過去の話題になりますが、神戸市東京事務所の服部哲也所長が主宰されている「神戸元気サロン」にお招き頂いた時のお話を。

神戸市は首都圏でのPR活動や首都圏人材との交流を目的に東京事務所を設けていまして、服部さんはその中でも非常に精力的に活動されるなかで、神戸にかかわりを持つ人たちの集いを市税をいっさい使わずに実施しておられます。

楽しい酒宴の席のはじまりにもかかわらず、私は冒頭のご挨拶で、このような厳しいお話をさせていただきました。

「神戸がもっとも輝いていたのは西暦1970年、80年のころであって、今では『ただの地方都市』に成り下がってしまっている。私はなんとしても、皆さんのお力も借りながら、かつてのKOBEを取り戻したいと思っている。」

「山、海へ行く」。

神戸市は大量の土砂をベルトコンベアで海に運んで

船で埋立地に輸送するという前代未聞の手法を採った。

(出典:神戸市)


神戸市は山と海に挟まれた狭隘な平地に都市が形成されていますが、それでは市域の均衡ある発展は望めないと、山を拓き、その土砂で海を埋め立てる「山、海へ行く」と称される事業を進めます。そうして鶴甲や渦が森(双方とも東灘区)、また須磨・西神両ニュータウン(須磨区・西区)がつくられる一方、海上都市「ポートアイランド」・「六甲アイランド」が造成されます。
工費はほぼ一般会計とは別の会計において起債された市債が充てられていて、要は「借金」で造成した土地の売却費用でもって返済。時のわが国は物価も地価も右肩上がりの時代で、それぞれに工費が安い時代に造成した土地であるため多額の売却益を市にもたらし、黒字を出すというモデルでありました。これを株式会社の事業モデルに重ね「株式会社神戸市」などと称賛され、全国の自治体がこれに倣えと研究をしたそうであります。

ファッション都市として最先端を行く。

ただ、神戸市が目指した都市経営は単なる「不動産屋」にとどまらず、時代を先ゆく都市イメージづくりにも行政・民間がしっかりタッグを組んで進めていきます。昭和48年(1973年)にはファッションをライフスタイルとして提案して神戸の都市魅力を高めることを目的に、市と商工会議所が共同で「神戸ファッション都市宣言」を発表します。

通算1610万人の来場者を数えたポートピア'81。

地方博として未だこの来場者数は堂々の日本一。

(出典:神戸市)


昭和56年(1981年)にまちびらきを果たす「ポートアイランド」(ポーアイ・中央区)には「神戸ファッション都市宣言」を受けてファッション関連産業を集積させ、現在のアパレル業界最大手たる「ワールド」や、神戸でその多くが加工されている真珠を中心にした世界的ジュエラーの「TASAKI」(旧:田崎真珠)などのファッション関連産業の本社が集積する街区が誕生。ほかにホール・展示場・会議場・ホテルなどで構成されるわが国初の国際級施設「神戸コンベンションコンプレックス」を誕生させます。
そしてこのポーアイのまちびらきに際して、同年3月から9月にかけて実施されたのが「神戸ポートアイランド博覧会」、愛称「ポートピア'81」であります。神戸市は大阪万博、沖縄海洋博に続くBIE条約に基づく国際博覧会としての開催も視野に入れていたものの諸条件を考慮しあえて地方博覧会として開催、半年足らずで1610万人もの入場者数を数え、まさにこれはわが国の地方博でトップの数字であります。
この入場者の足として活躍したのが神戸新交通ポートアイランド線、通称「ポートライナー」です。コンクリート軌道の上をゴムタイヤの車輌が走る日本初のAGT方式での中量軌道輸送システムです。全区間自動運転でフルスクリーン型ホームドアを備えていて、ポートピア'81の来場者は三宮から会場のあるポーアイに至る近未来型新交通システムにさぞワクワクさせられたことでしょう。

国際スポーツ都市への飛躍。

昭和60年のユニバーシアード神戸大会で

メインスタジアムに使われたユニバー記念競技場。

(出典:神戸市)


