本年、令和6年は辰年であるということで、球団発足初の2年連続最下位というどん底を味わったNPB球団・中日ドラゴンズを特集します。

親会社である中日新聞社は球団に対して必要な投資をしていないと球団身売りを主張するファンの声も多く出ています。今回、何回かに分けて、中日新聞社の解説を交えて、ドラゴンズを考察してまいりたいと思います。野球に興味がなくてもお楽しみ頂ける内容にするつもりですが、少し入れ込んでしまう部分についてはお許し願えたら幸いです。


三の丸に構える中日新聞本社(名古屋本社)。

(出典:Wikipedia)


中日新聞社、略史。

ドラゴンズの球団史を語るうえで、中日新聞社の解説を欠くわけにはいかないでしょう。

中日新聞社は名古屋市中区三の丸、まさに外堀の中に法人としての本社を構え、新聞発行は同所にある名古屋本社、静岡市に東海本社、東京・品川区に東京本社、金沢市に北陸本社と4本社体制を取っています。名古屋本社・東海本社エリア(愛知・岐阜・三重・長野・滋賀の各県、静岡県の富士川以西および和歌山県の新宮市・東牟婁郡)では「中日新聞」と「中日スポーツ」(中スポ)、東京本社エリア(関東1都6県および静岡県の富士川以東)では「東京新聞」と「東京中日スポーツ」(トーチュウ)、北陸本社エリア(石川・富山両県)では「北陸中日新聞」、福井県では北陸本社と福井支社が「日刊県民福井」をそれぞれ発行し、総発行部数は272万部(令和4年下半期)に達し、国内では読売新聞社・朝日新聞社に次ぐ3番手の規模となっております。高い部数を維持し続けている理由はまさに愛知県。県内における新聞購読シェアは77%にものぼり、全国にリーチするうえで中日グループは必要不可欠なものとなっております。


中日新聞前身のひとつ、新愛知新聞本社(大島派)。

現在でいう丸の内3丁目、中日病院が建つ敷地だ。

(出典:Network2010)


中日新聞社の前身は「新愛知新聞社」(新愛知)と「名古屋新聞社」(名古屋)です。ともに明治19年(1886年)創刊の歴史を持ち、今でいう名古屋市中区に本社を置いてバチバチのライバル関係であったようです。論調も新愛知は保守寄り、名古屋は自由主義(※左派とは異なる)とされます。

この両社が統合前にタッグを組んだのはたったの1回。昭和10年(1935年)に大阪から朝日新聞社と大阪毎日新聞社(現:毎日新聞大阪本社)がこぞって名古屋に本格進出を果たしたタイミングで、地域貢献なき進出は許されないと共同社説を掲げ対抗、朝日・毎日両社の拡販を阻止したことがあります。双方にとってよほどの危機感がない限り、犬猿の仲であったといえます。


同じく中日新聞の前身・名古屋新聞本社(小山派)。

矢場町近くの久屋大通公園内に建っていた。

(出典:Network2010)


新愛知・名古屋両社が表面的な対立を終結させ合併に動くのは「共同社説」から7年後にあたる昭和17年(1942年)のこと。ただ、これは双方の意思によるものではなく、国策として1県1紙の原則とするという統廃合命令によるものであります。これによって生まれた「中部日本新聞社」は、旧新愛知のオーナーである大島家、旧名古屋のオーナーである小山家が持ち回りでトップを務めるダブルオーナー制を、なんと今に至るまで頑なに守り続けています。社内でも「大島派」と「小山派」に分かれているといわれていて、合併から80年以上もの間、絶妙なバランスの中でガバナンスが守られているのです。


本社の派閥意識に左右される球団。

実はこの派閥意識は球団にも波及しているといわれています。中日ドラゴンズの前身は旧新愛知が昭和11年(1936年)に創設した「名古屋軍」で、旧名古屋の球団「名古屋金鯱軍(きんこぐん)」は両社合併の際に消滅しています。「ドラゴンズ」の名は昭和22年(1947年)に各球団が愛称を付けることになった際に、当時の球団オーナーであった杉山虎之助氏(大島派)が「辰年」生まれであったことから命名されました。実はこの時、杉山は自身のファーストネームから「タイガース」と付けたかったのだが、戦前にこの愛称を付けていた球団があったことで却下されたとドラゴンズで選手・監督を務められた杉下茂さんは回想しているのだそう。ちなみにこの愛称を用いていたのは、みなさんご存知の阪神タイガースであります。


