ちょっと遠くのお店に行くために、普段と違う道を走ったら、割と広めの墓地があって

「あれってお墓?」と子供に聞かれて

「そうだよ」と答える。

元気なさそうな子供。

「どうしたの?」と聞くと

「ママも死んだらあそこに入るの・・・」

「・・・そうだね。(お墓が買えたら。まず、焼かれてからだけどね。焼かれて骨になると・・・いつか教えよう・・・。)」

「ママが死んだら毎日お祈りに来よう。」

「・・・(まだ死なないと思うけど)。何をお祈りに来るの?(願いは何なんだろう?)」

「ママが生き返りますようにって」

「・・・。」

自分が死んだ後に、毎日そんなことを願われにお墓に来られたら、切ないなぁ。

運転しながら、涙を堪えるのに精一杯になってしまって。


私のことを大好きな子供。

今まで、良好な親子関係と自負していたけれど、子供を残して死ぬことが、恐くなりましたね。

私は自負の母親を毒親と思っているし、一緒には暮らしているけど、不満も多いし、母が死んでも、「順番」くらいにしか思わないかもしれません。

自分は母とは違って良好な親子関係を作り、いい母親になれるかなと思っていたけど

いい母親で、子供の拠り所になってしまったら、病死、事故死、老衰した時、どうしたらいいんだろう?


最近、死というものを考えるみたいで、

自分もいつか死ぬの?死にたくない!とか

子供の次はママ、ママの次はおばあちゃん、おばあちゃんの次は死ぬ、とか

ママが死んだら私も死ぬとか

心配になるようなことをぼちぼち言っています。


私も、自分が死ぬのは別にいいんだけど、

この子が死ぬ時に、もし一人で苦しんでいたらどうしようかと思うと

出来るだけ長生きしたいなとも思います。

これからの人生で、良い人と出会って貰って

ママ一番から、ママ圏外になるといいなとも思います。

死ぬ間際、悪態をついたり、距離を取ったり、嫌われるように振る舞う人の話があるかと思いますが、気持ちが少し分かる気がします。



周りが出来ることを自分だけ出来なかったり、

いつも誰かに助けてもらわないと出来ないことが、

本当に辛く感じてしまう。


今まで、不自由に歩いている人を見ても、車椅子の人を見ても、何も思わなかったのだけれど、

今は声をかけたい。


周りがしていることを、一人だけうまく出来ない出来ないでいることに、

苦しさを覚えてしまうのは差別でしょうか?

健常者の中に1人だけ障害者が居て、

障害者の皆と遊んだ方が楽しいんじゃない?って思うのは差別でしょうか。

居場所が違うんじゃと思うのは、間違いなんでしょうか。


走れる子が走って遊ぶのを、叱れない。

じゃあ、走れない子が一人参加出来ないでいるのは普通?

そこが痛く痛く感じてしまって

走れない子は走れない子たちと遊んだらいいんじゃないの?って。


差別ですか?

見たくないものを見ないようにしようとすることは。

自分だけ出来なくて、その待っている出来ない時間は、

本人と見守る人と、どちらが辛いんだろう。

分かってきましたね。

幸せなふり、だ。


どう考えても不幸なのに、

今ある幸せを大切にしようとか、

生きてるだけで丸儲けとか、

自分への励ましがひしひしと痛みに変わってたんですね。


あー、もう、最悪。

って言ったら楽になりますね。


誰かに何か言われたら、

私の人生最悪です!って言おう。

自信を持って、本当に嫌です!って言おう。

モヤモヤが消えますね。

もう、こんなところまで来てしまったのかという恐怖。
恐怖?後悔?苦痛?

人生の帰路に立たされた時に、選んだ道。
予想していた通りのどぶ道。
多分、死ぬか、この道かしかなかったと思っていたし、
今もそう思っているから、この道しかない事は確か。

戻りたい戻りたいと思いながら
無理矢理に笑顔を作って幸せなフリをしている。
周りがどう思ってるか分かりませんが、
私には自覚ありますよ。
やめられるなら今すぐやめたいわ。
逃げ出したい。

今日、本屋さんに行って、自律神経に効く音楽みたいのが売っていて。

ヒーリング系の音楽、聴いたことないかもとちょっと見たんですが。


恐怖だの、迷いだの、からの解放の音楽みたいな。


うん。


絶対、椎名林檎聴いた方がすっきりするし、安定すると思いました。


ただ、ひたすら自分の感性を信じて、好きなものは好きなだけ、後悔も好きなだけ、傷だらけで感情全開が、とても心地よいのです。