見ることを手放す | でこぼこな私をおもしろがってみる

でこぼこな私をおもしろがってみる

子供のときにSJSという難病にかかり、後遺症で視覚障害があります。
どんな自分もまるっと受け止めながら、おもしろがりながら笑って生きたい。そう願いながら綴っています 。

こんばんは。



まりこです。



私は
見よう見ようとしていた。



人より視力が弱いこの目で
見よう見ようとがんばっていたんだと思った。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


私が毎朝聴いている
こんな言葉があるんです。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


なにかをしようとすることをやめてみましょう。



見ようとすることも
聴こうとすることも
呼吸しようとすることも。



見ようとしなくても勝手に見えてくるもの
聴こうとしなくても勝手に聴こえてくるもの
呼吸しようとしなくても勝手に起きてくる吸う息と吐く息に気づいて
ただそれを味わってみましょう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


私は視覚障害者です。



まったく見えないわけではないけど
普通に見えている人に比べたら
見え方はすごく弱い。



見えるものよりも
見えないもののほうが多い。



だから
なにかを見ようとするときは
基本がんばらないといけない。



がんばってがんばって
見えるときもあるけど
どんなにがんばっても
とうぜん見えないときもある。



それでも私は
ひとつでも見えるものを増やしたくて
無意識にがんばってがんばって
目を酷使して
見よう見ようとしていた。



でも
瞑想中に
見ようとすることをやめて
見ようとがんばらなくても勝手に見えてくるものをぼやーっと眺めていたら
(その日は目を開ける瞑想だった)
私は見ようとしなくても
ちゃんと見えるものがあるんだと思った。



あそこにテレビがあるとか
あそこにテーブルがあるとか
あそこにベッドがあるとか。



視覚障害者だから
見えない
見えない
見えない
ない
ない
ない。



普段は「ない」に意識が向いていたけど
確実に言えることは
「ある」も存在していたということ。



頭ではわかっているつもりだったけど
「足りない」に意識が傾いていた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


もうこのままでいいんじゃないか。



見えるものを増やそうとしなくていいんじゃないか。



見よう見ようとがんばらなくても
勝手に見えてくるものだけに身をゆだねていいんじゃないか。



外を歩いているときに
ふとそう思いました。



外を歩くとき
私はがんばってがんばって周りを見ていたんですよね。



人やものにぶつからないように
人がいたりものがあったらちゃんとよけられるように
へんなところに落ちないように。笑



もちろん
神経を集中させて歩くのは
安全のためにとても大切なことだけど
視力の弱い私には限界がある。



だから
そのために白い杖を持ってるんちゃうの?



ブログにちょこちょこ書いているけど
数年前まで
私は抵抗があって白い杖が持てなかった。



でもすこしずつ持てるようになっていって
抵抗感がゼロになったわけではないけど
それよりも
やっぱり安心のほうが大きくなってきている。



いま思えば
当たり前なんやけどね。



でも
そうやって杖を持つようになってもなお
私はがんばってがんばって
見えないものを見ようとしていた。



それをもう
やめていいのかもしれない。



見えているだれかと一緒ならべつだけど
見ようとせずにひとりで歩くのは
私にとってこわいことだったけど
見ることを手放すと
逆に外を歩くのがらくになった気がするんですよね。



人やものにぶつかってしまうこともあるし
迷惑をかけてしまうこともあるけど
周りの方々に気づいてもらいながら
手を貸してもらいながら
見えなくても安心して歩いてみよう
最近そう思えるようになってきています。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


見ようとがんばることは
わるいことではないと思います。



状況によっては必要になることもあるし
ぜったいに見てはいけないということではないし
目や体と相談しながら
これからも見ることを楽しんでいきたい。



見ることを手放すのがこわい気持ちも
ひとつでも見えるものを増やしたい気持ちも
あっていいと思っている。



ただ私は
見ることを手放すことは
自分から大切なものをうばうことのような気がしていたし
だからこそ
見よう見ようとがんばっていた。



うばわれないようにがんばるって
しんどいよね。



がんばって得ようとしなくても
がんばって掴みにいかなくても
ここにあるものだけで
安心していていいんだという感覚を大切にしたいです。



わかりづらい文章だったかもしれません。



読んでくれてありがとう。



おわり