2011年に大阪駅前に鳴り物入りで開店、2015年に店舗としての終焉を迎えることとなったJR大阪三越伊勢丹。当初の年間売上目標550億円以上を6割下回る310億円〜330億円と数字の上では低空飛行が続き、たった4年での実質撤退となったストア分析の中で「東京流が大阪で受けなかった」「ブランドショップの集積が薄かった」などと理由を見聞きしますが、実のところ、あまり的を射た考察とはいえません。
今回、関係各所へのさまざまな聞き取りを踏まえて、この店がなぜ短期でクローズしなければならなかったのか、その要因となった事象を纏めてみます。
事業主体の変更
建物の建設計画が発表されたのは開業から6年前の2005年4月。この時点では伊勢丹と統合前の三越が事業主体となって百貨店を運営することとなっていました。折衷案の極みが店舗名称に
混乱の様子は店舗名称にも如実に顕れています。三越は大阪で百貨店として100年近い歴史を持っていて、大阪駅前への出店を悲願としていました。一方で統合により望まざるとも矢面に立たざるを得ない伊勢丹は激烈な大阪の競合状態を新宿の商品力という力技で乗り切ろうと考えていました。そのため「三越伊勢丹」のダブルネームを確定させた上で、京都店に倣い「JR大阪三越伊勢丹」という長いストアブランドとなってしまったのです。準備不足
05年の建物構想発表からみれば6年の歳月が流れていましたが、経営主体の変更(三越→WJRI)からだと2年半という短すぎる準備期間も仇になりました。
(COMMERCE DISIGN CENTER HPより)
たとえば2階に設けられた3層の吹き抜け。豪奢なストアプランニングで知られる三越が決めたようですが、フロア中央のデッドスペースはまずいとWJRIは変更を模索、しかし当初設計の変更が出来るタイミングを逸したため、そのまま残ることになったといいます。
「阪急・タカシマヤ」連合の圧力
阪急・高島屋は全否定していますが、各ブランドサイドなどからは、阪急・高島屋など既存の百貨店が自社との取引条件の見直しと引き換えにJR大阪三越伊勢丹への出店を控えるように動いたことはほぼ明らかになっています。とりわけラグジュアリーブランドの囲い込みは想定以上で、JR大阪三越伊勢丹はラグジュアリーブランドの入居がないまま開業を迎えることになりました。
また、ラグジュアリー以外にも有力取引先を囲い込まれたJR大阪三越伊勢丹は店頭を埋めるために自社買取比率を上げざるを得ず、全アイテムの3割が買取という前代未聞な取引比率となります。
(COMMERCE DISIGN CENTER HPより)
このことは悪い面ばかりではありませんでした。これまでの大阪の百貨店にはなかったTOKYOモードの発信基地となり、コアなファンの獲得にもつながりましたが、一方で売上のコアを占める従前の百貨店をイメージした層を取り切れず、数字的に大きく苦戦する要因となります。
新宿店再開発が早かったら…
「世界最高のファッションミュージアム」を標榜し伊勢丹新宿本店が6次再開発を完了させた2013年。新たなトラフィックの確保や「パーク」と呼ばれるポップアップ開設のため商品数を10%減らしたにも拘らずリモデル1年で20%も売上を伸長させた、百貨店史に残る成功事例です。
このリモデルは旧習を一蹴したことで知られていて、従来の百貨店の売れ筋であったトランスアダルト向けのボリュームゾーンを売場の端に平場展開する一方で、売場中央には自社買取によるセレクトショップや当時としては尖っていたデザイナーズブランドを集積させたのです。もしもこのリモデル成功が大阪出店より先ならば……ラグジュアリーや「売れ筋」の取引を幾分か遮られようが、新宿のMDや環境で当初目標の550億円以上はクリアできたのかもしれません。現にJR大阪三越伊勢丹にはコアなファンが数多くついていて、競合が激しい中でも年間300億円はコンスタントに取れる店ではありましたので、伸びしろはあったように思います。
今後、4年の中であっという間になくなったイメージの強い同店の雰囲気を思い起こして頂けるような記事を考えています。ぜひご期待ください。
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