神戸市西区、神戸研究学園都市に、ダイエー創業者の中内㓛氏によってつくられた流通科学大学があります。
ここに一般にも見学可能なダイエーや中内さんに関連した展示施設がいくつかあって、先日見学してきました。
ダイエー資料館
以前の「上弦の月」をモチーフにしたロゴが燦然と輝くのは〈ダイエー資料館〉です。
「ネアカ のびのび へこたれず」は中内さんの座右の銘といわれます。
ダイエーの年表です。
西宮と江坂の本部機能の存在は知っていましたが、大阪の中津に本部を置いていたのはまったく知りませんでした……
今はタワーマンションが建っている場所ですね。
ダイエーといえばPBに力を入れていたことでも知られていますね。
松下電器(現:パナソニック)の松下幸之助氏と喧嘩して台湾製のテレビ「bubu」に端を発し、「セービング」や「コルティナ」「サリブ」など多くのブランドを世に送り出しました。
ダイエー社内ではPBを「SB」(ストアブランド)と称して、当時としては本格的なブランディング戦略のもとに進められていたようです。
その資料も公開されています。
これが世に知られる「V革」のシンボル。
ダイエーは昭和55年(1980年)2月期決算でわが国の小売企業として前人未到の売上1兆円を達成、次なる目標を売上4兆円と掲げます。しかしながら昭和58年(1983年)の決算では65億円の最終赤字に転落、ヤマハの社長として経営再建を成し遂げたあとダイエーがヘッドハンティングしていた河島博副社長(すべて肩書は当時のもの)のもと進められたのが「V革」です。
河島氏は宣言通りに3年後の61年(1986年)2月期決算で通期黒字に転換、「V革」は成功します。
が……
V革後、中内社長が経営の一線に復帰、直後、河島副社長をグループのミシンメーカー・リッカーの社長に放逐、新たな副社長には中内社長の長男・潤氏(現:流通科学大学理事長)が就任しバブル期に突入します。
この流れが有利子負債を拡大させるとともに本業の変化対応の遅れも伴い、平成時代の転落劇に繋がったというのは専らの見方です。
一方でこちらはダイエー1号店である千林駅前店の再現です。
この1号店は昭和49年(1974年)にクローズしていますが、社内で「創業店」として大切に保存されていたようすが窺えます。
ちなみにこの地には現在、「オーエスドラッグ京阪千林店」が立地しています。ご興味ある方は足を運んでみてください。
ダイエーはスポーツ事業に非常に力を入れていました。昭和57年(1982年)には女子バレーボールチーム「ダイエーオレンジアタッカーズ」、翌年には陸上競技部「ダイエーオレンジランナーズ」を設立、双方とも中内社長の思い入れが強い神戸市を拠点に活躍を見せました。
神戸市がユニバーシアード神戸大会を契機に昭和60年(1985年)に当時の宮崎辰雄市長が表明した「国際スポーツ都市宣言」も相まって、スポーツを見る都市に飛躍していく、まさにダイエーは神戸における文化創造を担う存在でもあったのです。
南海ホークスを買収し小売業界初のプロ野球団のオーナーになったのは平成元年(1989年)シーズンから。
中内社長は当初、バレーボールや陸上とともに神戸市への球団ホームの移転を目指しますが社内の反発や福岡市による熱心な球団誘致を受け、福岡市に移転を決めます。「福岡ダイエーホークス」としての初優勝は平成11年(1999年)のこと。この年の日本シリーズでは中日ドラゴンズを4勝1敗で破り、見事、日本一の栄冠を手にしたのでした。
サカエ薬局
中内少年は今の神戸市兵庫区にある父が経営する薬局で育ちます。
その「サカエ薬局」が移築復元されています。
中内さんの父・秀雄氏が大正15年(1926年)に開業した薬局は、水害、空襲…そして震災と神戸を襲った数多の災害を潜り抜け、平成9年(1999年)にここ流通科学大学に移築されたものです。
1階の店舗スペースのほか、2階の住居も復元されていて、若かりし中内さんの息づかいが聞こえてきそう。
内部に展示されている調合器具は実際に使用されていたものです。
中内㓛記念館
中内㓛記念館はサカエ薬局の地下スペースに設けられています。
中内さんが生きた年代を、音声ガイドとともに追いかけていくことができる展示です。
戦地における飢餓体験から「誰でも美味しいすき焼きが食べれる世の中を」との理想が、中内さんの生涯の原動力となりました。
当時はメーカーや問屋がプライスの決定権を握っていて、リテールは相対的に弱い立場でした。最終消費者に近しい私たちこそ価格決定権を持つべき、とするのが中内さんの言う流通革命の本旨といえます。
中内さんが流通科学大学理事長として使っていたデスクです。
厳しい人だったと伝わる反面、私もあえて本文にて「中内さん」と表現していますが、人情味溢れるお人柄だったのだそうです。
中内さんの進めた「価格破壊」が現代社会においては議論がまっ二つになるところでしょうが、「消費者以外には頭を下げない」という強い信念は、強きをくじき弱きを救おうとする、中内さんの優しさだったのではないかと私は考えます。
中内さんの志は多くの名経営者たちが参考にし、また尊敬していたとも伝わります。中内さんとともに伊藤雅俊氏(セブン&アイグループ創業者)、岡田卓也氏(イオングループ名誉会長)、清水信次氏(ライフコーポレーション創業者)という流通革命の旗手が揃った写真パネルには当時のリテールマネジメントの勢いを感じられました。
キャッシュレジスター博物館
これらとはまた別の場所にキャッシュレジスター博物館も設けられていましたので見学してきました。
「私にとってキャッシュレジスターの響きはこの世で最高の音楽である」。
些か大仰な表現にも聞こえますが、中内さんはレジスターの美しい音が響き渡る活気ある店の光景が好きだったのではないかと推察します。
ダイエーのレジの歴史というよりも、中内さんが個人的に収蔵したアンティークなレジスターが多数展示されています。
上部には「コカ・コーラ」のロゴがみられるレジスター。
こんな華麗なレジでコーラを買っていたのか……
まとめ
ここ神戸で育った中内さんは、生涯、この街を大切にされてきました。
阪神・淡路大震災の時には開店できる店から開店させるとともに、開店できなくても通電していれば「店の灯りを点けよ」と指示を送ったといいます。きっと戦地で暗い夜を過ごし不安に慄いた過去を思い、神戸の人を励まそうとする思いだったのでしょう。
取引先に盾をつき、消費者とともに歩みつづけたダイエーも時代の大きなうねりには抗いきれず、紆余曲折を経てイオングループの食品スーパー運営企業となりました。規模は小さくなってしまったとて、神戸の人たちにとって今でもダイエーは親しみある企業のひとつであり、またその創業者である中内さんは、わが国のチェーンストア業態をつくった人として知られます。流通科学大学の中内さん・ダイエーに関する一連の資料館には連日、遠方からも多く来訪していると聞きました。信念あるマネジメントが鳴りを潜める今だからこそ、特に輝いて見えてしまうという事実は、裏を返せば、今の私たちが中内さんに「強い志を持て!!」と叱咤されているようにも思えました。
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