小学2年生の夏休み―
父が、私が8歳になったから・・・と言って、
家族を広島の原爆資料館に伴い、
江田島の「特攻隊資料館」を
旅程に入れた。
コロナの時代に入った今年。
「自己犠牲」の両義性についても考えるようになり、
あのときの、
幼心に刻みつけた感覚が
核になって息づいていることが感じられる。
他者や目的のために
自分を投げうつ尊さの一方で、
国や組織に、
滅私奉公して
バーンアウト、特攻する側面について―
あれから22年経って父と向き合って、
今の私が戒めるのは、
「犠牲」を美化して終わらないこと―
自然の摂理に依って立ち、
生かされた自らの、限りあるこの生を、
次のいのちのために使う。
例えば
植物が、その個体の死としての
収穫の時を迎え、
その一粒の種が、地に蒔かれ、
やがて芽吹き、成長し、豊かな実りにつながるように―
種火から炎が拡がるように―
「滅私」ではない、思いも受け継がれていくこと。
「個」がその存在を尊重され、
大切にされ、
愛されて
命を全うし、
その個人の意思が
何らかの形で遺される自己犠牲であること。
父が、
「江田島」に込めた私へのメッセージ。
またね![]()
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