「満州事変(1931年)から始まる一連の日本の戦争行為は、予め企てられていた『世界征服を目指す侵略戦争』だった…」日本の指導層はこのような「共同謀議」をしていたと東京裁判では取り上げられました。
「世界征服」って…近世以前ならともかく、あまりに与太話過ぎるでしょう、これは。
しかし、この与太話をもとに恥ずかしげも無く国際裁判と称するもの(極東国際軍事裁判:東京裁判)をやったのです。
それはともかく、19世紀後半から20世紀前半においては、「白人にあらねば人に非ず」が欧米列強の共通の価値観でした。しかし日本人だけがその白人を黙らせる勢いを見せたのです。
日清戦争(1894年)や日露戦争(1904年)での日本の勝利は欧米列強を驚愕させました。いわゆる「黄禍論」(黄色人種が白人社会に災禍をもたらすという人種差別的な思想・言説)まで広がる始末です。
日本はその後も着々と国力を高め、1922年のワシントン海軍軍縮条約では、主力艦の保有比率を「対米6割」に抑えないと「日本の主張する7割、ましてや対等ではとても日本に勝てない」と言うところまで来ていました。欧米列強が怖れる大国、それが当時の日本でした。
しかしその日本が敗戦すると「二度と白人に逆らわぬよう、徹底して叩きのめし、いずれ自滅するように仕掛けてやれ」、これが占領政策の真相であり、東京裁判でした。
その東京裁判では、米軍やソ連軍の誰の眼にも明らかな国際法違反(原爆投下、無差別爆撃等民間人大量虐殺、シベリア抑留等捕虜虐待・強制連行・強制労働他)は一切不問にされ、日本を徹底的に貶める出鱈目のみが罷り通りました。まさにリンチそのものだったのです。
話を満州事変に戻しましょう。
東京裁判では満州事変は「世界征服の第一段階」とされました。いわゆる「(世界征服を目指した)十五年戦争史観」です。
満州事変が「侵略戦争」であったことは、中国側の訴えに応じ、国際連盟の依頼を受け、これを調査したいわゆる「リットン調査団」(英人リットン卿を委員長とする調査委員会)の報告によるとされています。前回お示しした AIが答えた通りです。
しかしこれは間違いです。
リットン報告書では、日本の関東軍の行動を「侵略だ」とは断じていないのです。
「自衛行動とは認められない」また「満州国は地元住民の自発的な独立運動の結果ではない」としたのは事実です。しかし侵略とは断じえない「特殊事態が存在していた」としたのです。
そのリットン調査団が認めた「特殊事態」とは何か。
(1)ひとつは、そもそも日本が得た満州での権益は、条約に基づく正当な権利だということ。しかもそれは「自衛」のために多大な国民的犠牲を払って得たもの(日露戦争)であり、この点、諸外国の権益とは相当様相が異なるものだと認めているのです。
(2)また日本にとって満州が「日本の自衛と国家的生存にとって絶対的に必要な地域」であったことや当時日本が直面していた「人口過剰問題」にも触れ、その解決にとって満州が重要な役割を持っていたことも認めています。
(3)そして、これが最大の特殊事態なのですが、日本の正当な権益や地位を著しく侵害する極めて狂暴な「排日運動(暴動)」があったことです。
報告書の中でもこの排日運動の実態については「世界平和に対する脅威」とまでされ、「現在の紛争(満州事変)が生まれるような雰囲気を作り出す原因となった」と指摘しています。
当時の中国政府が扇動した抗日・排日運動により、日本人(朝鮮人)居留民に対する暴行、脅迫、殺害等苛烈な迫害が日常的に行われていました。満州では、軍閥(張学良)がやりたい放題であり、不法行為、テロが吹き荒れたのです。文字通り無法地帯と化した満州で、当地の日本人や朝鮮人(日本国民)は、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされていました。
(4)「特殊事態」の四つめは「共産主義の脅威」です。
満州事変の起きる十年前、ソ連の強い影響下で「中国共産党」が密かに結成されていました。彼らはコミンテルン(世界赤化を企む共産主義指導組織。事実上ソ連の工作機関)の指導の下、排日運動を煽っていたのです。
「労働者からの搾取」、極端な「貧富の差」、そして「恐慌」と、資本主義の矛盾が噴出していた当時においては、これらを正し、解決する社会主義や共産主義は、皆が待ち望んだ理想論であり、世界のインテリには大いに受けました。
