平成7年1月17日。
午前5時46分…………………

現在のサンキタ広場。左手には解体前の阪急会館。

三宮の都市機能は完膚なきまでに打ちのめされた。

(出典:神戸市)


淡路島北部を震源とする大地震は瞬く間に神戸を襲います。明るくなるにつれて被害が明らかになっていきます。神戸の中心部、三宮は多くの建物が全半壊、鉄道などの公共輸送機関は寸断、電気ガス水道などのインフラも麻痺状態となります。神戸市自慢の海上都市「ポートアイランド」は液状化現象で道路の通行すらままならず、ケミカルシューズの産地である長田区は木造家屋に火が燃え伝わって大火災となっていました。

復興優先で成長投資が止まった神戸。

この震災は多くの人の生命、そして幸せを奪いました。さらには神戸のまちの勢いさえも過去のものへと変えました。
財政的に潤沢であった神戸市も復興に多額の資金を投入した結果、起債制限比率(財源のうち公債費に充てられる割合)は21.4%にまで達し、震災の特例さえなければ財政再建団体クラスの数値にまで転落します(現状の神戸市の実質公債費比率は4.4%で名古屋市・福岡市・横浜市などの政令市よりも良好)。震災によって神戸市の成長投資は大きく抑制された結果、あらゆる変化への対応が遅れ、他の都市の台頭を許す結果となったのです。

ほんとうならば、この時期こそ、神戸は変化すべきだったのです。

90年代を過ぎると、わが国の基幹産業であった鉄鋼・造船業が韓国・中国などに転移します。まさに神戸は川崎重工業や神戸製鋼所が本社を置き、三菱重工業の巨大な工場があるなど、大港湾を活用した重厚長大産業の集積地であったため、産業構造の変化は神戸経済にとって決して少なくない影響を受けます。代わって日本の基幹産業となったのが自動車。港湾の輸出額トップは「天然の良港」と称賛された神戸港から、港湾維持のために定期的に浚渫が必要で、お世辞にも良港とはいえない名古屋港へと移ります。その後の名古屋の快進撃は、中日ドラゴンズの黄金期とも重なり、各所から注目されるのですが、本題からは逸れるのでこれ以上は書きません。

そして、この時期は貨物船の大型化が進んだ時期でもありました。神戸港は長らくアジア各地と航路が繋がっていて、「アジアのハブ港」たる地位を確保してきました。昭和56年(1981年)にまちびらきを果たしたポートアイランド(中央区)西側には当時日本最大のコンテナターミナルが設けられ、神戸港の港勢を広く世界に知らしめてきましたが、この貨物船の大型化にはついていくことができなかった……すなわち、水深であります。最新の貨物船にとって、もはや神戸港は水深が浅すぎて入港すらかなわなかったのです。
加えて時の為替は大幅な円高傾向に加えてアジア各地の物価安の流れもあって、神戸港入港のコストが高止まりしたのも不幸でした。
神戸港の管理者である神戸市が港湾整備を後回しにせざるを得ないなかで、とりわけ日本海側の各都市が港の整備を進め、独自に釜山(韓国)やシンガポールなどとの航路を確保したことで国内貨物も海外に逸走、もろくも神戸港は「アジアのハブ港」の地位から陥落するのです。(1980年世界4位→2021年世界73位)

わたしたちの神戸は、栄光の時代から完全に逆回りをはじめてしまったのです。

奮闘…しかし時代に抗えない神戸。

そんな中でも神戸市は必死に時代の流れに抗いつづけます。多くの犠牲者の葬儀すら済んでいない状況であった震災2ヶ月後、震災前から計画されてきた「神戸空港計画」を予定通り推進すると笹山幸俊(かずとし)市長が表明、反対派市民の大きな反発に遭いながらも矢田立郎(たつお)空港整備本部長(のちの助役・市長)などとともに空港建設を推進、矢田さんが市長になったあとの平成18年(2006年)、神戸空港は晴れて開港することになります。


新たにに整備された神戸国際コンテナターミナル。

ここを基点に震災前の貨物取扱高にまで回復させた。

(出典:商船三井)


空港整備に合わせて対岸にあたるポーアイ2期には「重厚長大」に代わる神戸のあらたな基幹産業の構築を目指して「神戸医療産業都市」構想を発表します。加えて世界的にプレゼンスが落ちた神戸港の港勢回復を企図して、水深16m、岸壁延長2200m、ターミナル面積88haの当時日本最大のコンテナバースを新たに整備し、移転させます。ただ、「神戸衰退期」の時代に逆行するこれらのプロジェクトは、何をやっても評価され、一定の成果を残せた頃とは違い、それぞれに大きな課題を突きつけられているのが現状であります。


94年売上1300億円あったそごうを引き継いだ阪急。

今期の「神戸阪急」の売上は500億円足らずか。


都市としての求心力の低下も著しく進みました。三宮・元町地区の消費額は復興後、今に至るまで決して戻っておらず、その多くが大阪都市圏に逸走を許しています。大型店だけで見ても震災前の平成6年(1996年)に2300億円あったものが、現在では1200億円程度と推計されています。大阪駅・梅田地区のそれが膨張していることをみても如実です。実際に梅田の各施設のIDデータにおいても、神戸市の東半分(東灘区・灘区)は射程圏内に置かれてしまっております。



バブルが過ぎても活力が衰えるどころか、勢いを増していく神戸。
神戸だけが、輝いている時代。
どこよりも綺麗で、おしゃれで、上品で、なにより元気。
「ほかの地方都市」なんて、追いつけっこもない。
これは「傲り」でもなんでもなくて、事実そのもの。



これは前編である「栄光編」の締め括りに記したのとまったく同じフレーズ。

神戸の人々は、未だこの「栄光」に縛られてはいないか?

私が「神戸はただの地方都市だ」と言い切ったのは、過去に縋るな、という強いメッセージを発したかったから。

外部から見られる神戸と、神戸の人や出身者が胸を張る神戸とは、明らかな差異がある。

神戸のひとびとの中で課題を共有し、その解決をめざしてひたすらに、ひたむきに努力すれば…………




このまちの輝きは、確かに薄れているのかもしれない。
でも、決して、消えてまではいません。




震災30年を来年に控えています。

さあ、神戸の逆転劇は、ここからはじまる。

(つづく)


※次回の記事は3/4(月)に公開します。


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