憂鬱な中学校生活。小学校生活は自由でとても楽しかった。

 

それが中学に入ったらやれ制服をちゃんと着ろだの、勉強は毎日しろだの、こんな髪型はダメだの、異性との関係に気をつけろだの、大人たちの束縛が激しくなり僕は息苦しさを感じていた。

 

 それに異性を意識するようになった。小学校高学年あたりから女子は体が大きくなり、僕らより早く成長する。僕は膨らんでいく女子の胸を見ながら、風船みたいに膨らむんだな、ととんちんかんなことを考えていた。今考えると恥ずかしい。若気の至り。

 

 そんな僕も成長期を迎えた。身長は女子を追い越し、わき毛は生え始め、声変わりし、そして、一丁前に女子の体に興味を持ち始めた。女子の制服の下に隠れる肢体。膨らむ想像。女体への羨望。そして、女体という未知との接触、とはならなくて、僕は女子に話しかけることはできず、もちろん手も握ったことがなかった。ああ。悲しい。

 

そんな時、僕はある友達とけんかをした。些細なことだった。中学校のクラスという小さな共同体で、些細なことはとても大きくなる。小さな空間で風船を膨らませたら、すぐに膨張できなくなって爆発する。ボン。僕はクラスで浮く存在になってしまった。

 

僕は徐々に学校に行きたくなくなった。両親は思春期特有の症状であり、誰もが通る道だと言った。でも、僕にとっては切実な問題であり、クラスという小さな共同体は牢獄のような場所だった。僕は学校に行くのをやめた。

 

 そんな僕を慰めてくれたのが映画だった。両親の影響で色んな映画を見た。アクション、SF、サスペンス、あと、ちょっと難しい恋愛映画も。

 

 僕の一押しは『羊たちの沈黙』。主演アンソニー・ポプキンス、役は殺人鬼ハンニバル・レクター。助演ジョディ・フォスター、役は新米女性刑事クラリス・スターリング。アカデミー賞主要5部章を受賞。サイコサスペンスの傑作だった。

 

 僕はハンニバルに魅せられた。鋭い眼光。恐怖を支配する威圧感。ゆったりとした口調。そして、論理的なセリフ。赤く染まるシャツ。恍惚。いつの間にか恐怖は消えて、羨望に変わる。

 

『どうだねクラリス。子羊たちは鳴き止んだかね』

 

 幼い頃、クラリスは子羊を救うことができず心に傷を負った。その傷をえぐるハンニバルの名台詞だ。思い出すだけでも背中に寒気が走る。ぶるぶる。

 

『昔、国勢調査員が来た時、そいつの肝臓をソラマメと一緒に食ってやった。ワインのつまみだ』

 

 クラリスとハンニバルが初めて面会した時に放った名台詞である。ああ。もう夜中に一人でトイレに行けない。

 

 僕はぐいぐいとハンニバルの世界に引き込まれていった。僕はすぐに感化される。興味は模倣に変わり、最後は実践に変わる。

 

 よし。決めた。僕もハンニバルみたいになるんだ。まずは人を殺すんだ。うんうん。

 

 僕はキッチンに向かう。今日は母が休みで家にいるが、いつものように茶の間で映画を見ていることだろう。僕は包丁を握る。これで、いつも口やかましい母さんを包丁で刺すんだ。

 

 まずは母さんにシーツをかぶせる。なにをするのよ、と困惑する母さん。慌てる母さんの腹を刺す。痛い、痛いわよ。叫ぶ母さん。うるさい。いつも口やかましいんだよ。何度も刺す。シーツは赤くなって、ついに母さんは動かなくなる。その後は……。

 

「あんた、包丁を持って何をしているの」

 

 母さんがキッチンに来た。見られた。計画が早々と頓挫する。

 

「いやあ、何でもないよ」

 

「変な子ね。料理でも始めるの」

 

 そう。母さんを料理するつもりだったのだ。

 

「じゃあ母さんは映画を見ているからね。そんなに料理をする気持ちがあるなら、夕飯の準備をお願い」

 

 母はコーヒーを作ると、すぐさま茶の間に向かった。

 

 今しかない。僕は包丁を背中に隠して、茶の間に向かった。

 

 母は『ジョージャックによろしく』を見ていた。ブラット・ピットとアンソニー・ポプキンス共演のヒューマンドラマだった。

 

「アンソニー・ポプキンスが出てる」

 

 僕は茶の間で立ち尽くした状態で呟いた。

 

「そうよ。でもね、ブラット・ピットがカッコいいのよ」

 

 母さんはうっとりしている。

 

「でも、アンソニー・ポプキンスって、どの映画に出ても『羊たちの沈黙』のハンニバルに見えちゃうのよね」

 

 母さんが呟く。

 

「だよね。僕もそう思う」

 

「あんた、いつの間に『羊たちの沈黙』なんていう物騒な映画を見たのよ。あんた、影響を受けやすいんだから、変なことを考えないでよ」

 

 ドキリ。

 

「でも、名優よ、彼は色んな役をこなすのよ」

 

 僕は母さんと一緒に『ジョージャックによろしく』を見た。アンソニー・ポプキンスは全然怖くなかった。とても優しい。あれ。イメージと違う。

 

「でも、みんな役柄をもって、演技をしているようなものだわ。私はあなたの母親、そして、あなたの父親の妻、会社に行けばパートのおばさん、夫の実家に行けば嫁。役柄が多くて大変よ」

 

「母さんはカメレオン俳優だね」

 

「おほめの言葉ありがとう」

 

 母は自慢げに言った。

 

「そして、あなたは思春期の男子を演じてる真っ最中よ。あと、数年もしたら、今の悩みなんか吹き飛んで、彼女なんかが出来て、今度は恋愛ドラマの主人公になるんだから」

 

「そんなものなの」

 

「そんなものよ。だから時が経って、今の役柄が終わって、学校に行きたくなったら、その時に行けばいいのよ」

 

 僕はちょっと泣きたくなった。僕は学校が嫌になって逃避した。そして、憧れのキャラクターになってさらに逃避しようとした。でも、人には役柄があるらしい。どう頑張っても母さんを殺せない。ハンニバルは僕の役柄じゃあないんだ。僕は結論を出した。

 

 

 僕はアンソニー・ポプキンスにはなれそうもない。