しかし、その実態は「暴力革命を通じ、世界の非共産主義政府を転覆し、資本家を皆殺しにすれば、人類が幸せになる。」そんな思想だったのです。
当然、各国政府からすれば、これは大変な脅威でした。リットン報告書には「日本が中国のもっとも近い隣国であって、かつ最大の取引先である以上は、(中略)共産主義の脅威などのために、他のいずれの強国よりも一層ひどく悩まされた」とし、当時の日本政府が、眼前で広がり始めた共産主義を大いに危惧していたことに理解を示しているのです。
以上のような「特殊事態」があるがゆえに、軍の侵攻をもって単純に「侵略」とは断じれなかったということです。それどころか「自衛とは言えないが、1931年9月18日以前の状態に原状復帰させることは好ましくない」とし、一歩踏み込んで実質的に日本の行為を承認しているのです。
また、こうも言っています。「中華民国は党が国家の上にある」つまり「ファシズム国家」だと。それゆえ「中華民国は、まともな国ではないので、彼らの主張を真に受けてはならない」と暗に示唆していたのです。
ちなみに東京裁判で有名なあのパール判事も、リットン報告書を満州事変を知る上で特に重要な資料とし、これを仔細に検討し、その特殊事態や国際法、当時の諸列強の行動様式に照らし、日本の行動は「自衛の必要上」とする資格があると主張されています。
リットン報告書の結論は、約めて言えば「満州事変は日本の自衛行動とは言えないし、満州国も認められない。ただし、中国の主権を形式上残してくれさえすれば、実質は日本への委任統治とし、全ての日本の権益を認める」ということです。
これは、大国の武力による現状変更を認めたくない国際連盟のメンツを立て、また有色人種の台頭を快く思わない白人国家の感情に配慮しつつ、実質的に日本の意向を実現する妥協案でした。
リットン調査団も本音はパール判事にように満州事変は日本の自衛行為だと認めていたのではないでしょうか。また、それまでの列強の例に倣えば傀儡国家を作ることも許容される時代でした。
わざわざ「特殊事態」を並べ、本音を透かして見せたのがその証左であり、またそのことは、本音を語れない立場に対する彼らの理性や騎士道精神が為した可能な限りの抵抗だったのかもしれません。
それはともかく、実はこの落としどころには先例があり(1877年露土戦争でのブルガリア独立を巡ってのロシアに対するベルリン会議での決着)、当事国(ロシア、今回は日本)の狙いが形式上は無理でも、実質的には実現できる計らいとなっていたのです。
その意味で日本は事実上の勝ちを手にしたはずだったのですが、残念ながら日本は最後まで満州国承認に拘りました。それは、国際連盟が満州国を認めないことに、マスコミの煽りもあり、国民が強く反発したからです。
結局、軍部主導でも政府主導でもなんでもなく、この世論の勢いに飲み込まれる形で、それこそポピュリズズムにより「国際連盟脱退」に至り、日本は孤立を深めていくことになってしまいました。
敗戦に至る日本の歴史を振り返る際、常に「軍国主義」だの「軍部主導」などと言われ、すべてそれで片づけられますが、実態はかなり違うのです。
それはともかく、ここは日本の歴史の大きな反省点となるべきところであり、なぜ大局的で冷静な判断が下せなかったのか、なぜ大衆の言うがままに流されたのか、我々日本人は真摯に研究し、今後に生かすよう学ばなければなりません。
話が脱線してしまいましたが、少なくとも「リットン報告書が満州事変を日本の侵略だとしていた」というのは歴史事実とは異なる誤りであり、むしろ実質的に日本の目的を実現できる内容となっていた、つまり満州事変は日本の自衛行為だったことを認めていたことを理解していただけたのではないでしょうか。
最後に「十五年戦争史観」(共同謀議)に触れておきます。
満州事変は、1933年5月31日の塘沽停戦協定により事実上終結しています。盧溝橋事件に端を発する日華事変がはじまるまで4年の空白があるのです。
しかもその間、相変わらずの過激な抗日・排日運動が続き、日本政府は居留民の安全と権益を守ることに難儀しながら追われ続けていたのが実態です。
よって、これらも含めすべて「一貫した謀(はかりごと)」であるかのような「世界征服を目指した十五年戦争」などというものは存在しないのです。