日々感じたこと、あれこれ

日々感じたこと、あれこれ

訪問ありがとうございます。
自分用に書いてる備忘録みたいなものです。
よろしくお願いします。

介護とは


相手から何かを頂きすぎて、いくら介護しても足りないと自分が思っているか


介護した分以上の十分な見返りが期待できるか


相手を綺麗事抜きに愛しているかしてないとできない行為だと思う


プロポーズの言葉として


あなたが好きです、ずっと一緒にいたいです、だから結婚して下さい


よりも


あなたが好きです、あなたの介護は私にやらせてほしいです、だから結婚して下さい


あなたに何かあった時、病院から一番に連絡がくるのは私でありたい


あなたが亡くなった後の葬儀は私が喪主をやりたい


の方がどれだけ説得力があるか


若い時は笑い話だろうが、そう遠くない未来にあっという間に笑えなくなるような歳になる


相手の介護は自分がしたいし、されるのもこの人なら受入れられるという人に会えたら


それこそ奇跡だなと思う


親の介護を子供ができない(やりたくない)のはある意味当たり前なのに


それを無視して押し付けてくる人(団体)の筆頭が国だ


国は家族がやらない場合、自分が時間と金(税金)をかけて問題を回収(解決)しないといけないから


国は何としても面倒事は全て家族に押し付けようとしてくる


それが『家族仲良く協力し合いましょう』という概念だ


家族と仲良くなんて一時的にはできてもずっとは無理なことの方が圧倒的に多いのに


何を寝ぼけたことを言っているのかと思う


国のギリギリまで自分達は何もしない


全ての面倒事を最後の最後まで家族に背負わせようというやり方は


本当に闇だなと思う


高市政権はこの制度をもっと強化しようとしていて


家族からは絶対に逃げられない仕組みを作ろうとしているらしい


狂っている


きっと家族間で殺し合いをさせたいのだろう


そこまでして日本人を減らしたいのか


これだけ国民の為に働かない(仕事しない)人が


まだ総理というポジションにいられることが本当に信じられない


高市さんには一日も早く辞めてもらいたいし


トップの暴走を誰も止められないなら、自民党はもう終わりだと思う


まぁ終わる前に日本と日本人をできる限りめちゃくちゃにして


最大限力を奪っておきたいのでしょうね


まさか自分が生きてる間に


自分が払った税金で作られた武器が罪のない誰かを殺す為に使われるのだろうか


なんて考える日がくるとは思わなかった


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

子供の頃の話で思い出したことがある


それは自分が学校から帰宅してから母親が帰宅するまでの僅かな時間が


私にとっては貴重な自由時間だったということだ


母が帰宅するまでにこれを終わらせとけという家事一覧はあったが


真面目にやっていたら自分の自由時間が全滅するので


母が帰宅する直前にやり始めるか帰宅の気配を感じたら急いで取り掛かるのが


常だったように思う


母は私を母に代わる家事要員にしたかったようだが


残念ながら私が家事が嫌すぎて母の望む基準には届くことは滅多になかった


母は自分は外で働いている(けしてサボっている訳ではない)のだから


家事くらい家にいる人(私)がやって当たり前だろという考えが口には出さずともダダ漏れだった


本人に自覚はないし絶対に認めないが


母はいつも不満そうな溜息や不機嫌で罪悪感を刺激し


私を自分の思い通りに動かそうとする人だった


働いて帰ってきたらある程度(できれば全部)の家事は終わっているのが母の理想だったが


そうではない日の方が圧倒的に多かった


だから母は年中不満そうだった


ウチは何かが間違っていたし何かが異常だった


私にとって大事な話題を真面目に取り合ってもらえた記憶がほぼ無い


にも関わらず暴力を振るわれたり暴言を浴びせられたりはなく衣食住は保障されていたので


第三者に間に入ってもらって改善に向けて話し合いをすることはできなかった


母の『家族の問題に第三者を入れない』というコミットは凄まじいものがあった


母の努力が実り、子育てにおいて母に改善を促すようなことを言う人は


私の知る限りでは1人もいなかった


父親でさえ見て見ぬふりという現実にこれが自分の親かと悲しくなった


両親というのは、どちらか一方が暴走した時にもう一人の方がその暴走の抑止力になる為に二人いるのだと思っていた


だからこの時の父親の母側につく(子供を守ることの放棄)態度、


いわゆる子供を犠牲にすることで自分の身を守る姿には本当に呆れた


私が追い詰められるのを一番近くで見て(知って)いたのは父だったが、


私よりも母側につくという姿勢は私が実家を出るまで変わることはなかった


まぁその行為(子供より母を優先すること)が子供が出て行って母と二人暮らしになった時に少しでも生活を上手くいかせる為の父なりの下準備だったのだろう


いや、正確には一緒に母と闘ってくれる人が1人だけいたが、その人と会うことを母は頑なに拒否し続けた


もし私と母が家族ではなく他人としてでどこかで出会っていたら、


絶対に関わりたくないし私からは絶対に近付かない類の人だ


実家にいる間の私は自分を擦り減らして擦り減らして


本当によくやっていたしよく耐えていたと思う


親から強烈に学んだことは『自分のような体験を我が子がする可能性が僅かでもあるなら怖くて子供なんか産めない』だ


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

タダではない(むしろ非常に高く厄介である)ものに支援とか支持があると思う


支援とか支持はする側の(時には膨大な)金や時間を費やす行為だから


これが無償で提供される訳がない


むしろ与えた以上に大きな見返りを求められていると考えるべきだ


だから支援とか支持を受けることには本当に慎重にならないと


支援とか支持してくれた人を無下にはできないし無視もできないという理由で


自分のやりたいことや言いたいことを尽く潰される可能性が出てくる


自分の自由を奪われる可能性も含めて支援とか支持が欲しいかと問われ


それでも支援や支持がほしいと主張するのはなかなか心に負荷がかかる行為だ


支援や支持(という煩わしさ)を引き受けてでもその立場を得たいという人は


善し悪しは別にして何かを望むエネルギーが高い人であるのは間違いない


まぁそれを望むからにはそれなりの旨みがあるのでしょうけれど


支援や支持を受けたなら、それ自体は素晴らしいことなので


そこに胡座をかかないような言動や生き方を心掛けてほしいし見せてほしい


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

先日読んだ本の著者が『愛より平和』ということを主張されていて、とても興味深かった


結婚とか出産とは平和という土台があって、そこに愛が加わり初めて


前向きに検討できるモノだと思う


平和とは戦争が起きてないとかそういうことじゃなくて


自分に何があっても自分の身の安全と仕事(収入)と衣食住とある程度の自由な選択が保障されている(何者にも脅かされない)


