阪神タイガース、18年ぶりのセントラルリーグ優勝ということで、同じ関西にいる者のひとりとして祝意を申しあげます。

それを記念して、今回は球団の親会社・阪神電気鉄道がさまざまな辛苦を経て開業に漕ぎつけ、見事なまでの成功を収めた阪神西梅田再開発。この成功がのちに会社全体を翻弄させる運命になろうとは………。大事業の割にはあまり着眼されている印象を持たない本事業を、2部に分けて取り上げます。


西梅田開発のシンボル・ハービスOSAKA(左側)。

頂部のデザインはネギ坊主をイメージしているそう。


西梅田再開発の嚆矢として

2024年の春には大阪中央郵便局跡地開発で誕生する「KITTE大阪」、夏には梅田貨物駅跡地に生まれる「グラングリーン大阪」と立て続けに大型開発が竣工する大阪の玄関口・梅田。この梅田地区の開発の嚆矢となったのが西梅田再開発事業、さらにそのシンボルとして竣工したのが平成8年(1996年)に開業を果たした「ハービスOSAKA」です。


当時このエリアには国鉄の貨物ヤードがあり、街区としての活気に乏しく、まさに梅田の果てといった印象を抱かれていた方も多いと推察します。ここを国鉄が昭和54年(1979年)、大阪市に対して再開発への協力要請をしたことが本開発の端緒となります。その中で当時、地上線路部分や建物を多数所有する阪神電鉄が参画、昭和59年(1984年)から地上線路部分の地下化工事に着手、平成5年(1993年)に竣工しています。ハービスOSAKAの敷地が横に長いのは、もともと阪神電車旧地上線跡を使った開発であったことに起因しています。


ハービスPLAZA(1期)の細長さは、もともと

ここが阪神線の地上線路であった名残り。


ハービス開発主体となった阪神電鉄は西梅田を「大人の街」とターゲットを定め、〈グッチ〉〈イヴ・サンローラン〉(現:サンローラン)〈ランバン〉などの路面店が軒を連ねるエキゾチックなストリートに、広尾の名店〈ブルディガラ〉や能登の高級旅館〈加賀屋〉の料亭など名だたる名店を集めたレストランゾーン、海外旅行の専門企業が集まる「世界の旅市場」などコンパクトかつ感度の高いラインナップを実現しました。


ライバル阪急を上回る企画立案

阪急の茶屋町再開発「ちゃやまちアプローズ」。

小林家3代目・公平氏肝煎りのプロジェクトだった。


なぜ当時、「梅田の果て」たる西梅田に、これだけのラグジュアリーを集めきれたのか?

本コンセプトを立案したのは施工主の竹中工務店。当時、阪神電鉄にとってライバルにあたる阪急の茶屋町再開発「ちゃやまちアプローズ」(平成4年(1992年)竣工)の施工主でもあったため、茶屋町と同様、ホテル・オフィス・ショッピングとグルメから成る超高層インテリジェンスビルを目指します。


ホテル阪急インターナショナルのルームサービス。
阪急電車を眼下に優雅なひとときが過ごせる。

ちゃやまちアプローズの主要施設・アプローズタワーの上層階には日本初のラグジュアリーホテルを目指した「ホテル阪急インターナショナル」が入居、阪急文化の最高峰を目指した贅沢な雰囲気と、当時、梅田で一番高い場所に設けられた、一番高いレートの客室という話題性を引っ提げての開業直前。阪神にも当時、同じ梅田にあった「ホテル阪神」や六甲山の「六甲オリエンタルホテル」を通じたシティホテルの運営ノウハウはあったものの、阪急を上回るためには一からつくるよりも既に海外で実績のあるラグジュアリークラスのホテルを誘致する必要性を認識、ホテル王との呼び声高いセザール・リッツの名を冠した米資本の「ザ・リッツ・カールトン」と交渉して出店を射止めました。この事業フローはきわめて秀逸で、要はインテリジェンスビルを構想し、先にラグジュアリーホテルを誘致、その後に低層部のテナントを集めるというもの。この手法はのちに都内の大型再開発案件でも用いられることになります。


待ち受ける"ふたつ"の苦難


当時発表された阪神西梅田開発の全貌。

手前の高層ビル2棟は現在のハービスENT。

(出典:阪急阪神ホールディングス)


ちゃやまちアプローズ開業に半年ほど先立ち、平成4年(1992年)の春に阪神西梅田開発の1期構想はプレス発表されます。

プロジェクトが順調に進んでいくと思いきや……


日本初の高架車庫であった石屋川車庫も被災。

車両24両が廃車になるなど大きな被害となった。

(Wikipediaより)


平成7年(1995年)1月17日、淡路島北部を震源とする大地震が阪神電鉄の沿線を襲います。阪神・淡路大震災の発災です。

阪神電鉄のみならず、阪神間に鉄路を持つJR西日本、阪急電鉄も大きく被災します。しかしながら、新潟県か福岡県まで幅広いネットワークを誇るJR西日本、大阪から神戸に至る神戸本線以外にも、震災でほぼ無傷だった宝塚本線・京都本線などを持つ阪急電鉄に較べ、「阪神」の社名のごとく一本の「大動脈」が折られた阪神電鉄の損害は大きく、一時期は西梅田開発どころではないとの雰囲気に包まれました。現実問題として、開発の凍結中止が議論されたのです。


しかしながら、当時の阪神電鉄のマネジメントはこう決します。

「西梅田は阪神グループの将来への灯。止めるわけにはいかない」


目先の苦境に翻弄されることなく長期的な判断を下したトップマネジメントの判断でプロジェクトの継続が決まります。しかしながら苦難はまだ襲いつづけます。低層部のSC「ハービスPLAZA」部分のテナント集めに苦慮するのです。当時はバブル崩壊後で、かつ近隣の街が震災で被災している中で需要予測が付きづらい状況でした。みずから被災しながらも何とか事業を進めている阪神電鉄としても易々と賃料減額を提示できる状況ではない…そこで阪神は高額な固定賃料を据え置くとともに一定期間に限り変動賃料、すなわちテナントの売上比で納める賃料の免除という奇策を繰り出し、出店テナントの確保に努めます。


開業…そして成功へ

〈ザ・リッツ・カールトン大阪〉のロビー。

18世紀の邸宅をイメージしたという温かみある内装。


震災の翌年、1996年3月19日、阪神西梅田再開発における1期事業「ハービスOSAKA」が開業するのです。

阪神電鉄と竹中工務店の読み通り、日本初のラグジュアリーホテルともいえる〈ザ・リッツ・カールトン大阪〉が抜群の存在感を発揮、あらゆるホテルランキングにおいて都内において当時注目されていた御三家(帝国・オークラ・ニューオータニ)、そして新御三家(ウェスティン・パークハイアット・フォーシーズンズ(現:ホテル椿山荘東京))を押さえてトップ評価が得られるまでになっていました。低層部のSC「ハービスPLAZA」も手厚く配されたラグジュアリーを中心に集客力の高い施設に育ちます。施設全体がライバル阪急のちゃやまちアプローズが年間ベースで数十億円の赤字に悩まされ失敗と言われる中で、見事に梅田の外れであった西梅田を開発した阪神は事業として成功させるとともに、街区全体に感度の高い層を呼び込む道筋をつけていったのでした。


(つづく)


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