横浜の外国人居留地には、多数の欧米人が居住することとなり、明治12年(1879年)には、現・山下町の全域が市街地化した。欧米人の大多数は貿易業で生計をたてていたが、中には両替商や銀行員、新聞・雑誌の創刊者、洋家具や洋裁の製造業者、ホテル・レストランの経営者などもいた。こうして徐々に居留地は拡大していき、明治26年(1893年)には居留地の人口は1600人を超えた。こうした居留地の発展・拡大は貿易によるものであった訳だが、その貿易の中心は生糸だった。生糸の輸出に関しては、横浜がほとんど独占しており、富岡製糸場でとられた生糸も横浜から輸出された。茶の輸出に関しても横浜が50~60%を占めていた。輸入についても砂糖・綿製品・毛織物を中心として、その大多数が横浜を通して日本国内へと供給されていった。 続く