という安心感だ


どちらも不確実ではあるけれど、愛よりも平和の方がまだ信用できるし自分にコントロール権があるように思う


今の時代、家庭内で子供に平和を提供するのはなかなか大変だろう


大前提として子供が成人するまで、親側にある程度の継続した収入と心の落ち着きが求められる


また身体的な衣食住の平和は提供できても、成長していく子供の精神的な平和を守り維持していくことは更に難しい


子供にとっては『親も大変なんだよ』は言い訳でしかない


親は如何なる理由があろうとも子供にだけは甘えてはいけない


なぜなら子供は優しいから親が望むことは自分の気持ちを殺してでも、なるべく叶えてあげようとする


それが継続すると子供の心は徐々に壊れるからだ


また子供は育ててもらっている負い目があるから、よほど親への安心感がないと親に反抗はしないしできない


これではどんなに子供を産みたくても産んだ後のハードルが高すぎる


よっぽど生活に余裕があるか、予定はしてなかったけどできてしまった


以外では産めないのではないか


また予定外でできてしまった場合、堕ろすという選択肢がとられやすいことも


仕方がないとはいえ本当に残念だと思う


子供を産み育てるのはお金以外の問題が腐るほど出てくるのだから


お金の問題くらいは早く国が何とかしろよと思うが


それも取られる税金が増えるばかりで遅々として進まない


きっと少子化は国のお金を動かす権利を持つ方々が切に望んでいることなのでしょうね


少子化対策してると見せかけながら少子化を進めなければならないポジションにいる方々は


それを指示している方々からさぞかし高い評価と報酬を得ていることでしょう


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

最近、若い人でも間違っていることを正しいと信じ込んで堂々と主張し


自分の考えを通そうとする人が増えたように思う


もしかしたら自分が間違っているかも、という思考が全く頭を過ぎっていないように見える


そして正しいと信じ込んでいるから当の本人に悪気はない


だけど私が間違いを指摘して自分の間違いに気付いたとしても謝罪しない、もしくは謝罪が軽い


それはさも『大したことではないのに騒ぐな』と言われているようにすら感じる


こんなことが当たり前になってしまったら正しいことを言っている方がエネルギーの消耗が激しくなる


それでも一対一ならまだ戦える


だけど一対複数になると余程気持ちを強く持たないと


自分の方が正しいにも関わらず数の力で捻じ伏せられる可能性が出てくる


だが、これが相手が日本語が通じるならまだいいのだ


日本語が通じない相手だと本当に困る


コンビニ店員が全員外国人でカタコトの日本語で接客される機会が増えたが、


ちょっと込み入った話になるとすぐ会話が続かなくなり、


客は諦め店員は何事もなかったかのように自分の仕事に戻る


このような場面も増えたように思う


面倒な客を撃退するにはいい方法かもしれないが、


普通に買い物したいだけなのになぜこんな思いをしなければならないのか、とも思う


外国人がいるのは仕方ないと思うが、全員外国人というのは本当にやめてもらいたい


最低でも一人は日本人を置いてほしい


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

嫌がらせを受ける立場でよく思うのは


学校の先生や会社の上司は問題解決において本当に消極的だということだ


嫌がらせする人には『嫌がらせすんなよ』


そんな(私にとって重要度の低い)ことに時間割けるほど私は暇じゃないんだよ、だし


嫌がらせされる人には『嫌がらせされんなよ』


そんな(私にとって重要度の低い)ことに時間割けるほど私は暇じゃないんだよ、だ


どちらも同じ理由で面倒な関わりたくない存在だというのが正直なところだろう


どちらも問題児だからいっそのことどちらもいなくなればいいのに


と思っているのが透けて見える


そして話になる(話ができる)のは大概、嫌がらせされる立場の方だ


だから嫌がらせされてる側に我慢させて場を丸く収めようする


自分に余裕がなければ何をやってもいいのかと問いたい


そして極めつけは親までも先生や上司と同じ立場を取るということだ


自分が話にならない人にならなければ話にならない人とは戦えない、というのが現実


聞き分けのいい人は、話にならない頭のオカシイ人キャラをいつでも召喚できるようにならないと


面倒な人がいつまでも自分に纏わりついてくるだろう


嫌いな人にも嫌われたくないなんて自分の思考が何者かによって破壊されてる証拠だ


嫌いな人には嫌われた方がいいに決まってるじゃないか


自分が離れても相手は嫌がらせする為だけに必ず追いかけてくる


相手に嫌われて(面倒な奴と思われて)やっと嫌いな人が自分から離れて行ってくれる


