一生忘れないひな祭り | でこぼこな私をおもしろがってみる

でこぼこな私をおもしろがってみる

子供のときにSJSという難病にかかり、後遺症で視覚障害があります。
どんな自分もまるっと受け止めながら、おもしろがりながら笑って生きたい。そう願いながら綴っています 。

こんばんは。

まりこです。



ひな祭りですねー。




今日は
昨日の暖かさに比べたら肌寒いですが
外を歩いていたら春の匂いがしました。

春の匂いってありますよね。

新芽が芽吹いている匂いなのかな?

春はもうすぐなんですねー。





私は
31年前のひな祭りに
スティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)という病気で入院しました。

7歳の時でした。

今日は
その時のことを書こうと思います。

発症した時の症状を書くので
気分が悪くなりそうな方は読まないでくださいね。





SJSは主に
薬の副作用によって発症する免疫疾患で
国が指定する難病です。

ちなみに私は薬を飲んでいなかったので
発症の原因はわからないままです。


ひな祭り前日
学校から帰った私は
「おしっこをするところが痒い。」
 そう母に訴えたそうです。

母が見てみると
そこに小さな発疹がぷつぷつと出ていたそうです。

そして
小さな発疹は唇にも出ていました。

母はすぐに
私を連れて近所の病院に行きました。

そこで血液検査をすることになったのですが
私が泣いて検査をさせなかったようで
その日は帰って様子を見ることになりました。

ところが
その晩から高熱が出たので
翌朝また同じ病院に行きました。

先生から別の病気の可能性を指摘されたのですが
「どっちにしても大きな病院に行ってください。」
と言われ
近くの大学病院に行きました。

この時
SJSという病気は今よりもまだまだ珍しくて
早く診断してもらえなかった患者さんもいたようですが
私が行った大学病院の先生は
この病気の患者さんを診たことがあって
私は即SJSと診断してもらうことができました。

その日から私は
半年間の入院生活を送ることになります。


41度を超える高熱と
全身の皮膚と粘膜に
発疹と水ぶくれが出て
それが10日以上続きました。

絶対安静と絶食の日々でした。

私は
この時の記憶はほとんどありません。

母の話では
自分で点滴の針を外そうとしたり
母に
「自分の顔を鏡で見せてほしい。」
と訴えたりしたそうです。

でも
この時の私は
頭の先から足の先まで
もちろん顔も
口の中までもが大やけどしているような状態で血だらけになっていたので
とても見せられるような顔ではなかったのです。

だから母は
「見ないほうがいいよ。」
と私を説得したそうです。

でも何となく覚えているのは
母が泣き顔で私の顔を覗き込んでいたこと。

その母に私が
「まりちゃん死なへん?まりちゃん死なへん?」
と泣きながら何度もきいていたこと。

それに対して母が
うんうんとうなずいていたこと。

その後ろで
父が心配そうに立ち尽くしていたこと。

きっと
どうしてあげたらいいのか
どう声をかけてあげたらいいのか
わからなかったのだと思います。

ある日突然
娘がこんなことになって
母はもうわけがわからなかったと言っていました。

主治医から
「この病気は4人に1人は亡くなります。
今までこの病院に3人のSJS患者が来ました。
娘さんは4人目です。」
そう言われたそうです。

母は
「あんたを屋上に連れて行って一緒に飛び降りようかと何度も思った。」
と言っていました。


私は
全身が痛くて痛くて
体を洗ってもらう時や
おしっこをする時はもう激痛で
泣き叫んでいた記憶もうっすらあります。

担当の先生が病室に入ってくると
体を触られたり
薬をつけられたり
痛いことをされるのがわかっているので
「出ていけー!」
と先生にえらそうに言っていたのも覚えています。

それから
目のまぶたがくっついて開かなくなってしまったので
他の病院から眼科の先生が来てくれて
くっついていたまぶたを開けてくれました。

むりやりこじ開けたわけですから
痛みでそれはそれは泣き叫んでいたようですが
私は覚えていません。

この処置によって
まつ毛は全部抜け落ちて
角膜も剥がれてしまったのですが
先生が無理にでもこじ開けてくださったおかげで
私は今目を開いて見ることができているのだと思います。

開かないまま放っておいたら
一生開かなかったと思います。


入院してから2週間ほどで
熱は下がり
少しずつ動いたり食べたりできるようになっていきました。

私の体は
一気に燃え上がった炎が鎮火したような感じだったので
全身にやけどのような跡がたくさん残りました。

ステロイドを大量投与したので
副作用で10円玉くらいのハゲがたくさんできました。

手と足の爪も全部剥がれました。


症状が落ち着いてしばらくして
大部屋に移り
長期入院している子供のための院内学級で勉強していました。

大部屋に移ってしばらくは
母が帰ってしまうのが寂しくて毎日めそめそ泣いていましたが
同部屋の子と友達になり
最後のほうは退院するのが嫌だと思うくらい楽しい入院生活になっていました。

看護師さんとも仲良くなって
よくナースステーションにじゃまをしに行っていました。笑

だいぶ元気になった頃には
週に1回外泊することもできるようになっていました。

そして
8月に無事退院することができました。


毎年
ひな祭りになると
「もう○○年になるんかー。」
そう母と言い合っています。

私にとってひな祭りは
忘れられない日になりました。

あの日から
私の人生は変わりました。

家族の人生も。

たくさん心配をかけました。

たくさん苦労をかけました。

私が病気になったことで
いろんな人に心ないことも言われていました。

当時中学生だった私の兄は
私が入院してから母の実家に預けられ
そこから通学していました。

私が病気をしてから
両親はずっと私につきっきりになりました。

兄が不満を言っているところは見たことがないけど
きっとたくさん寂しい思いをさせていたと思うし
親に甘えたくても甘えられなかったと思います。

でも
ひな祭りという日は
大変な病気はしたけど
私は今生きているのだなと
母手作りのちらし寿司を食べながら
そう強く感じられる日です。

正直
生きているのが辛い
苦しいと感じる日もあります。

でも
自分が生きていること
生かされていることを教えてくれる
ひな祭りという日を毎年迎えられることに
幸せを感じています。


31年前のあの日
学校の給食でケーキが出たのです。

入院した3月3日だったかどうかは忘れましたが
担任の先生がそのケーキをうちに持ってきてくれました。

私は
そのケーキを食べたい食べたいと言っていた記憶があります。

母に
「いつ食べられる?」
ときくと
母は
「元気になったら食べよう。」
そう答えてくれていた気がします。

すぐに良くなって家に帰ることができる。

そして
先生が持ってきてくれたケーキを食べることができる。

そう信じて疑わなかったけど
まさかそのケーキが食べられないなんて
まさか生死をさまようことになるなんて
まさか半年も入院することになるなんて
まさか人生がこんなに変わってしまうなんて
子供の頃の私には想像もつかなかったでしょうね。



1月からブログを始めて
ちょうどいい機会だと思ってこの記事を書きました。

書きながら
何度か泣きそうになりましたが
こうして改めて
文字にすることができてかったです。

退院してからのことは
次のブログで書きたいと思います。





今年も作ってくれました

美味しかったおねがい



最後まで読んでくださって
ありがとうございました。