来年、現在地開店100年を迎える松坂屋名古屋店こと松坂屋・本店。それを記念していくつか記事を起こしまして、松坂屋がいかに凄い百貨店であったのかを紐解きつつ、さらにこの先100年後の未来へと飛翔する松坂屋をご一緒に応援していきたいと思います。
国内随一の超宗派寺院である覚王山日泰寺は、
真舎利(釈迦の遺骨)を納めるために建てられた。
名古屋市千種区のなかでもとりわけ人気の高級住宅地、覚王山。「覚王山」の名は「覚り」の「王」、すなわち釈迦を指したことばで、わが国唯一の佛舎利(釈迦の遺骨の意)を納めた「日泰寺」がこのまちのシンボル。五重塔など「塔」の類のものは多かれど、「卒塔婆」という視点からみたときには実はこの日泰寺以外はどこもぜーーーんぶニセモノ(笑)。高級住宅地なんだけれども、日泰寺参道を中心に多国籍の文化が入り混じり、取っ付きやすさを感じるのは、まさにこの名古屋のまちの"おおらかさ"こそが成せる業なのでしょう。
日泰寺からほど近くに庭園「揚輝荘」があります。え……緑ゆたかな名古屋のまちに庭園なんて珍しくもない、「徳川園」に「白鳥庭園」、そして都市部にも「久屋大通公園フラリエ」(旧:ランの館)もあれば、なんといっても熱田神宮の蓬莱の森…"ア〜〜、宮の熱田の二十五丁橋でエ〜🎵"…なんて名古屋甚句で謳われた伝統ある「理想郷」……
なんて名古屋に少し詳しい方には言われそうですが、名古屋のお国自慢は横に置いて(確かに名古屋は凄い街だと分かってますよ!!!笑)、本日はぜひ「揚輝荘」にお付き合いください。
「揚輝荘」は名古屋が誇る百貨店、松坂屋の法人としての初代社長・伊藤次郎左衞門祐民(いとう じろうざえもん すけたみ)が建てた別荘兼迎賓施設であります。ここを巡ってわかる祐民の軌跡、そして松坂屋の"こころね"を探る旅へと、みなさんをご案内いたしましょう。
15代伊藤次郎左衞門祐民とは?
伊藤家の祖先は分かっているだけで明治から江戸・安土桃山を超えて戦国時代にまで遡ります。尾張を治めた織田信長の小姓というと森蘭丸が有名ですが、もうひとりの「蘭丸」…それが伊藤蘭丸祐広です。その後胤・祐道の代になり慶長16年(1611年)の清洲越(※名古屋城築城に伴う清洲から名古屋への都市移転、すなわち名古屋のまちの誕生)により名古屋城下に引越すも慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣側につき戦死。祐道の子の祐基が茶屋町(現:中区丸の内2丁目、桜通と伏見通の北東サイドにあった旧地名)に「いとう呉服店」として商売を再興します。この祐基が「次郎左衞門」を名乗ったことで伊藤家の当主が歴代襲名するならわしとなります。
本日の主役・伊藤次郎左衞門祐民は伊藤家14代・祐昌の四男として明治11年(1878年)、名古屋市に生を受けます。長男・次男は夭折、将来の当主と目されていた三男は生まれながら身体が弱く、四男の祐民は良い意味でやんちゃな子で、伸び伸び育っていたそうです。
祐民の人生が大きく変わるのが17歳の頃。兄に当たる三男が脚気に罹り急逝、伊藤家15代当主として家業に携わるようになります。
明治43年に名古屋初の百貨店として開業した。
当時の屋号は「いとう呉服店」であった。
(画像提供:松坂屋史料室)
明治42年(1909年)、祐道31歳の時に渋沢栄一を団長とする渡米視察に参加、その際に目にしたデパートメント・ストアに感銘を受け、本拠地・名古屋で初のデパート建設を決意、翌年には「株式会社いとう呉服店」を設立しみずから社長に就任、そして父や古参幹部の反対を押し切って、みずからの身を投げ打つ覚悟をもって栄町(現在の広小路栄交差点南西・栄NOVAが建つ場所)に名古屋をつくった建築家との呼び声高き鈴木禎次の設計による地上3階建の洋館を建設、「行灯より電灯に変わった以上の進歩」ともてはやされ、名古屋市の近代化へのマインドを語る上で革命的できごとと称されるに至りました。
揚輝荘略史。
最大であった頃の揚輝荘。
約1万坪にも及ぶ大邸宅であった。
「揚輝荘」は祐民によって大正7年(1918年)より造営が開始されました。松坂屋に残る資料によると、祐民自身は大正11年ごろよりここに住まうようになり、まさに私的な別荘であったといわれております。
その後、皇族や経済人との交友を深める祐民に相応しい迎賓施設かつ社交場としての機能を高めることで、名古屋のロイヤルファミリーたる伊藤家らしい、威厳と誇りに満ちた施設へと変貌を遂げていきます。
もともと広大な庭園でありましたが、産業都市としてめざましい発展を遂げた名古屋の陰の部分とでも申しましょうか…太平洋戦争では米軍の格好の標的となり大きな被害を受けます。その影響でここもすべてが残ることはなく、庭園や茶室を中心にした「北園」と、邸宅「聴松閣」を中心にした「南園」のふたつに分け、他都市に増して文化振興に熱心な名古屋市により一般公開されています。
これから「北園」と「南園」に分けて見ていきましょう。
北園。
こちらは北園のシンボル的建物「伴華楼」。
さあ、なんて読むでしょうか???