昭和23年(1948年)シーズンのユニフォーム。

致命的なスペルミスはオールドファンの語り草。

(出典:綱島理友事務所)


さりとて球団が大島派のみで支配されていたわけではありません。基本的に親会社の体制に左右されつづけるため、球団内も大島派と小山派で振り子のように揺れては戻しての連続。ただ特筆されるのは、昭和48年(1973年)に中日新聞社社長に就いた加藤巳一郎氏。子会社の不祥事が原因となり大島派・小山派双方のトップが更迭されたあとの抜擢とあって、自身は大島家が創業した新愛知出身であったものの、小山派の第4代社長である小山龍三氏に近いため小山派と目されていて、両派閥の中間的ポジションから社内融和を進めていきます。この加藤氏が球団オーナー時代に監督に抜擢したのが星野仙一氏。星野氏は立浪和義(現在の中日ドラゴンズ監督)や与田剛(前・中日ドラゴンズ監督)、山本昌など次々に若手を起用、闘争心を全面に押し出したチームカラーがつくりあげられていきます。しかし第一次星野政権が終わり、第二次星野政権がつくりあげられたときのオーナーは大島派の大島宏彦氏に移っていて、あろうことか今度は小山派が星野降ろしに動きます。小山派の大番頭・白井文吾氏は平成12年(2000年)にオーナーに就任すると、翌年には星野氏を事実上更迭、ただドラゴンズへのパイプを維持してふたたび監督就任を目論む星野氏は自身が投手コーチとして連れてきた、もと阪急ブレーブスのエースピッチャー・山田久志氏を監督に据えることに成功します。山田氏は星野氏の腹心である島野育夫氏(2軍監督)がドラゴンズに残ることを前提に監督就任を引き受けますが、阪神からの監督就任要請を受諾した際、島野氏も引き抜くことになります。契約前とはいえ道義上、筋の通らない話に山田新監督含め球団は激昂しますがあとの祭り。山田監督は荒木雅博(前・中日ドラゴンズ内野守備走塁コーチ)・井端弘和(現在の日本代表監督)の「アライバコンビ」や福留孝介の外野コンバートなど、のちの黄金期に繋がる施策を理論的に実行していくものの球団内に後ろ盾がほぼなく、2年足らずで解任に至り、無派閥であるも大島派から毛嫌いされていた落合博満氏を監督に選び、「オレ流監督」の時代へと移ります。

落合氏の監督就任を主導したのも白井オーナー・西川社長の小山派コンビ。安定的なガバナンス体制のもと、就任初年の平成16年(2004年)に5年ぶり6度目のリーグ優勝を皮切りに平成18年(2006年)リーグ優勝、平成19年(2007年)はリーグ2位に終わったもののクライマックスシリーズで巨人を破り日本シリーズ進出を決め、日本シリーズで北海道日本ハムファイターズを破り、53年ぶり2度目の日本一の栄冠を手にします。


平成19年11月1日、中日ドラゴンズは53年ぶり

2度目の日本一をナゴヤドームで決めた!!!

(出典:中日新聞)


しかし球団初の黄金期を築いた落合氏の栄華も永遠とはいきません。そうです、長らく日の目を見ていなかった大島派の存在です。堅実派とされる大島派は落合監督の高い報酬に加えて観客動員数の低迷に目をつけ落合降ろしに動きます。大島派の悲願とされたのは立浪和義氏の監督就任だと言われていたものの、星野氏の子飼いと見なされていた立浪氏の監督就任を小山派である白井オーナーが許すことは有り得ず、チーム成績と派閥の激しい鍔迫り合いの中で代わる代わる新たな監督が登場するなか、平成29年(2017年)に中日新聞社の社長に就任したのが大島宏彦氏を父に持つ大島派のプリンス・大島宇一郎氏。親会社のトップとなった宇一郎氏が球団を掌握するのにそう時間はかかりませんでした。3年後の令和2年(2020年)には中日ドラゴンズの代表取締役オーナーとなり、翌年には大島派の悲願であった立浪和義氏に監督就任を要請、立波氏が受諾したことから第34代中日ドラゴンズ監督となりました。


***


ここまでが中日ドラゴンズや中日新聞社ののおおまかな歴史です。

次回以降、中日ドラゴンズのチーム事情や、親会社の現況、そして「中日新聞社はドラゴンズを身売りすべきなのか?」という厳しい意見に対して、公正中立、まん真ん中からの分析を試みることにいたします。


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