迷惑以外のなにものでもないが、


嫌われるというマイナスのアクションですら渇望し


嬉々として嫌がらせを延々と続けてくる人が一定数この世には存在する


構ってもらえたり何か反応してもらえるのが嬉しくて仕方がないのだろう


人の誰かと関わりたいという欲はここまでくると恐怖すら覚える


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

ある動画で、


『私が今(たまたま)あなたの言動に対して思考停止してないからいいけどさー』という言葉から始まって、


自分をボコボコに言ってきた人に対して同じようにボコボコに言い返していたのですが(笑)


この考え方(関係)は大事だなと改めて思いました


人と人は本来こういう力関係が望ましい


相手に見捨てられたら自分が困るから必死に相手の機嫌を取って自分を守ろうとするなんて


実家にいる時に嫌という程やり尽くした


もう十分だ


私の機嫌を取れという人は自己主張が控えめな争いを好まない人が大好物だから、ずっと纏わりついてくる


本当に面倒臭い


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

感じの悪い人から学べる(気付ける)ことは2つあると私は思っている


1つは、


その不快に感じる言動を私は人に与えるようなことはしていない


少なくともその一点においては自分は相手と同じレベルではない(その課題は自分はクリアしている)、ということ


もう1つは、


そんな態度をとっても人が離れていくだけ


死ぬ訳じゃない


生きていくだけなら全く問題ないよ


あなたは何をそんなに怖がっているの?


と相手が問題提起してくれているということ


自分の中ではコレはないわーと思ってることが


相手はそうは思ってない、ということ


だから絶対真似しちゃいけないわけじゃない


むしろ相手が許せないなら同じことしてもいい


だって先にこちらがやられているのだから


やり返すのは正当防衛でしょう


残念ながら、やり返されるまで何も学べ(ば)ない人は一定数確実に存在する


どんなに面倒でも自分の時間とエネルギーが惜しくとも、一度は相手に同じ痛みを体験させないといけない


こういう病的な人はこちらが距離を取ると、もっと私の相手をしろと嬉々として追いかけてくるから本当に面倒臭い


こちらが相手にしないことで、いつまでもしつこく纏わりついてくる人は一定数確実に存在する


まぁここまで考えられる人なら、自分の不利になるような愚かなことはしないと思いますが


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

先日、


子どもから見た親の価値を、親という生き物を


その辺に生えてる雑草や石ころと同じ(又はそれらと大差ない)


という考え方も世の中にはありますよ


あなたはこの考え方からどんな気付きを得ましたか?


みたいな問いに思いを巡らせる機会があったのですが、


子どもが『親を特別視しない』ができるようになることは


子どもにとって1つの大きな課題なのだろうと思う


親をいつまでも特別視していてはいけない


世の中に、その人でなければならないことなど何一つない


親という他人にいつまでも大きな力を持たせていてはいけない


親は自分と大差はない


ただ自分より少し早く産まれただけ


たまたまその子の親がその人達だっただけ


『運』という言葉で片付けるにはあまりにも影響が大きい


それが親という生き物


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた

他人と距離を取りたくなる時というのは


その人が嫌いだから、というよりも


人を嫌うのはエネルギーの消耗が激しすぎるから


だからもう今以上にその人を嫌いになりたくない


ただでさえキツイなーと思いながら毎日耐えて頑張ってるのに


もうそれ以上その人の目に見える醜態を見たくない


目に見えない醜態にも一切巻き込まれたくない


だから、距離を取りたい


そして願わくば相手に対して好感を持っていたい


その方が自分が楽だから


目的は相手の為ではなく、あくまでも自分の為


自分を犠牲にしてまで他人を優先するのはお互いの為にならない


赤子ではないのだから自分のメンタルくらい自分で何とかしてくれ


あなたの心が落ち着き、誰に対しても最低限の敬意を持って関わる様を見届けるまでは


私はあなたと関わりたくない


私はあなたの奴隷でもお世話係でもない


あなたの感情の乱れは私のせいではなくあなたの選択だ


という言い方の方が言葉として違和感が少ない気がする


そんなことを思った今日この頃です


訪問ありがとうございました


ではまた