八田與一(はったよいち)

1886・明治19年2月21日~

1942・昭和17年5月8日

石川県金沢市出身 

台湾水利の父と呼ばれる水利技術者。台湾では中学の教科書『認識台湾歴史篇』に八田與一の功績が詳細に載っており、台湾人で八田與一を知らない人はいない

八田與一が赴任した当時の台湾はマラリア等の伝染病が蔓延しており、伝染病予防策が重要だった。八田與一も初めは衛生事業に就き、台南・高雄・嘉義などの上下水道整備に当たり、後に灌漑・発電事業を担当。

1918・大正7年 台湾南部の嘉南平野調査を行う。この地域は台湾で広い面積を占めていたが、灌漑設備が整っていない旱魃の危機があった。

そこで八田與一は烏山頭ダムを完成し、嘉南平野一帯に水路を細かく張り巡らした。この水利設備全体を嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼んでいる。この嘉南大圳を承認し、予算を捻出したのが明石元二郎第7代台湾総督である。

1942・昭和17年5月菲律濱(フィリピン)調査の為、八田與一は広島宇品港を「大洋丸」

にて出港したが、五島列島付近にて米軍潜水艦「グレナディアー」により撃沈。八田與一もこの時殉死する。享年56歳。

八田與一の命日である5月8日には毎年烏山頭ダムで慰霊祭が行われている。

2004・平成16年末に李登輝総統は八田與一の故郷、金沢市を訪問

2007・平成19年陳水扁総統は八田與一に褒章令を出す

2011・平成23年5月8日「八田與一記念公園」が八田與一が、ダム建設時に居住していた宿舎跡地に完成。また、同年台南市主要道路のひとつが「八田路」と命名される。

八田與一の功績と存在は台湾で今も生き続けている。 続く