きは贅沢!」と幕府に因縁をつけられ瓦葺きにさせられたのだそう。そのため消失前は瓦だったということですが、今般、精緻な復元ということで、慶長期の建築当初のこけら葺きが300年ぶりに蘇ったということだそうです。
この名古屋城本丸御殿は大きく分けて「慶長の御殿」とその後の増築である「寛永の御殿」に分けられます。見学者はまず慶長の御殿の部分から観覧することになります。
広間(※1)の一之間です。
天井下に横に長い白壁が見えますが、この壁のことを「蟻壁」といいます。加えて天井には小組がなされた格天井。「蟻壁付小組格天井」は名古屋城御天守の5層目(最上階)にも見られた構造でありました。
名古屋城の格式の高さがいかに際立っているのか、ここだけで既に思い知らされるのです。
(※1)現在では「表書院」と呼称
こちらは釘隠しです。
神社や仏閣に用いられた「六葉の釘隠し」。
慶長期の格式ある御殿の特色を色濃く顕しています。
先の画像の奥の部屋が上段之間です。
前出の三浦先生によると、少人数との対面の際に藩主が座る部屋だったのだそう。
襖絵も花鳥図へと進化しています。
ここの天井は一之間とは異なり、蟻壁がなく折り上げている。
また一段と格が上がるわけであります。
「折上小組格天井」という構造です。
画像正面に見える帳台構には花鳥図が描かれていますね。
御殿を外から見ていますが、右が先ほど見ていただいた広間の上段之間に面する廊下で、正面が対面所であります。対面所をあえて下げてつくった理由は上段之間の明かり取りの意味合いがあったのだと三浦先生は解説しておられます。このつくりのことを雁が飛ぶ姿になぞらえて「雁行型」と呼ぶのだそうです。
ちなみに左の出っ張りは寛永期の増築部になります。
つづいては藩主とその家族のプライベート空間としてつくられた対面所という空間がつづきます。
ここは次之間でありますが、天井が黒漆に塗られた、また更に格式が高くなっているのであります。
「黒漆塗折上小組格天井」であります。
障壁画は風景画となっていますが、この部屋についてはのちほど解説をいたします。
対面所の上段之間です。
天井がもう一段折り上げているのがお分かりいただけるかと思います。
「黒漆塗二重折上小組格天井」という、品格と優美さを兼備する素晴らしい空間がひろがっています。
ちなみに床の絵は京の愛宕山が、帳台構の絵は賀茂競馬(かもくらべうま)、襖絵には上賀茂神社や吉田神社が描かれていて、この部屋には都の賑わいが描かれているのです。
ちなみにこの帳台構の扉は開きません。
さあ、ここまでが「慶長の御殿」と呼ばれるところ。
この先は寛永期、三代将軍徳川家光の上洛に合わせて増築をした「寛永の御殿」です。
「寛永の御殿」。
障壁画は狩野探幽によるもの。探幽といえば京都・大徳寺法堂の雲龍図が知られますが、墨の濃淡で奥行きを出す画法で知られています。
欄間も慶長の御殿でみられる「筬欄間」から絢爛豪華な「彫刻欄間」に昇華しています。
釘隠しにも注目。
「花熨斗型の釘隠し」と呼ばれます。
もう釘隠しのひとつひとつが工芸品の域ですね。
将軍を迎える最高格式の御成御殿(※2)。
寛永期の御殿建築の粋を集めた傑作であります。
天井には絵が描かれており、「黒漆塗二重折上蒔絵付格天井」という様式が用いられています。
名古屋城は「天守」「金鯱」のイメージが先行しますが、こうやってみると実は御殿建築の色彩がきわめて強いことがわかります。徳川の世のもとで、長くつづいた乱世が終わりを迎え、長い平和な時代に入ろうとするなかで建てられた時代背景を感じることができます。
(※2)現在では「上洛殿」と呼称
やさしさに触れる場所。
もうひとつ、この御殿には優しさが詰まった場所があります。
和歌の浦、和歌浦天満宮、紀三井寺に製塩の風景、そして和歌山城下の活況……
先に触れた対面所の次之間にやさしい筆致で描かれているのは和歌山の風景。
時の和歌山城主・浅野幸長の娘である春姫を娶った初代名古屋藩主・徳川義直公の計らいであったと伝わります。
春姫はこの部屋でふるさと和歌山を思い出しつつ、義直公のお優しさを存分に感じたことだったでしょう。
1945年(昭和20年)5月14日の朝、本丸・天守もろとも空襲で消失。
その後、奥に見える御天守は1959年(昭和34年)に、そして手前の本丸御殿は2018年(平成30年)に全面的に再建されました。過去の本丸の威容が蘇った過程には、多くの人たちの名古屋城への思いがありました。いま生きているわれわれは、その思いを胸に、名古屋のまちが誇る素晴らしい文化を次世代にしっかり継承していく責務があります。
なごやグルメも堪能!
名古屋城東門から大津通をまっすぐ南へ、栄の路地裏にある「なごやめし」の名店へ。
昭和24年創業のみそかつ発祥の店(※3)・〈味処 叶〉をオススメします!
週末のお昼は決まって10組以上の行列が絶えない人気店です!!
(※3)当店の先代が考案したとされるが、異説もある
ここのみそかつ丼は甘さが抑えられているぶん、旨味が凝縮されていて、他のみそかつ丼とは大きく異なる味わいです!!
ただしボリューム満点なので、しっかりお腹を空かせて行ってくださいね!
〈味処 叶〉
名古屋市中区栄3-4-110
営業時間:11:00〜14:30/17:00〜20:30
定休日:月曜日・火曜日
※事前に営業カレンダー・公式インスタでご確認を!

















