『小僧の神様』(志賀直哉)は、1920年(100年以上前)に雑誌『白樺』に発表された短編小説です。

作者自身が「小説の神様」と呼ばれるきっかけにもなった日本文学の名作です。

 

学生時代に読んだ気がしますが、すっかり忘れているので、

もう一度読んでみました。

物語の中心にいるのは、

東京・神田で秤屋の小僧として働く仙吉という若い店員です。

ある日、番頭たちの噂話を聞いて、

仙吉は屋台の鮨屋へ行きますが、

お金が足りず恥ずかしい思いをしてしまいます。

その出来事を見ていたのは、 

貴族院議員のA と呼ばれる紳士。

数日後、偶然再会した際に、

Aは仙吉に寿司を奢ります。

一見善意に見えるこの行為ですが、

Aは自分がよいことをしたはずなのに、

どこか淋しく居心地の悪い気持ちを抱えます。

一方で、仙吉はこの親切な客のことを「神様」のように崇め、

苦しいときにその顔を思い浮かべては励まされるようになります。

 

この 善意と自己意識のズレこそが物語の核心です。

読者は、善行とは何か、善意の本質とは何かを

仙吉とAの対照的な心情を通じて考えさせられます。

 

具体的な例として、

仙吉が最初に寿司屋に入ったとき、

お金のなさから逃げ出すしかなかった瞬間

が挙げられます。

この挫折が、後に誰かに助けられることの価値や、

人を助けることの意味を深く印象付けます。

 

そしてAの立場から見ると、

自分では善行だと思った行いが、

自身の内面に予期せぬ違和感や孤独感を残す

という心理的な屈託も描かれています。

 

この作品はわずか数千字の短い物語ですが、

志賀直哉の特徴である 簡潔で無駄のない文体と、

人間の心の中の微妙な揺れを鋭く描く技法が光っています。

仙吉とAという二つの視点を通じて、

人間の行動と感情の本質を読者に問いかける作品として、

日本近代文学史でも高く評価されています。

この短編小説は、

善意がいつも純粋でないこと、

助けられる側と助ける側の心のズレがあることを、

日常的な出来事を通して静かに、

そして深く示している名作です。

人間の心理の複雑さを、

短い物語の中で味わうことができます。

 

これは英語のpity と compassion の違いだと思います。

Pityは相手を「かわいそう」と上から目線で距離をもって憐れむ感情。

Compassionは相手の苦しみに寄り添い、共に感じ行動しようとする思いやり。

 

Aが小僧をpity と思って恵んでやったところ

後味の悪い思いをすることになります。

小僧はAのことを神のように崇めますが、

もう二度とその鮨屋には行かなくなります。

 

結局Aの善行は、

どちらにとってもより良い未来には繋がらなかった、

ということになります。

 

善行(=利他)は、与え手が受け手に寄り添う気持ちが無いと

両者の明るい未来に繋がらないということですね。

勉強になりました。

 

それでは、また。(^_-)