明石元二郎・あかしもとじろう(1864年9月1日・元治元年8月1日~1919年・大正8年10月26日)第7代台湾総督、福岡藩出身

現在でも台湾で尊敬されている明石元二郎は、総督在任中台湾電力を設立し水力発電事業を推進鉄道貨物輸送停滞解消を目的に海岸線敷設した。

台湾人が日本人と平等に教育を受けられる様法律改正し、帝国大学へ台湾人も進学可能にした。

現在も続く華南銀行設立

大正8年・1919年8月台湾総督府から別れ独立軍となった台湾軍の初代司令官を兼務

台湾総督在任1年4か月の大正8年・1919年10月、日本本土へ渡航する海上で発病し、故郷の福岡で他界(55歳)。しかし本人の遺言により遺骨を福岡より台湾に移して埋葬された。

「余の死体はこのまま台湾に埋葬せよ。今だ実行の方針を確立せずして中途に斃れるは千載の恨事なり。余は死して護国の鬼となり、台民の鎮護たらさるべからず」

明石の遺体は台北に埋葬されたがその後人口が増えた為、郊外へ移された。

台湾には現在も「明石会」が有り、明石会の有志の人たちが墓を台北から郊外へ移転して手厚く供養してくれている。だが、日本人の多くはこの事実を知らないし、日本政府も自国民に知らせていない。

明石元二郎総督が今でもなお、台湾で尊敬されている理由は、台湾の近代化に尽力し、台湾に日本の文明を残した事が大きい。 戦後、GHQの日本政策では、この様な素晴らしい日本の先人たちが台湾を近代化へ導いた事実をは教科書に載せたくなかった。 それは今日もなお続いており、教科書にも載っていないし、学校でも教えていない。

            続く