昭和60年(1985年)には「ユニバーシアード神戸大会」開催を機に、同年9月に宮崎辰雄市長により「国際スポーツ都市宣言」がなされます。
昭和39年(1964年)の東京オリンピックの成功を目の当たりにした神戸市は、国内で東京に次ぐ夏季五輪誘致を目指すなかで、須磨ニュータウンの一部にメインスタジアムを中心にする各種競技場の建設に動きます。そうして完成した「神戸総合運動公園」(須磨区)で同年開催されたのが「学生オリンピック」と呼ばれるユニバーシアードでした。神戸大会では皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)の開会宣言ののち、106ヶ国4400人が参加する熱戦が繰り広げられます。リオデジャネイロ(ブラジル)やインディアナポリス(アメリカ)などとの競合を制し開催権を射止めたのは、土地開発の際の地方債を当時としては珍しくマルク建てやスイスフラン建てで発行していた実績があったからだともいわれています。
古くはサッカーやボーリングなどの国内発祥地として知られる神戸は、スポーツを「する」まちから「観る」まちへと、大きく拡張性を拡げたできごとでした。

市政100年〜最先端の福祉都市へ。

こども、お年寄り、障害者みんなが楽しめる

アクティビティが整備された「しあわせの村」。

出典:(公財)こうべ市民福祉振興協会


その4年後の平成元年(1989年)には身体障害者のハンディキャップ克服のうえでの先進都市として、またもや国際大会の誘致に成功します。現在に繋がるアジアパラ競技大会の前身、「極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会」、通称「フェスピック」であります。この年には神戸市制100周年を記念し、市役所本庁舎の海側に地上30階建て、24階には地元・上島珈琲が運営するカフェと、神戸が誇るアジアきっての名門ホテル「神戸オリエンタルホテル」の高級フレンチレストランが出店する神戸市役所1号館の竣工、そして「福祉先進都市神戸」のシンボリックな存在として北区に「しあわせの村」がオープンしました。フェスピック大会はここの開業に合わせて誘致されたもので、4年前のユニバーシアードで使用された競技場を活用しつつ、開業したての「しあわせの村」も会場となり、アジア太平洋地域に神戸の都市ブランドイメージをさらに高める好例を残しました。

「アーバンリゾート都市・神戸」

平成3年(1991年)には訪れたい、住みつづけたいまちを目指して「アーバンリゾート都市宣言」を笹山幸俊市長が掲げます。そうして市内全域でおこなわれのが平成5年(1993年)の「アーバンリゾートフェア」でした。

国内初の全面オープンモール型SCとして開業した、

神戸ハーバーランドの「MOSAIC」(モザイク)。

(出典:神戸観光局)


その前年の平成4年にはJR神戸駅至近の湊川貨物駅跡において「神戸ハーバーランド」がまちびらきを果たし、ふたつの百貨店、SC、家電量販店、そして地元資本であるダイエーは日本初のホールセール型ディスカウントストア(=コストコのような業態)を出店、三宮に匹敵する商業床面積10万㎡強を数えました。このハーバーランドを含めて、これまで神戸が整備しつづけたあらゆるハードを用いて多彩なイベントや国際会議などを開催、そこに地元で頑張るお店たちがジョインして地域振興も兼ねるという、これまでの神戸の栄光の集大成的なフェスティバルでありました。
私も鮮明に憶えていて、お店のスタンプを集めて応募したら高級クッキーの詰め合わせが当選して自宅に送られてきたのを憶えています。




バブルが過ぎても活力が衰えるどころか、勢いを増していく神戸。
神戸だけが、輝いている時代。
どこよりも綺麗で、おしゃれで、上品で、なにより元気。
「ほかの地方都市」なんて、追いつけっこもない。
これは「傲り」でもなんでもなくて、事実そのもの。




そんな神戸に、暗い暗い未来が、待ち受けていようとは、誰も予想すらしていませんでした。



そして……………




平成7年、1月17日。
午前、5時46分…………………


(つづく)

※次回の記事は2/28(水)に公開します。


■□■GO-chin無料相談所■□■


アパレルショップ関係、販路マッチング、都市問題を中心にお問合せ、お困り事など何なりとお寄せください。24時間以内に返信を心がけますが、内容によっては返信いたしかねる場合がございます。


g.osada.55labo@gmail.com