正解は「バンガロウ」、え、、、バンガロー!??
洋館に見せて日本的な市松模様を配した縦長の建造物は煙突なんだそう。オシャレーーー!!!!
この建物は尾張徳川家から移築されたものに、鈴木禎次の設計による増築により、昭和4年(1929年)に竣工したもの。
「乙鳥(つばくろ)や 赤い暖簾の 松坂屋」。
かの夏目漱石が詠んだ句です。屋号は「松坂屋」なのに暖簾は「藤」の外に「井」げた。
「いとう」を顕した店章は、今でも松坂屋の誇り。
京都市の「修学院(しゅがくいん)離宮」を模した池泉回遊式庭園の手法を取り、池のほとりには侘び寂びを今に伝える茶室などもあります。
灯籠の奥に見えるのは「白雲橋」と呼び、こちらもモデルは修学院離宮にある千歳橋なのだそう。
南園・聴松閣。
北園と南園は高級分譲マンション裏の細い連絡通路で結ばれています。
一体として残っていればきっと大きな注目の的であっただろうに…残念です。
南園は邸宅「聴松閣」を中心として残されています。
昭和12年(1937年)に竣工したもので、山荘風のハーフティンバー様式(※木組が外に出ている建築手法)が特徴的な建物です。
これも紅葉の時期には……
紅殻色のファサードと相まって華やかな装いに。
玄関・車寄せスペースです。八角形の電気がまた洒脱さを醸し出します。
ここから入場料が必要です。おとな300円ですが、名古屋市交通局の各種乗車券(一日乗車券・ドニチエコきっぷなど)をお持ちの方は240円に割引になりますので、お使いの方は提示をお忘れなく。
では2階から見ていきましょう。
庭が見通せるこちらの部屋は寝室。東向きの部屋は純和風な佇まい。
こちらは南側に張り出したサンルームです。
ここはもともと食堂として使っていた建物です。今ではカフェとして営業しています。
作り付けの棚の上には「いとう」。
まさに先祖からの屋号を重んずる祐民の魂を体現しているのでしょう。
そして最大のみどころはB1です。
聴松閣のハイライトともいえる地下の広場、ここは舞踏場として使われていました。
仏教に傾倒していた祐民は釈迦誕生2500年にあたる昭和9年(1934年)、シャム(タイ)・ビルマ(ミャンマー)・インドの仏跡を巡拝するため4ヶ月間の旅に出ました。
この建物ができたのはそこから3年後の昭和12年(1937年)で、この旅の記憶こそ聴松閣の意匠に大きく影響を与えているのです。
ガラスにはインド第3の主峰・カッチェンジュンガがエッチングで描かれています。
瞑想室に設けられた石像彫刻。
古来カンボジアの神々。
祐民はビルマ(現:ミャンマー)独立の父、ウ・オッタマとの交流から大正2年(1913年)に自宅でアジア人留学生を受け入れて以降、その規模を拡大していきます。
折も折、世界恐慌や政情不安等から寝食すら困窮する学生が増えてくると見るや、祐民はこの聴松閣含む揚輝荘全体を留学生の寄宿寮とすることを決定、オッタマの故郷であるビルマはもとより、シャム・中国・インドネシア・モンゴルなど最大8ヶ国の留学生が利用したのだそうです。
まとめ。
大正15年(1926年)に松坂屋京都店より勧請された
「豊彦稲荷」。本社は仙洞御所の御所稲荷という。
揚輝荘は、当時の名古屋になかった国際級の迎賓施設の整備にとどまらず、暗い時代、困窮した留学生たちに希望を与えた施設でありました。
戦後、多くの建物は老朽化やマンション開発などで失われ、現存する敷地面積も1/3の規模となってしまいましたが、平成19年(2007年)、まさに中日ドラゴンズが53年ぶり2度目の日本一に輝き、このまちがひときわ幸せであった年でありますけれども、これまで所有者であった伊藤家から名古屋市に土地建物が寄贈されたことで再整備が進み、一般公開のほか市民参加のイベントも多く催されています。
かつての揚輝荘全景。手前の建物が「伴華楼」で
奥に「聴松閣」が。一体であった園が偲ばれる。
私邸から迎賓施設、留学生の寄宿寮と役割を変えつつ、祐民の没後は荒廃した時期もあったものの、今では文化を伝え、地域コミュニティを深める場として……。時代に即した務めを果たさんとする揚輝荘に足を踏み入れると、時代の先を捉え行動しつづけた祐民の息吹をなんだか凄く身近に感じることができます。名古屋に訪れた際は、ぜひとも日々のお疲れを癒しに、揚輝荘にお運びいただきたいと切に願うところでございます。
▶︎次回の記事は7/3(水)に公開します。
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